コンクリート・ジウ - 後編

 待ち合わせたのは、私のような地元の人間ですら知らない隠れ家的なバーだった。路面側の窓から店の全体が見えるくらいに小さくて、カウンター席がいくつかと、ボックス席が三つほどのこじんまりとした作りだった。レオンは何故、こんな店の存在を知っているのだろうと疑問に思う。

 正面入り口を開けて中に入ると、ドアベルの音が耳に心地よく響く。すぐ近くのカウンター席にレオンが座っていて、私に気が付くなり片手を上げた。

 心臓はとてつもなく早く鳴っていた。幼い頃、不審者に追いかけられた時と同じくらいに早い。そういえば、あの時に私を保護してくれた警察官に恩を感じ、同じ職を志すようになったんだっけ。そんな、今はどうでもいいことばかりを思い出して自分を落ち着かせようと必死になる。

 平静を装って近づき、レオンの隣の席に腰を下ろす。レオンはテーブルの上にあるグラスを指先で軽く突きながらこちらを見た。

「悪いが、先に飲ませてもらってるよ」

 グラスには琥珀色の液体が少しだけ残されていた。恐らくはウイスキーだろうと予想する。『悪いが』なんて言って、どうせ待つ気なんて初めからなかったくせに、と思いながら「別にいいよ」とだけ素っ気なく返事をした。

 私たち以外の客は一人もおらず、誰かが入ってくる気配もなかった。バーテンダー(というよりマスターだろう)に注文を聞かれ、まずは無難なカクテルを注文した。

 店内に流れるBGMが薄っすらと聞こえる。私は何も言わなかったし、レオンからも何の言葉もない。そっちから誘って来たんだから、軽い世間話でもしてくれれば良いのにと思ってしまう。

 しばらくすると、マスターが注文したカクテルを持って来て、静かにテーブルに置いた。彼は気を遣ったのか、カウンターから軽く距離を取る。会話しやすいようにと離れてくれたのだと思うけれど、私にとっては不都合でしかなかった。せめて何の関係もない赤の他人が近くに居てくれれば、少しはこの緊張がほぐれそうな気もするのに。

 カクテルを一口だけ飲む。ライムで薄められたジンが胃に刺さった。せめて何かしら軽く胃に入れてからくるべきだったかもしれない。普段ならなんてことはないお酒も、刺激が強く感じられる。それは空腹のせいなのか、レオンが隣にいるせいなのか。あるいは、両方かもしれない。

「この街で警官をやって、何年になる?」

 レオンが急に口を開く。内心は驚いて肩でも揺らしてしまいそうなほどだったけれど、なんとか押さえ込む。震えそうになる指先に強く力を込めて、カクテルグラスをテーブルに置いた。

「もう結構長いよ。はっきりとした年数は忘れた」

 レオンと別れてからの私は、ありとあらゆるほとんどの年数を覚えておくのが億劫になって、やめた。この街に来て何年、今の仕事に就いて何年、今の場所で暮らし初めて何年、家にある冷蔵庫を使い始めて何年、レオンと別れてから、何年。

 いや、違う。億劫になってやめたのではなく、覚えておきたくなかったからやめたんだ。年数を感じるたび、レオンは今どこで何をしているのだろうとか、私たちはどうしてダメになってしまったのかとか、そういう無駄なことばかりを考えてしまうから。まだレオンのことを忘れられずにいる未練がましく女々しい自分を、強く実感してしまうからだ。

「そっちは相変わらずみたいだね。体も鈍ってないみたいだし」

 自分の頭を埋め尽くしていくみっともない感情を振り切るように、至極どうでもいい言葉を口にする。隣に座るレオンの大きな肩幅と太くたくましい腕は、見ないようにしていたってどうしても目に入ってしまう。きっと今でも鍛えているんだろう。お互い当然ながら歳は取ったものの、レオンの体つきは昔と変わらない気がする。

