切なくさせないで
バレンタインなんて俺には関係ない。毎年のようにそう思っていた。スクールに通っていた時は2月14日になると誰も彼もがそわそわし目線が泳いでいて、はじめの頃は俺もその中の一人だった。義理以外の物なんか貰ったことねェよバカ、と心の中で誰かに暴言を吐く。その誰かと言うのは神様か、それともバレンタインを考えた奴なのかそれは自分でも分からない。
案の定、今年の2月14日もいつもと同じように女も男もそわそわとしており落ち着かず、はたまた女同士でお菓子を交換している人たちも居た。別に今更そんな光景を見たところでイライラなんかしないはず。しかし彼女には微かな心情の変化もばれてしまうらしかった。
「くん、今日は随分機嫌が悪いみたいね」
誰も居なくなった休憩室でひとり水を飲んでいると背後から声をかけられた。振り返るとそこにはルリナさんが立っていて、彼女が近づいてきていることにすら気付かなかった俺は思わず驚き体を揺らした。驚いたのは急に声を掛けられたせいもあるが、ルリナさんに“機嫌が悪い”と指摘されたせいもある。
俺は持っていたカップを一気にあおり水を飲み干すと、それをそのままゴミ箱に向かって投げた。
「別にそんなことないですよ。ちょっと腹が痛いだけです」
腹が痛いなどと言うのは嘘に決まっている。投げたカップは弧を描きゴミ箱に吸い込まれたが、俺の吐いたみっともない嘘はルリナさんには通用していないようで、彼女は目を細めて「ふーん」と呟きながら笑う。
強くて綺麗で可愛くて非の打ちどころがないルリナさんは俺が所属するバウジムのリーダーだ。あのルックスでバトルも強いなんて非の打ちどころが無さすぎるし、高嶺の花にもほどがある。例えば死ぬ前に一度こんな人からバレンタインのチョコレートでも貰えたらなぁなんて妄想もしてみるがただ虚しくなって、チョコレートとは正反対の塩辛い物を食べたくなるぐらいだ。
まず、俺みたいな男がそんな事を想像、いや、妄想している時点でおこがましいし身の程知らずも良い所だ。なんだか気持ちが沈み始め、休憩室にある粗末なベンチにどかりと腰をかける。するとルリナさんはゆっくりと俺の正面に回り、腰を折って身を屈めると顔を近づけて言った。
「お腹が痛いなら、これはあげないほうが良いかしら?」
目の前に差し出されたのは暗い赤色の箱だった。手の平ほどのサイズで小さいが、光沢のある美しい黒のリボンが巻かれておりとても上品に見える。なんだこれ。率直にそう思い反射的に箱を手に取った瞬間に気付く。これはまさか……。
心臓がうるさく鳴り、瞬きの仕方を忘れたかのようになった俺は目の前にいるルリナさんの顔を見た。彼女は綺麗な眉を少しだけ上げて、まるで俺を試すような顔をする。
その瞬間に壊れてしまいそうなほど上がった心拍数が一気に減っていくのが分かった。ああ俺はこれを知っている。いわゆる“義理”というやつだ。別に恋愛的な意味や好意的な意味なんかなくて、ただ“いつもありがとう”だとか“これからもよろしく”だとか、そういう社交辞令というやつ。そうじゃなければルリナさんが俺みたいな男に贈り物なんかするはずがない。
「……ありがとうございます。義理でも、嬉しいです」
俯き、手の中にある小さな箱を軽く握りながら呟く。ルリナさんは何の返答もせず、“どういたしまして”ぐらいあるだろうと思っていた俺は拍子抜けした。
しかし次の瞬間、俺の首元に手が伸びてきてシャツの襟の辺りを掴まれる。引かれるままに顔をあげるとルリナさんと目が合い、彼女は両手で俺の胸倉を強く握って顔を近づけた。
「最低ね、あなた」
