失楽園 - 4
あの後のことは、いまいちはっきりとは思い出せない。しかしあれ以上のキスは交わさなかったと思うし、下着を着けたままの体には異様な感覚もなかったので、おそらく私たちはセックスをしていないだろう。
カーテンに朝日が突き刺さり、それが自分の目元に届いた時、私はやっと目を覚ました。いま何時だろうかとぼんやり思うと、目の前にカムスキーの寝顔があった。いつもかけている眼鏡は当然ながら外されており、長い髪が無造作に散らばっている。
私たちは身を寄せ合うように眠っていたらしい。ここに来るまでの私は仕事を探すことに躍起になり、まともな睡眠を取れていなかった。ここに来てからも一人きりでベッドに入ると“気に病み眠れない夜”というのが癖になっていたのか、ぐっすりと眠れたような記憶はなかった。
そんな私が昨夜は夢も見ないくらいに深く眠ってしまった。もしかしたら人の体温が自分の近くにあることが心地よかったのかもしれない。未だ私の目の前で眠っているこの男、カムスキーの体温が。
カムスキーの顔をじっと見つめた。水色の瞳は閉じられたまぶたに遮られ見えないが、長いまつ毛が頬に影を落としている。微かに開かれた口唇の隙間から一定のリズムで呼吸が漏れ、彼の胸が上下している。私はカムスキーに対し“アンドロイドと同じに見えた”と感じたが、彼のその様子を見て率直に思う。ああ、人間だ、と。
“もし君が私を愛すようなことがあれば、私は君を捨てようか”
昨夜、私の口唇を塞いでから言った彼の言葉を思い出した。この偽りの夫婦生活から解放されるのならばそれはそれで良い。しかしまとまった金もなく住む場所も職もない私は路頭に迷いホームレスへまっしぐらだ。そうはなりたくない。
カムスキーのあの言葉はきっと、私に釘を刺したのだろうと思う。今まで女性問題に苦しめられたこともあったのだろう。もう“人から愛されることも、人を愛することもこりごり”とでも思っているのかもしれない。そこまで考えた所でハッとした。“人を愛すること”、それはつまりカムスキーが私を愛するということだ。そんなこと絶対にありえないことだ。昨日で確信した。この男は本当に私を“道具”としか見ていないんだと。
目の前にあるカムスキーの顔を観察していた、その時だった。目の前の彼の眉が微かに歪み、小さく肩を揺らして身じろぎをする。その仕草でカムスキーが目を覚ましたのかと思わず構えてしまったが、彼は再び先ほどと同じリズムの寝息を立て始める。
良かった、起きてない。そう感じホッとしたと同時に改めて、カムスキーの顔をジッと見つめてしまっていた自分が妙に恥ずかしくなり、私は音をたてぬように、かつ素早くベッドから這い出た。
そのまま部屋を出ると、自分の背後でドアが閉まる。私は無意識に指先を自分の口唇に這わせていた。昨日のキスの感触を思い出し、頭を振る。あんな頭のおかしい変人のした気まぐれな行為など、さっさと忘れてしまおう。
キッチンに行くと朝食の良い香りが鼻をくすぐる。いつものように用意された美味しい朝食と、クロエの「おはようございます」という挨拶。そして、彼女の優しい笑顔に思わず口角が上がった。
そのまま出勤をし、職場で顔を合わせたカムスキーは今まで通りのつまらない顔をしていた。まるで昨日のこと何とも思っていないような表情だった。実際に何とも思っていないのだろう。私ばかりが気にして、私ばかりが妙に意識している。それがあまりにも滑稽で馬鹿馬鹿しく感じてしまった。
「」
いつもの仕事場でデスクについたカムスキーが私の名を呼び、こちらに向く。その声に過剰に反応した私の肩は大きく揺れ、彼の方を見れなかった。
「新型に入れるメモリのデータ一覧をこっちの端末に送ってくれ」
私の様子に気付くこともなく、カムスキーは早口で言う。新型、メモリのデータ一覧、カムスキーの端末。単語の一つ一つを聞き取り、理解しようとするが、何故か私の意識が追い付かない。黙り込み返事すらもしない私を不思議に思ったのか、カムスキーが再び名を呼ぶ。
「、聞いてるのか?」
「あ、ちょっと、待って。今やるから」
私は自分のデスクにある端末の電源を入れた。必要なデータを探し出し、キーボードを操作しつつカムスキーの端末アイコンを探す。
送信完了。その文字がディスプレイに表示されたと同時に、軽くため息をついた。まるで自分が自分ではない感覚。この体が借り物かのようだ。
「送ったよ」
「ありがとう」
カムスキーはこちらを見る事もなくそっけなく返事をし、再び背を向け机に向かった。仕事中の彼はいつも以上に冷ややかだ。
私には、恋愛経験がないわけではない。しかし私が無職になった途端に別れを告げてきた彼とは長い付き合いだったため、彼以外の男をあまり知らないのも事実だ。恋愛経験が浅いせいで、こんな気持ちになっているのだろう。
