ホットチョコレート
マクワさんは有名人だ。特に女性からの人気は高く、毎年バレンタイン近くの時期になるとキルクスジムには大量のプレゼントやメッセージカードが届く。物ならばまだ良いが食べきれない量のお菓子が送られてくるため、マクワさんはファンに向けていつも「お気持ちだけで嬉しいです」などというメッセージを発信しているが、やはりイベント事にプレゼントを贈りたくなるファン心理は理解できる。
バレンタインはなんとなく憂鬱だ。たくさんの人から愛されているマクワさんの姿を見るととても誇らしく尊敬できる存在だと再認識するのに、何故か胸の奥がモヤついて仕方がない。恐らくそれは私が彼との住む世界の違いを明確に見せつけられて自己嫌悪することと、マクワさんにバレンタインの贈り物をして自分の想いを伝える勇気が私にないからなのだろう。
日付はいよいよ2月14日のバレンタイン当日。最後の駆け込みと言わんばかりにキルクスジムには次から次へとプレゼントが届きだし、ジムの裏口近くにある荷物搬入口は大量の段ボール箱や紙袋で埋め尽くされる。私はなんとなくそれを気にしないようにしながらいつもと同じトレーニングにいそしんだ。
いつもより気持ちも体も重いと感じていた一日が終わり、同時にバレンタインももうすぐ終わる。明日からはまた何の変哲もない日常が戻り、プレゼントが届く事もないだろう。そこまで考えた所で自分の性格の悪さを自覚し、頭を抱えてため息をついた。
「さん、お疲れ様です」
マクワさんの声だった。頭を抱えた際に目線を落としたため、すぐ目の前にいたその姿に気付かなかった私は驚き、急いで目線を上げて彼の顔を見た。
「マ、マクワさん。お疲れ様です」
慌てたせいで彼の名前を噛んでしまい、それを誤魔化すように素早くお辞儀をしすぐに頭を上げる。マクワさんはサングラスを少しだけ下にずらし外しながら、私の顔をジッと見て言った。
「ぼくの気のせいなら良いんですが、なにかありましたか?」
「え?」
「いえ、少し元気がないように見えたので」
思わずぎくりとし肩が揺れた。マクワさんはとても礼儀正しく気配りが出来る人だ。このジムに所属しているトレーナーの事も良く見ているし良く知っている。それゆえに、薄汚れた思考により自己嫌悪に陥っていた私の様子を“いつもと違う”と感じたのだろう。
なんだかとても申し訳ない気持ちになった。自分勝手な感情で自分勝手に憂鬱になっていただけなのに、そんな私をもマクワさんは心配してくれている。
「……大丈夫です。ご心配かけてすみません。失礼します」
小さな声でそれだけを口にした。声が震えていなかったかどうかとか、ちゃんと言葉に出来ていたかどうかなどは分からない。ドロドロとした暗い感情に支配され、自分で自分が更に嫌いになりマクワさんの顔を見ていられず、早くここから立ち去ってしまいたいと思った。
「待って」
はっきりとしたマクワさんの声が聞こえ、彼の大きな手が私の腕を掴んだ。その場から去ろうとしていた私の体はその場に止まり、腕を引かれるままにマクワさんの方向へ少しよろめく。
「あなたはぼくに……何もくれないのですか?」
何を言われたのか分からなかった。マクワさんの顔を見返しても彼はただ穏やかに笑うだけで、いつも見ているサングラス越しの瞳とは違う、優しい色が私を包み込むように見つめる。
「何もくれないのですか?」というマクワさんの言葉を頭の中で繰り返した。だって彼は数えきれないくらいのプレゼントを貰っただろう。私はバレンタインの贈り物をして想いを伝える勇気がない自分に嫌悪したが、あのきらびやかで美しいプレゼントの山を見て尻込みするなと言うほうが無理な話だし、いまさら私に何が贈れるというのか。
「わたし、何も……何もありません。すみません」
情けなさを感じ、なんだか泣きたくなってくる。目の奥が熱くなってきたのを誤魔化すために瞬きを繰り返したが無駄な抵抗で、私は表情を隠すためにマクワさんから目をそらしてうつむいた。せめて日ごろの感謝の気持ちでもしたためたメッセージカードでも用意すれば良かったと後悔しても遅すぎる。
足元が少し暗くなり、マクワさんが一歩こちらに近づいてきたことが分かる。俯いたままの私の口元に彼の大きな手が伸びてきて、顎に指先が触れるとそのまま顔を上げさせられた。再び私たちの目が合い、視線が絡み合う。
「じゃあ、今から日付が変わるまで、あなたの時間をもらいます」
マクワさんはにっこり笑ってそう言った。“時間をもらう”?“日付が変わるまで”?察しの悪い頭でその言葉の意味を考え、顔がカッと熱くなるのが分かった。自分の腕時計を確認すると時刻は20時過ぎ。日付が変わるまで3時間と少々。それが短いような長いような不思議な気持ちになってくる。
赤くなっているであろう私の顔からマクワさんの手が離れていく。それに名残惜しさを感じていると、マクワさんが少しだけ腰を折り顔を近づけて言った。
「ま、女性をそんな夜遅くまで連れ回すなんて事は出来ませんから、日付が変わるまでというのは冗談です。まずは一緒に美味しいホットチョコレートでも飲みに行きましょうか。せっかくのバレンタインですし」
“冗談”。その言葉に少なからず気持ちが落ち込み、自分はなんて厭らしい事を考えているのだろうと再び自己嫌悪する。小さな声で「はい」と返事をして目を伏せると、自分の上に影が落ちてきたのが分かった。俯いた私の頭から覆いかぶさるようにマクワさんは顔を近づけ、耳元で低く囁く。
「……日付が変わるまで連れ回したほうが良いですか?」
まるで顔から火が出るような感覚とはまさにこのことなのだろうと思った。私はマクワさんの方を見れないまま自分の顔の前に両手を出し、何度も首を横に振ることしか出来ない。マクワさんのフフ、という品のある微かな笑い声が聞こえ、大きな手のひらが目の前に差し出される。恐る恐るそれに自分の手を伸ばして軽く握ると、握り返された手のひらの熱さに頭がくらくらとした。
何故だろう。あれほど私とマクワさんは住む世界が違うと感じていたのに、今は微塵も気にならない。彼にバレンタインの贈り物をすることも、自分の想いを伝える勇気もなかったのに、今ならそれが出来そうな気さえしてくる。
絡みつくマクワさんの指の感触に酔いしれながら、ああ、これがバレンタインってやつなのか、などとまるで他人事のように感じた。