ルリナさんの言葉は怒り、俺を軽蔑しているようだった。しかしその顔はまるで面白い物を見つけた時のような高揚感に満ちているように見え、彼女の言葉と表情がまるで正反対で俺は混乱する。
どういう意味ですか?その言葉を口にする隙もないまま、ルリナさんは俺のこめかみのあたりに口唇を落とす。何が起こったのか分からなかった。
「まったく。くんは今までそうやって何人の女の子をないがしろにしてきたの?」
ルリナさんは呆れたように笑って言うと、俺の胸倉から手を離し額を軽く小突く。口唇が落とされたと思われるこめかみも、小突かれた額も焼けるように熱い。口を半開きにしたまま固まり何の反応も見せない俺を見たルリナさんは再び歯を見せて笑った。
「ねぇ?言っておくけど、私は本命以外の人に贈り物なんてしないの。おぼえておいてね」
その言葉にハッとし手の中におさまっていた箱を見る。巻かれている黒いリボンを半ば乱暴に外して箱の蓋を開けると、中には小さなハート型のチョコレートが入っていた。表面には白い文字でルリナさんのサインが入っている。
俺はお菓子に関しては全く詳しくはないし、これが手作りかどうかなんてのも分からない。しかし少なくとも今俺の手の中にあるこのチョコレートが特別な物だという事だけは分かった。
「ちょっ……、ルリナさんこれって……!?」
叫び声が休憩室に響く。いつの間に出て行ってしまったのかそこにルリナさんの姿はなく、俺の声が虚しく反響するだけだった。体が固まり思考が止まる。思わず手に持っていた箱を落としそうになり、慌てて手に力をこめた。
「……マジか」
頭を抱えて呟いた。顔がどんどん熱くなり、心臓が内側から俺の胸を力強く叩いている。いま自身に起きた現実を受け止めることが出来ない。もちろん良い意味で。
しかしホワイトデーには何を返せば良いのだろう。今から一か月先の心配などをしても仕方がないことだが、手の中にある大事な贈り物を視界に入れつつ俺は上がりっぱなしになった口角を必死に下げる。ああクソ。明日からどんな顔して彼女に会えばいいんだ。その答えはいくら考えても出そうになかった。
…
……
………
やった。ついにやってやったのよルリナ。頭の中で自分自身に言う。
顔から火が出そうなほどに熱くなり、それを彼に見られまいと逃げるように部屋を飛び出した。小走りで移動し人の気配を感じない廊下に差し掛かった私は足を止めてハァ、と大きく息を吐く。壁に背中を預け寄りかかると足の力が抜け、ずりずりとこするように体が落ちて床に尻もちをついた。
今日はバレンタイン。この日が来ることを待ち望んだ反面、この日が来ることが少し怖かった。ずっと気になっていた彼に自分の気持ちがやっと伝えられる絶好の機会だと思ったが、私がただ普通にチョコを渡すだけでは“義理”だと思われることは分かっていた。
手作りのチョコレートは何度も失敗を繰り返してしまい材料が少なくなり、最終的に出来た完成品は手のひらほどの小ささになってしまった。しかし気持ちは十二分に込められているはずだ。長い間あたためていた私の想いが。しかし案の定くんは私からのチョコを「義理でも嬉しいです」と言い、切なくなると同時になんだか苛立ちも覚えた。
「……ハァ、もう、鈍い男の子ってほんと厄介」
誰も居ない廊下に独り言が響く。
今日はもういい。今からあの灯台のふもとに夕日を見に行こう。そうすればきっとこの気持ちも落ち着くだろうし、赤くなっているだろう顔も眩しい太陽のオレンジ色で誤魔化せるかもしれない。明日からどんな顔をして彼に会えばいいのか。そんなことを考える余裕など今の私にはなく、ただ驚いた彼の顔を思い浮かべるだけで精一杯だった。
本当は返事なんかいらない。ただ、私の気持ちに気付いてくれるなら。