置き去れぬハンカチーフ

 例えばぼくが不埒で軽い男になりきれたなら、彼女の隣に居るのは自分だったかもしれないと考える。ぼくの知らない男に傷つけられて泣いている彼女の泣き顔を見て“これはチャンスだ”だなんて思える人間に、ぼくもなれれば。

「あ……」

 聞き慣れた擦れた声が狭い部屋に響く。膝を抱えるように俯いていたさんはぼくの姿に気が付くなり目線を上げ、まるで「しまった」というような顔をした。散々泣いた後なのだろう。頬は涙で濡れ切って部屋の少ない光源を受けて輝いている。

「すみません。マクワさんにお見苦しい所をお見せして」

 手で頬を乱暴にこすりながらさんは言う。ぼくに泣き顔を見られるのが嫌ならばこんな所で泣くようなことしないで欲しいと思うが、口には出さない。

 さんの「お見苦しい」という言葉。泣き顔すらも美しいと感じているのに、その涙が自分ではない他の男のために流されたものだという点は確かに見苦しいかもしれない。いや、見苦しいのはその泣き顔ではなくぼくだ。そんな風に暗く汚らしい捻じ曲がった感情を持つ、ぼくだ。

「謝らなくても良いですよ。泣いている女性を責めるなんて真似はしませんから」

 ぼくは上着のポケットからハンカチを出すとさんの目の前に差し出した。申し訳なさそうな顔をして再び「すみません」と小さな声で言いながらハンカチを受け取る彼女を見ながら“そこはすみませんじゃなくてありがとうだろう”とぼんやり思う。

 渡したハンカチで濡れた頬を拭いたさんは少し落ち着いたようで、腫れぼったくなった口唇でフゥと息を吐く。ぼくはその隙にハンカチをかすめるようにひったくりポケットに戻そうとした。

「それ、洗ってお返しします」

 まるでぼくの行動を咎めるような声だった。さんの大きな瞳と目が合いまつ毛がしっとりと濡れている事が分かる。まだ涙っぽい瞳の表面に自分が映っているような気がした。

「大丈夫です。これはもう捨てますから」

 なるべく低い声で言うとぼくはハンカチをポケットに押し込んだ。「捨てる」という単語は冷たすぎるだろうかと考えたがもう遅い。さんは先ほどと同じように俯き、再び「すみません」と口にする。謝罪の言葉なんかこれ以上は聞きたくないと、彼女の顔を見ないようにしながらそのまま部屋を出た。

 誰も居ない静かな廊下にドアが閉まる大きな音だけが響く。歩き出した途中にゴミ箱を見つけ、ポケットに手を突っ込み先ほどのハンカチを取り出そうとして、やめた。

 例えばぼくが不埒で軽い男になりきれたなら、さんの隣に居るのは自分だったかもしれないと考える。あの震える小さな肩を引き寄せて「おれにしとけよ」なんて、まるでドラマや映画みたいな台詞、自分には口が裂けても言えるはずがない。

 彼女の涙に濡れたハンカチすら捨てられないぼくにも、いつかこの想いを捨てられる日がくるのだろうか。