「DSOって対バイオテロの組織なんでしょ? いま追ってるのもそれ絡み?」

 会話を始めた手前、それを途切れさせたくなく、特に興味もない話題を振ってみる。レオンはこちらを見ずに、ただ前を向いて「まぁな」とだけ返事をした。

「なんか、結構色んな所で変死体が見つかってるみたいだね。忙しいんじゃない?」

「そうでもないさ」

「そういえば、前に紹介してくれたあの子は元気? 同じ職場に居るって言ってた、確か――」

「なぁ」

 まるで壊れたおもちゃみたいに無難な会話を続けようとする私を、レオンの低い声が遮った。少しだけ残されていたウイスキーの最後の一口を飲み干し、グラスをテーブルに置く。横から見る喉仏の大きな膨らみがひどく妖艶だった。

「仕事の話はやめにしないか」

 レオンは顔を少しだけ傾けてこちらを見た。反射的に私もレオンを見て、お互いの目が合う。

「なにそれ。そっちが先に仕事の話、してきたくせに」

「ああ、そうだったな。悪い」

 レオンの態度に、思わず眉間に皺が寄った。きっと私は今、とてつもなく可愛くない表情をしているに違いない。たとえば可愛げのある女性であったら、ここで、まったくもう!なんて言いながら相手の肩や腕に手を置いたりするんだろう。私には、レオンの隣に座っているだけで精一杯だ。



 急に名を呼ばれ、一瞬だけ手が震えてしまったのが自分でも分かった。きっとレオンにもバレているだろう。そんな自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらなくなる。

「お前はいま、どうしてる?」

 隣に目線を送ることなど出来そうもなくて、ただテーブルの上のカクテルグラスを見つめながら、レオンの質問を聞いていた。

 はっきり言って、質問の意味は分からなかった。つい先ほど、この街で警察官をしているのだという話をしたばかりだし、事件現場の警備をしている所にやってきたのだから仕事内容も当然分かっているだろう。

 レオンと出会ったばかりの私は、新米警察官だった。でも時が経った今ではそこそこの地位の責任ある立場になったし、後輩もたくさん居る。非番の日は友達と遊びに行ったり、趣味だって多いし、プライベートも充実している。

 でも、“私の人生を語る上での様々な事項”であるこれらは、先ほどのレオンの質問の答えには適さないような気がした。彼が訊きたいのは別のことのような気がした。『お前はいま、どうしてる?』。レオンはそれを訊いて、何をどうしようと言うのだろう。もし私が、今でもあなたを好きでいると言ったら、今でも忘れられずにいると言ったら、未練がましくみっともない女でいるのだと知ったら、レオンはどうするのだろう。

「私は――、」

 カクテルグラスを煽り、口から出かかった不必要な言葉と一緒に流し込む。刺激を感じるお酒の全てが口の中へと入り込み、喉を通って胃袋へと辿り着いたのが感覚で分かる。お腹の奥の方から熱さが込み上げて来た。

 なんだか目を開けていづらくて、瞬きを繰り返す。酔いの周りが早いような気がするのは、きっと緊張しているせいに違いない。隣にいるレオンに触れることはおろか、言葉を交わすだけでも、座っているだけでも、同じ空気を吸っているだけでも、それで限界なのだから。

「なんだ。もう酔ったのか」

 カウンターに肘をつきながら、自分の額に手を当てていると、レオンがこちらを覗き込んで来た。彼の顔を見ることなど出来なくて、自分のみっともない表情を見られるのが怖くて、軽く顔を背ける。すると、フ、と息をこぼしたかのような優しい笑い声が聞こえた。

「酔い潰れてもちゃんと送ってやるから、安心しろ」

「冗談やめてよ。レオンの前で酔い潰れたくなんかない」

「おい。まだ俺に嘘をつくのかよ」

 肘をついていた腕を強く引かれ、強制的にレオンの顔を見る体勢になる。そして同時に、レオンは至近距離で私の顔を見た。

「何も思い出せなくなるくらいまで酔っ払って、記憶をなくしてる間にどうにでもして欲しいって顔、してるだろ」

 ああ、いやだ。みっともない表情だけでなく、そんなふしだらな感情さえ表に出していたのかと、自己嫌悪で消えてしまいたくなる。掴まれていた腕を自分の方へと引っ張ってみたものの、レオンの力の前ではびくともしなかった。