カムスキーはあの日以来、いつもと変わらない。それは私の事を何とも思っていない証拠だ。「私だってカムスキーの事など何とも思っていない」。そう思いたいが、意識してしまっている時点でそれは間違っているのかもしれない。
真っ白なこの部屋に、フウーという重苦しい溜息が聞こえた。それはカムスキーのもので、私が目線を送ると、長い前髪が邪魔なのだろう、髪をかき上げるような仕草をしていた。そして次に自身の肩に手を当て、軽く腕を動かす。デスクワークが多いカムスキーは肩が凝っているのだろうとぼんやり思った。
「」
急に名を呼ばれ驚き、再び大きく肩が揺れた。私が返事をするよりも早く、カムスキーはこちらに顔だけを向けて、言う。
「少し疲れた。マッサージしてくれないか」
マッサージという言葉が一瞬引っかかったが、先ほど肩を重そうにしていたから、おそらく彼は肩が凝っているのだろう。肩もみくらいならしてやってもいいかもしれない。そう思い、私は椅子から立ち上がりながら何故か敬語で「分かった」と返事をした。
カムスキーの肩はまるで石のように固かった。いや、彼の肩は想像以上に広く大きいものだったので、石というより岩と言ったほうが正しいかもしれない。私が指先に力を入れても全く痛がったりなどしない様子を見ると、かなり凝っているようだ。
私がマッサージをはじめて、たったの数分経った頃だった。カムスキーの首が、力が抜けたようにかくんと曲がり下を向く。それは例えるならば、操り糸を切られたマリオネットかのようだった。まさか、と思いつつもマッサージをする手を止め、彼の顔を覗き込む。
「カムスキー?」
見覚えのある寝顔。カムスキーは椅子に座ったまま、すやすやと寝息を立てている。ただ肩を揉んでいただけなのに眠ってしまうなんて、そんなに疲れているのだろうか。
この間、同じベッドで眠った時にもカムスキーの寝顔を見たが、感じたことがある。まるで機械と変わらぬ冷ややかな瞳を持ち、偉大な天才と呼ばれ、様々な人にもてはやされ、崇められ、恨まれてきたであろう彼の寝顔。それは想像以上に人間らしく、無垢で、とても美しかった。
「いつもそうやって、人間らしくしてくれれば良いのに」
吐息交じりに呟く。私はカムスキーの顔に手を伸ばすと、起こさないよう静かに眼鏡を外し、それをデスクに置いた。
疲れ、弱り切ったその姿は今までに見たことのないカムスキーだった。もしかしたら、私以外にこの姿を見た人はいないかもしれない。そう思うと醜い優越感のようなものが胸に広がる。こんな彼ならば、少しは愛しても良いと思うのに。頭の中に浮かんだその言葉は、無理矢理に消して気付かないふりをした。
それから数日経ったある日のこと、カムスキーの仕事部屋でいつものようにデスクにつき作業を始めようかという所で、カムスキーがこちらに背を向けたまま「君に話したいことがあるんだが」と口にした。この部屋には私とカムスキーの二人しかおらず、おそらく私に言ったのだろうと勝手に解釈したが、独り言だったらどうしようと一瞬考えた。
「私?」
「君以外に誰が居るんだ、」
ごもっともな返答に少しひるむ。カムスキーはリクライニングのついた高そうな椅子をくるりと回し、こちらに振り向いて、言う。
「女型アンドロイドのデザインについてなんだが……女性は我々男性と違って着飾るだろう。化粧をしたり髪型を変えてみたり……。女型アンドロイドにもTPOに応じて見た目を着飾る機能をつけようと思う」
「うん」
彼が早口で喋るその内容が、分かるような分からないような気がして私は生返事をした。
確かに女性は化粧、服、髪に気をつかうし、場所や状況に応じてそれを変えたりもする。女型アンドロイドにもその機能が付いていれば便利であることは私にだって分かるが、何故カムスキーがそんな話を私にするのか分からなかった。
気が付くと、カムスキーは自分のデスクを離れ私のすぐ傍まで来ていた。椅子に座ったままの私を見下ろしながら、彼が言う。
「メーキャップ、ヘアスタイル、その他諸々。デザインを君に任せたい」
「え」
何を言われたのか分からず、反応が一瞬遅れた。思わず立ち上がりカムスキーを見たが、私は反論する言葉が見つからずに口を開けたり開いたりを繰り返すことしか出来ない。
「君は“一応”女性だろう。少なくとも私よりは向いている仕事だと思うが?」
“一応”、という単語がひっかかり、自分の頬がひきつったのが分かった。
