スコーピオ
彼女が優しい性格だということはもう何年も前から知っている。人から頼まれごとをされると断れずにいるその姿を見るたびに少し心配にはなるが、そこも魅力のひとつだと思っていた。そう、昨日までは。
今夜、さんはぼくの知らない男と食事に行く。仕事の関係者だという相手から一度でいいので二人っきりで食事をしたいと頼み込まれ、それを断り切れなかった結果だった。さんは食事を終えたらすぐに帰ってくるということや、不純な気持ちは一切なくただ本当に食事をするだけだと強調していた。それを聞いたぼくは聞き分けの良い恋人のふりをしつつ、内心“きみになくても相手にはあるだろう”と考えていた。
「帰りはあんまり遅くならないとは思いますけど……、先に寝てても大丈夫ですからね。あ、玄関の電気はつけておいてください」
さんは優しい声でそう言いながらクローゼットを開けると、中からくたびれたデニムと真っ白なシャツを取り出した。家を出ると言っていた予定の時刻まではあと三十分ほど。どうやら服装もヘアメイクも気合を入れるつもりは毛頭ないらしく、ぼくはどこかホッとする。自分以外の男のために着飾る恋人の姿など見たくはないのは当然だろう。
「本当に行くんですか」
出掛ける用意をしている後ろ姿を見ていたら無意識に声が出ていた。さんはこちらに振り返り少しだけ驚いたような顔をしていて、ぼくは自分で言ったことを後悔する。黙り込んでいると、さんはシャツの上に着るのであろう地味な色のジャケットを両手で持ち、ぼくを見つめながら言った。
「……ごめんなさい。でもご飯を食べたらすぐ帰ってきますし、もしかしたら仕事関係の大事な話かもしれませんし、了承してしまったからには行かないと失礼ですから」
謝罪からの丁寧な言葉での丁寧な言い訳に、胸の奥に小さな火花が散る。ぼくは足早に近づくと、さんの背後にあったクローゼットに大きな音を立てて手をついた。ああ、こんなことをしたらクローゼットの扉が壊れてしまう、なんてまるで他人事のように思いながら顔を近づける。
さんの綺麗な瞳の中に自分の姿が映っていた。とても美しい色のはずなのに濁っているように感じ、汚く見える。ドロドロとした色と心に支配され自分が自分ではなくなるようだ。“行かないでください”だなんて言いたくはない。そんなんじゃ生ぬるい。
「行かせませんよ」
バサリ、という音が響く。さんが両手で持っていたジャケットが床に落ちた音だ。それはまるで潰れ死んだ虫のように見えて胸の奥がざわついて仕方がない。居心地の悪さをごまかすように、目の前にある小さな肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。さんが家を出る予定の時刻まであと二十五分。それまでずっとこの手を離したくない。離すわけにはいかないと思った。
彼女の優しさは毒だ。穏やかで美しい心の中身はある種の毒で満ちている。そんなさんの毒牙にかかっているのは自分だけでいい。視界が歪み脳がしびれ心臓がうるさくなる。触れたくてたまらなくなる。そんな風になるのは他の誰でもない。ぼくだけでいいんだ。