「そんなこと思ってない、そんな顔してない」

「してる」

「してないってば」

「してるさ」

 私の腕を掴んでいたレオンの手が、やっと離れる。そして彼はテーブルに置かれたままのカクテルグラスを手に取ると、中身を一気に飲み干した。大きな喉仏が目の前で上下する。

「さっきも言っただろ。お前は昔から嘘が下手なんだって」

 変わらない大好きな声が、遠く聞こえた。


 ぼんやりとする意識の端の方で、耳に心地よいドアベルの音が響く。コツコツという足音に混じって、途中で水溜まりを踏んだかのような音もする。いつの間に店を出たのだろう。意識どころか記憶も曖昧だ。

 レオンが私の肩を抱いて歩いている。そして、レオンに触れることすら戸惑っていた私は今、レオンに体を預けている。少し歩いた所で私たちは立ち止まった。周囲には建物の壁がいくつもあり、路地裏かどこかに入ったのだろうと予想する。視界がぼやけていて、良く分からない。

 口唇にしっとりと濡れた柔らかい何かが触れた。強いお酒の味がして、背中と後頭部が冷たくて、きっと私の体はコンクリートの厚い壁にでも押し付けられているんだろう。レオンの顔が目の前にあって、大きくて固い手のひらは耳のすぐ近くにある。ああ、口唇に触れているのは、レオンの口唇だったんだと気が付いた。耳に触れていたレオンの手が、首から鎖骨までを撫でるように動く。少しくすぐったい。

 口唇の隙間から何かが入り込んで来た。それが舌だと分かったのと同時に息が苦しくなり、口で呼吸をしようとするも上手くいかない。二酸化炭素と一緒に、はあ、と小さな声が漏れた。

「どうして、こんなことするの」

 ぐちゃぐちゃに混ざり合う口唇と口唇の隙間から、絞り出すように言った。それでもレオンはやめなかった。

 私たちは終わったはずだった。それなのにどうして今更こんなことをしているのか。どうして私たちはダメになったのか。今でもこんなに好きなのに、どうして離れ離れになってしまったのか。

 昔の恋人と久しぶりの再会を果たして、愛情が再び燃え上がるとか、そんな古臭いドラマじゃあるまいし。これはフィクションなんかじゃない。紛れもない現実だ。お酒のせいにして記憶を曖昧にしたとしても、酔いの勢いに任せたとしても、これは確かに現実なんだ。彼の口唇の感触も、味も、においも、すべてが現実でしかない。

「レオン」

 再びの絞り出すような声で、彼の名を呼んだ。口唇が離れ、両頬を大きな手が包み込んでくる。指先は荒れて、皮膚が硬くなっているように思えた。

「私ずっと、あなたにもう一度、会いたかった」

 嘘で塗り固められた私の、紛れもない本音だった。いま目の前にあるこの瞳に見つめられ、この口唇でキスをされ、この腕で抱き留められたら、何があっても隠したかったはずの本音すら、暴かれてしまう。

 レオンは驚いた様子もなく、表情を変えずに「俺もだ」と呟いた。

「今でも、あなたが好き」

「俺もだ」

「あなたの恋人に戻りたい」

「俺もだ」

 まるで機械みたいに同じ返答しかしない彼に、ほんの少しの不満が込み上げてくる。両頬を包んだままでいるレオンの手に、自分の手を添えた。

「俺も、ばっかりじゃなくて、もっとちゃんと言ってよ」

 レオンの両手が私の首に移動し、そのまま頭ごと引き寄せるようにして抱き締められる。髪に口唇が落ちて来て、そしてすぐにこめかみにも口唇が落ちて来る。頬のあたりに髭の感触がした。

「俺は口じゃなくて、態度で示そうかと思ってね」

 レオンはどこか楽しそうな声で言い、顔を傾けてもう一度深いキスをした。濡れた口唇と、カクテルとウイスキーが混ざったような香りと、痛いほどに力が込められた指先。これら全てが夢でありませんようにと、嘘でもありませんようにと、願わずにはいられなかった。

 ああ、まただ。また、雨の音が聞こえる。