カタリーナの天使

 あの時の記憶はぼんやりとしつつも、最後に見た相手の顔ははっきりと覚えている。小型ボートに乗せたレブの名を何度も呼んだが、彼はただ唸るだけで返事をすることはなかった。

 レブが目を覚ましたのは、ボートの燃料がなくなり座礁した大型のボートから燃料を拝借していた時。「アビー?」とただ一言私の名を呼び、その小さな頭を抱えるように抱き締めると血の匂いがした。それが自分の物かレブの物だったのかは分からない。

 私もレブも体力はほとんどなく、いまこの状況が長く持たないことも分かっていた。水も食料も傷を手当てする医療道具もなにもない。私たちはファイアフライの基地があると聞いたカタリーナ島へと急いだ。

 島が近づいてきた時、海岸沿いに大きなドーム型の建物が見えた。あれが無線で言っていた物で間違いないだろう。そう思いながらボートに横たわったままのレブの顔を覗き込み声をかける。

「レブ、もうすぐだよ。しっかり」

 気持ちが焦り、ボートのスピードを緩めずに砂浜に突っ込む。先端が砂を持ち上げつつ突き刺さり、そのまま動きが止まった。レブに肩を貸しボートから一緒に降りると、ただひたすらに建物に向かって歩き出す。

 早く、早く。ただその思いだけで頭がいっぱいだった。遠くに見えるドーム型の建物しか視界に入ってこず、レブの体も自分の脚も、引きずるようにひたすらに前に進み続けた。

「アビー……、あれ……」

 耳に微かなレブの声が聞こえる。どうしたのかと思い彼の顔を覗き込むとただ一点を見つめており、それは建物だけを見ていた私とは違い別の方向を見ているようだった。

「なに、どうし……」

 どうしたの?そんな言葉を発しようとした時だった。私は早く建物にたどり着きたいという気持ちだけでいっぱいになり、目の前の物がなにも見えていなかった。レブがまっすぐ見ていた先、私たちの目の前には一人の女性が立っていた。

「あ……」

 何と言ったらいいか分からず言葉にならない声が出る。目の前に立っている人物は女性と言うより少女に近いかもしれない。少なくとも自分よりは年下で、レブよりは少しだけ年上に見えた。始めこそ驚いた表情でこちらを見ていたものの、その眉間に深い皺が寄っていく。突然目の前に見知らぬ二人の人間が現れれば同然だろう。敵なのか味方なのか、それこそ本当に“人間”なのかも分からないのだから。

「わ、……私たちは敵じゃない。その……ファイアフライを探してる」

 ファイアフライ。その名を出した時に少女の目の色が変わり、大股でこちらに近づいてきた。攻撃されるのかと思い、私は目の前に手を出して後ずさりながら距離を取る。

「待って!無線の記録が残ってるはず!サンタバーバラから……」

「アビーでしょ?」

 言葉をかき消す様に少女が声を重ねた。その声色は落ち着いていて優しく、敵意の欠片も感じない。急に自分の名を呼ばれた事に驚き返事も出来ずに居ると、少女はレブの腕を取って肩を貸し、私たちの体を引き離した。

「彼は私が運ぶ。着いて来て」

 少女はそれだけを言うと、こちらを見る事もなく前を歩き出した。


 カタリーナ島にあるファイアフライの拠点はドーム型の建物、通称『ドーム』にあった。水や食料をはじめ医療道具も豊富にあり、私たちは医療的処置をする部屋に運ばれ簡易ベッドに寝かせられた。口や鼻からこぼれた血で顔中が汚れており、その固まった血を清潔な布で拭いてくれたのはあの少女だった。

「ひとまず怪我の処置が先だから、話は後にしよう。落ち着いたらリーダーをここに寄越すから」

 少女はレブの顔を拭きつつ、まるで独り言のように言う。その言葉は自分に向けられているのだと分かっていた私は、小さな声で「わかった」と返事をした。少女はこちらを見ると両眉を上げどこか満足そうな表情をした後、持っていた血にまみれた布を近くにあったバケツに放り投げる。

