コンクリート・ジウ - 前編

 鈍色の空ばかりが何日も続くこの街では、全ての色がくすんで見える。黒く汚れたアスファルト、枯れかけで弱っている街路樹、行き交う人々の顔色さえも、影が落ちたように暗く思える。

 私のすぐ後ろには小さな廃ビルがある。数年前に殺人事件が起こり、事故物件扱いになって人が寄り付かなくなった。不良少年たちの溜まり場になっているだの、違法薬物の取引場所に使われているだの、良い噂を聞かなかったけれど、つい最近ここで、変死体が発見された。身元は不明、死因も不明、何もかもが分からないことだらけなのだという。

 廃ビルの警備の仕事を命ぜられたのは、避けられぬ必然だったと思う。何故なら私はこの小さな街の、小さな権利しかない警察官だからだ。

 入り口へと続く路地は黄色のバリケードテープで封鎖されている。その上私のような制服を着た警官が立っていれば、近付く者などほとんど居ない。目の前を通り過ぎる人々は、怪訝な目でこちらを見ながら足早に通り過ぎるばかりだ。私自身がそのような目で見られているのではなく、変死体が発見されたこの場所を市民たちが不気味に思っているのだ。それは分かっている。しかしまるで見世物のようになっているのはなんとなく居心地が悪い。

 腕時計で時刻を確認する。今日はいわゆる“お偉いさん”とやらがやってくるとの話だった。この辺りで頻発している変死体の事件を追っているらしく、この廃ビルも確認したいらしい。約束の時間まであと数分。“お偉いさん”の大体は時間を守らない人が多い。今回もきっとそうなのだろう。

 確か組織名はDSO。私も警察官の端くれなので、名くらいは聞いたことがある。対バイオテロのエージェント組織だったはずだけれど、今回の変死体とバイオテロがどう関係してくるのか疑問だった。DSOの正式名称はDivision of ――……、ええと、なんだっけ。

 先の単語を思い出そうと脳味噌を絞っていると、すぐ近くの路肩に車が止まった。黒い重量感のあるSUV。車種に気付き、すぐに納得する。ポルシェのカイエンだ。こんな良い車に乗るなんて、例の“お偉いさん”に決まっている。きっと私の何倍も給料を貰っているのだろう。まず真っ先にこんなことを考えてしまう自分に嫌気がさす。

 ヘッドライトが消え、運転席のドアが開いた。合衆国エージェントとやらは一体どんな人なのだろうと、穴があくほどに強く見つめる。車から降りて来た男性と目が合い、まるで体の全ての機能がシャットダウンしたかのように、力が入らなくなった。

 彼を知っている。最後に会った時から顔の皺は増えているけれど、私には分かる。冷えたような薄い水色の瞳、彫が深く高く通った鼻筋、目元を覆うようなうざったい前髪。レオン・S・ケネディ。間違いない。彼だった。

「DSOのレオン・S・ケネディだ。中に入らせてもらう」

 レオンはこちらを一瞥しながらそれだけを言うと、私の返答を待たずにバリケードテープをくぐって中へと入って行った。呆気にとられ、路地全体に靴音を響かせながら歩く大きな背中を見つめる。

 私とレオンが別れたのは、もう何年前のことになるだろうか。覚えていないくらい昔のことだ。エージェントであることは知っていたけれど、DSOなどというすごい組織に所属していることは初めて知った。かたや私はただの警察官。相変わらずの立場の違いに、笑いさえ込み上げそうだ。やはり彼は住む世界が違う人なのだと実感する。別れることになってしまったのは、仕方がないことだったのかもしれない。

 別れてからもう何年も経った。あちらは私のことなど覚えていない。こんな状況で、もう一度会いたいと思っていたなんて、彼をまだ忘れられずにいたなんて、彼をまだ好きでいるなんて、こんなこと言いたくもないし、自分でも認めたくない。

 小さく吐いた溜息は、相変わらずくすんだ街の空気に混ざって消える。ふと顔を上げると、件の廃ビルからちらちらと灯りが漏れて見えた。電気が通っていない事件現場で、フラッシュライトでも使っているのだろう。今、レオンがどの部屋をどんな風に調査しているのかが何となく分かる。

 私はレオンの、分かりにくい優しさが好きだった。皮肉や軽口ばかりこぼしているのに、いつだって私を大切にしてくれた。明らかに面倒なわがままを言ったとしても、文句を言いながらいつだって駆けつけてくれた。「いい加減にしろ」、「お前は本当に俺を困らせるのが好きだな」、「言う事きかないならもう会いに来てやらないぞ」。そんなことをこぼしながら、いつだって優しく抱き締めてくれた。

 頭の中が、人生で唯一の、そして最大の甘い想い出で満たされる。喉が焼けるような感覚になり、胸やけがした。ああ、いやだ。そんな独り言が漏れそうになって、一度だけ大きく唾を飲み込んだ。

 レオンは、どうして私のような女と付き合っていたのだろう。私のどんなところが好きだったのだろう。考えてみても、良く分からない。

 背後から靴音が聞こえてきた。それはだんだんと大きく響き、近付いてくるのが分かる。調査を終えたレオンが戻ってきたという合図だった。靴音と比例して心臓の音が大きく鳴る。下口唇を強く噛み締めてみても、心臓の音が弱まることなんてないと分かっているのに、やらずにはいられなかった。

「ったく……、無駄足だな」

 レオンは独り言を呟きながら、バリケードテープをくぐって外へ出てくる。私は何も返答しないまま小さく敬礼をした。無駄足ということは、今回の変死体はDSOが追っている事件とは無関係だったのかもしれない。

