その艶めきと引き換えに
食堂近くの廊下で彼に会った。鍛えてはいるのだろうが他の兵士に比べ少々華奢な腕にフルーツやキノコ類などの食材をいっぱいに抱え込んでいる。まさかその量をひとりで食べるのだろうかと驚きつつも、体力勝負である剣士にとっては多くはないのかもしれない。
「あ、……こんにちは」
私が挨拶をすると、彼は目を丸くしてハッと息を飲んだようだった。何故そんな表情をされるのか分からなかったが、その理由を想像するよりも私は彼の名を思い出すのに必死になっていた。
私の目の前に居る彼は姫さまお付きの騎士さまで、姫さまの身の回りのお世話を仰せつかる私とは顔を合わせることが間々ある。姫さまは騎士さまのことを「彼」だとか「あの人」などと呼ぶので名を失念してしまった。
なんて、人のせいにしてはいけない。大事な姫さまお付きの騎士さまの名を忘れてしまうなんて使用人としてあるまじきこと。私は“騎士さま”の名を思い出そうとその顔をジッと見つめた。すると騎士さまは少し戸惑ったようで微かに肩が揺れ、腕に抱えた食材の中から林檎がひとつ零れ落ちた。
「あ」
「あ」
騎士さまと私の声が重なり、床に落ちた林檎は転がって赤い絨毯と同化する。私は転がる林檎を追いかけて拾い上げると、前掛けで軽く拭いてから騎士さまに差し出した。
「それ、お一人で召し上がるんですか?」
軽い世間話のつもりだった。騎士さまは私が差し出した林檎を受け取りつつコクリと頷いて見せる。以前に姫さまから聞いた話だが、この騎士さまはとても無口な人らしい。親しい仲間や姫さまならまだしも、私のような名も顔も知らないような使用人のひとりに対してなら余計なのかもしれない。
「そうですか。やはり騎士さまはたくさん召し上がって英気を養わなければですものね」
未だに彼の名を思い出せずにいる私は「騎士さま」と言って誤魔化す。そんな事に気付く様子もなく騎士さまは私の顔を見つめたまま、再び何も言わずにコクリと頷いて見せた。
姫さまの言う通り騎士さまは本当に無口すぎるくらいで、こちらまで少し戸惑ってくる。私たちの間に流れる僅かな沈黙と彼の名を思い出せない焦りのせいで酷い居心地の悪さに襲われた私は、「失礼します」などと軽い挨拶をしてその場から去ろうとした。その時だった。
「待って」
聞き覚えのない低い声が耳に届き、思わず体が固まった。騎士さまの声を聞いた事がないわけではないのに、何故か初めて聞いたような感覚がする。呆然とする私に構う事なく、騎士さまは続けて言う。
「きみの、……名前」
「……えっ?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。騎士さまは私の目を真っすぐに見ており、私はまるで蛇に睨まれた蛙かのような気分になる。いや、この表現は間違っているかもしれない。息苦しさと胸の高鳴りはもっと違う言葉で表すべきなのではと感じる。
「きみの名前が、知りたい」
自身の口唇が震えるのを自覚した。心臓がまるで内側から胸を叩いているのではないかと錯覚するほどにうるさい。ただ名を聞かれているだけだというのに何故こんな気持ちになるのだろうと自分で自分が不思議だった。それと同時に騎士さまも私も、お互いの名を思い出そうとしていたという事実が少し滑稽だ。いや、それ以前に騎士さまは私のような使用人の名など知りもしないだろう。
「も、申し遅れました。わたくしと申します。姫さまの身の回りのお世話を……」
「それは、知ってる」
私の震える声の語尾に騎士さまは自分の声を重ねてそれをかき消す。一瞬驚き目を見張ったが、騎士さまの「知ってる」という言葉は恐らく私が“姫さまの身の回りのお世話をしている”ことを「知ってる」という意味なのだろうと解釈した。
「いつも姫のそばに居ることは、……知ってる」
騎士さまが続けて言った言葉に心の中で“あ、やっぱり”と呟く。しかし腑に落ちつつも何かがひっかかった。私の名を知らないのは名乗る機会がなかったせいだとは思うが、そもそもいち使用人の名など騎士さまにとってはどうでもいいことだろう。しかし私が姫さまお付きの使用人だという事は知っており、「きみの名前が知りたい」と私に名を尋ねた。私のような位の低い人間の名を、わざわざ。
「」
自身の名を呼ばれハッとした。目の前に居る騎士さまは無表情をほんの少しだけ崩し微かに笑うと、先ほど私が拾った林檎を差し出した。
「ありがとう」
反射的に両手を出し、差し出された林檎を受け取る。騎士さまが言った「ありがとう」という言葉は恐らく“名を教えてくれてありがとう”という意味なのだろうと思うが、私のような使用人に礼を言う事自体が酷く不自然だった。この林檎はその対価と言う意味なのだろうか。
そして何故か私はこの時にやっと騎士さまの名を思い出す。彼の名前はリンク。国が認めたハイラルいちの剣士で姫さまお付きの近衛騎士、リンクさま。
リンクさまは食材を両手いっぱいに抱えたまま私の横を通り過ぎ、通路の向こう側に消えて行く。私はその場に立ち尽くし、彼の背中が見えなくなってからすぐに手の中にある林檎をまじまじと見た。眩しいほどに赤く、表面が艶めいたそれはとても美味しそうに見える。
「おかしな人……」
姫さまが言う通りリンクさまは無口すぎるほどに無口だったが、私が想像する騎士さまよりはるかに変わった人だと感じた。私に名を尋ねる彼の頬が林檎のように赤く見えた気がしたが、それは思い違いだと自分に言い聞かせる。未だにおとなしくならない心臓の音や自身の頬が少しだけ熱いのも、きっと何かの思い違いなのだろう。