 彼女は医者なのだろうか?一瞬そう考えたが医者にしては若すぎると思う。こんな状況なのだから医者であることに年齢など関係はないのだろうが、それにしたってレブと年が変わらないように見える少女だと言うのに。

 しかし、その疑問を本人にぶつける気はなかった。彼女の手際は良くとても適切なように見える。先程聞いた“リーダー”とやらに聞いても遅くはないだろう。

 まるで気絶するかのような睡魔に襲われ、気が付いた時には夕方になっていた。窓から差し込むオレンジ色の夕日が視界の端に移り込む。いま何時だろう。そう思い、痛む体をいたわりながら首だけを動かして周囲を見た。

「アビー……?」

 すぐ隣からレブの声が聞こえた。そちらに顔を向けるとぼんやりとした表情をしたレブがこちらを見ている。その顔を見た時に安堵の気持ちで胸が満たされ、目の奥が熱くなった。レブは私の顔を見ながら何故かとても不思議そうな表情をしており、その顔が可笑しくて思わず吹き出す。

「なんて顔してんの」

「僕たち……助かったの?」

 問いかけに「そうだよ」と返答すると、レブは軽く笑い大きな溜息をもらした。彼に触れたいと思い腕を動かそうにも痛みで上手くいかない。傷が回復したらめいっぱい抱き締めよう。そう考えていると続けざまにレブが言う。

「僕……、もう死んだのかと……。神のつかいが来たと……思ったよ」

「神のつかい?なにそれ」

 レブは弱く瞬きをし、小さな声でゆっくりと話す。時折その小さな眉間に皺が寄り、何かを考えているような、思い出そうとしているような表情を見せた。

「アビーたちが使う言葉では何て言えばいいんだろう……。死んだときに天から迎えに来る……人、みたいな……」

「ああ、もしかして天使のこと?」

 “死んだときに天から迎えに来る神のつかい”といえば“天使”で間違いないだろう。そのようなものに馴染みのない彼には“天使”という単語が出てこなかったようだった。死の間際で見る姿がヤーラでも“あの方”でもなく、まさか天使とは。

「ふーん。あんたでも天使を見るんだ。サンタバーバラからここに来るまでに見たの?」

「ううん。違う。さっき見たんだ。手当てしてくれた、天使みたいな……女の子……」

 レブの言っている言葉の意味が良くわからず、変な夢でも見たのだろうと思ったがすぐに思い直す。「さっき見た」「手当てしてくれた」「天使みたいな女の子」。レブが言っている人物があの少女だとすぐに分かった。

「僕、知らなかった。天使ってすごく、綺麗なんだね」

 まるで独り言のように小さく呟いたレブの顔は至って無表情で、その言葉に何の意図もないという事が良くわかる。

 レブは少し天然なところがある。気持ちが高ぶってワクワクしている時に「ゾクゾクしてきた」と言えば「風邪でも引いたの?」と言ってくるような子だ。自分の手当てをしてくれた年の近い少女を“まるで天使のように綺麗だった”だなんて、まるでどこかの誰かが女を口説き落とす時に使うセリフのようだが、レブにそんな意図は微塵もない。

「えっと……、あのさレブ。そのー……、天使がどうだとかの話、まだ本人にはしちゃダメだよ」

「え?どうして?」

「どうしても!これはあんたのためを思って言ってるの。せめてその天使と友達になってからにしな」

 たとえレブに下心がなかったとしても、それを聞いた相手がどう思うかはなんとなく分かる。出会ったばかりの男に“君はまるで天使のように美しかった”とでも言われれば眉間に皺を寄せる女の方が多いだろう。

 私の言葉を聞いたレブは少しだけ考え込むように天井を見つめ、小さな声で呟いた。

「なれる……かな?あの子と、友達に」

 ほんの少しだけ不安そうに見えたその横顔に、とてつもない愛おしさを感じた。痛む腕を伸ばしレブの額に手を乗せると、少しだけ乱暴にその短い髪を撫でる。

「あんたならなれるよ」

 そう言って笑うと、レブはこちらを見るなり同じように笑って見せた。