 レオンは私の前に立ち、こちらを見下ろしてくる。顔を見て目を合わせる勇気がなかったため下を向いた。自分の足元だけを見ていると、頭上から小さな溜息が聞こえた。

「この辺りで不審人物を見たという報告は?」

 質問が飛んでくる。事件の詳しい情報は当然ながら訊かれるだろうと予想していたので、答えは脳内に用意してある。この質問の場合、「いいえ、ありません」と答えるのが正解だ。

「いいえ、ありません」

「このビルの持ち主は? 生きてるのか?」

 答え終わったのとほとんど同時に、次の質問が飛んでくる。この問いの答えも用意済みだった。全ての質問にメモを見ずとも答えられるくらい、事件の情報は頭の中に入っている。

「いいえ、記録上の持ち主は既に亡くなっておりまして、現在の持ち主は調査中です」

「あんたらの警備は変死体が見つかってからだろ? それまで、入り口に施錠は?」

「いいえ、してなかったようです。最近は不良少年たちのたまり場のようになっておりました」

「被害者の身元と死因は? 判明したのか?」

「いいえ、まだどちらも分かっておりません」

「それで、今夜の予定は?」

「いいえ、今夜は――……、え?」

 全ての質問はスムーズに答えられるはずだった。それなのに、途中で意味不明な問いが飛んできて思わず言葉に詰まる。下に向けていた顔を上げてレオンと目を合わせた。あ、しまった。そんな風に思っても遅い。見覚えのある、まるでこの街の空の色のような、くすんだ水色がこちらを見つめていた。

「今夜だよ。あんたの。どうなんだ?」

「すみません。どういう意味でしょうか」

 頭と心を埋め尽くす動揺を表に出さないように努めながら、一生懸命に冷静を装い返答をする。レオンは私を見つめ続けたまま、片方の口角だけを弱く上げ、ハ、と小さく笑った。

「近くに美味い酒を出す店があるんだ。一緒にどうだ」

 彼の言葉の一言一句が耳に入って来て、意味を理解するのに一秒もかからなかった。意味だけでなく、意図を理解するのにも、私の正体に気が付いていないことを考えれば納得出来る。レオンは昔からこうだ。そういえば、私たちの関係が進展したのも、こんな風にレオンから誘って来たことがきっかけだった気がする。

 目の前にいる女が昔の恋人であることに気付かずに、あろうことかお酒に誘っている。合衆国のエージェント様ともあろう人が、こんなことで良いのだろうか。

「今日は夜中まで仕事なので、申し訳ありませんが」

 嘘だった。本当はあと数時間もすれば警備を交代してくれる同僚がここへやってくる。しかし誘いを無難に断りたくて、ありもしないことを言った。

 レオンは形の良い口唇を閉じ、一度だけ両眉を軽く上げた。

「じゃあ明日は?」

「え?」

 予想していなかった追撃に面食らう。一度断った所で空気を読んで退いてくれるとばかり思っていたため、それ以上の断り方を考えてはいなかった。「明日ですか」とか「ええと」とか曖昧な言葉ばかりを繰り返す。するとレオンはハァと大きな溜息をついた後、先ほどと同じように片方の口角だけを弱く上げ、ハ、と小さく笑った。

「感動の再会だってのに、つれないな」

 私は、彼のその笑いかたを何度も見て来た。素直になれない私をからかったりする時。逆に素直になった私の頭を撫でてくれた時。いつも皮肉っぽい笑顔を浮かべてからキスをくれた。昔の想い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。ああ、私、もうすぐ死ぬのかな、なんて思ってしまった。

「気付いてたんなら、さっさと言ってよ」

 あまりにも可愛くない反論だったと自分でも思う。レオンの顔が見れなくて、再び頭を落とし、自分の足元だけを見る。

「その言葉、そのままお前に返すよ。大体、俺がに気付かないわけないだろ」

 下を向いているためレオンの顔は見えないけれど、どんな表情をしているかは何となく分かった。そして数年ぶりに聞く、彼の声での「」という響きに、心臓も、肺も、喉さえも震えて何も言い返せなかった。

「それで? いつなら空いてるんだ?」

 私は知っている。こうなったレオンは絶対に退かないし、諦めが悪い。場合によっては長所にもなり得るのだろうけれど、今の私には最悪の短所としか思えなかった。

「なんなの? どういうつもり?」

「どうもこうもないだろ。お前と話したい。それだけだ」

 悔しいけれど、断るための嘘も、断りの文句も考えてはいなかった。『お前と話したい』だなんて、私が言いたくても言えずにいた言葉をあっさりと口にしてしまう彼が、酷く憎たらしく思えて仕方がない。

「今夜なら、空いてる……」

「おいおい。今日は夜中まで仕事なんじゃなかったのか?」

 指摘され、しまったと思い口唇を結ぶももう遅い。顔を上げてレオンを見た。『今日は夜中まで仕事なので』などという陳腐な嘘なんか、最初から見破っていたんだろう。

「お前は嘘が下手なんだよ、昔から」

 レオンは私と別れてから、どんな人生を歩んできたのだろう。私のように過去の恋に捕らわれていて欲しいとまでは言わない。せめて、心の片隅に私を置いてくれていただろうか。ほんの一瞬でも、私を想い出す時があっただろうか。そんなありもしないことを期待してしまう自分に嫌悪する。

 これは、神様からの罰なのか。それとも神様がくれたチャンスなのか。どちらなのだろう。いつまでも過去の恋を引きずり、レオンを忘れられずにいた未練がましく女々しい私への罰なのか、慈悲なのか。

 街に雨が降り出した。レオンの瞳の色に似た、少しくすんだ水色の空から。