しかしカムスキーの言う事ももっともだとは感じる。普段から見た目を着飾ることに気をつかい、TPOに応じてそれを使い分ける女性。マナーだと言う人も居れば、当たり前の事だと言う人も居る。はっきりと言えば、男性には理解しにくい世界なのかもしれないし、少なくともカムスキーがやるよりは、女である私がやったほうが良い仕事であるのは間違いないだろう。
わかった、という了承の返答をするよりも早く、カムスキーが両手を私の肩に置き、顔を近づけた。その行為に一瞬戸惑ったが、手を振り払うことが出来ず、ただ体を固める。自分の耳元にカムスキーの口唇が近づいてくる気配を感じた。
「しっかり働くんだよ。私のために」
カムスキーは低く囁くと、すぐに体を離して自分のデスクへと戻っていった。
彼の言葉が癪にさわったが、言い返すことも手を振り払うことも出来なかった。私はここに来てから楽な仕事や雑用ばかりを任されている。そんな仕事ばかりやっていて良いものかとも考えたし、いつかはもう少し責任のある大きな仕事を任されたいと考えていたことも、事実だ。
仕方ない、任されたのであれば全力でやってみよう。そう思い、私は気合を入れるためにフゥと軽く息を吐く。失業するまえに勤めていた小さな会社。そこでの自分をぼんやりと思い出した。
とは言え、だ。私はメイクやヘアスタイルなどにそこまで詳しくはない。最低限の事は出来るが、あくまでも“最低限”だ。自分に合う化粧や髪型はなんとなく分かれど、様々なデザインのアンドロイド個々に合うような物は分からない。
自宅に帰り、部屋に閉じこもってメイクやヘアスタイルに関する書籍を読み漁ったり、自分の顔で化粧を実践してみたりもしたが、いまいちピンとこない。自分と違う系統の顔を持っている人にメイクをしてみたい。そう考えていると、机に影が落ちた。
「何かお手伝いすることはありますか?」
クロエだった。いつの間に入ってきたのだろうと思いつつ、私は近くにあったマグカップを彼女に渡して「コーヒーをいれてくれるかな」とお願いをした。クロエは優しく微笑み「かしこまりました」と返事をする。
私はキッチンに向かうクロエの後ろ姿を凝視した。クロエはとても美しい金色の髪を持っている。触ったらとても柔らかくサラサラとしているのだろう。見た目こそ人毛にしか思えないその髪も人工物なのだろうかと考えていると、ふと思いついた。
例えばクロエのあの美しい髪の色が金色ではなく黒だったら?茶だったら?そうなれば見た目の印象はガラリと変わるだろうし、髪色に合わせてメイクも変わったらとても面白いかもしれない。
「クロエ。お願いがあるの」
立ち上がり、クロエの背中に叫んだ。私の声に振り返ったクロエは先ほどと同じように優しく微笑み「かしこまりました」と返事をした。
まず私はクロエを椅子に座らせ、その髪に触れた。想像通り柔らかく滑らかな髪は絹のようで、とても美しかった。結っていた髪をほどきブラシで梳かしていく。そして次に私は彼女に黒髪のウイッグを被せた。私の狙い通りクロエの印象は大きく変わり、今しているメイクにも違和感を覚え始める。
髪色を変えるならば眉の色も変えるべきだと思うし、黒髪に黒いラインとシャドウは暗く、威圧感を与えかねない。例えばこのシャドウをオレンジへ、ラインとマスカラをブラウンに変えるのはどうだろう。逆にリップは、ピンク系統の色であれば万人受けするだろうが、例えば深紅ならば、ブラウンならば、パープルならばどうなるだろう。
自分にするメイクとは違い、他人にするメイクは分かりやすく新鮮だった。様々な考えが浮かび、頭の中を満たしていく。アイディアやデザインを忘れぬようすぐに書き止め、分かりやすくまとめていった。
悪い言い方をするならば、クロエを“実験台”にして数日。私はカムスキーに自分の考えをまとめたデータの入っているタブレットを手渡した。彼は目を細め、顔を歪ませる。私には何を言われるかが予想できたので、同じように顔が歪んだが、カムスキーの言葉は予想していたものとは全く違っていた。
「まさか、もう出来たのか?」
彼のことだから「遅い」だとか「ちゃんと仕事したのか」などの小言を言われるのかと思っていたため、拍子抜けして口が開きっぱなしになる。
カムスキーはそれ以上何も言わずにタブレットを起動させ、私が考えたデザインデータを黙って見つめた。私はつい茫然としてしまった表情を立て直し、彼が見るタブレットを覗き込みながら説明を始める。
「まず、全てのアンドロイドに髪色を変えるプログラムの導入を提案します。そして女性アンドロイドには最低でも3パターンのメイクのデザインをメモリに織り込むべきです。これがメイクデザイン例の一部です」
ディスプレイをスワイプすると、メイクのデザイン画が表示される。私が書いたものでとても上手いとは言えない絵だったが、雰囲気ぐらいが伝われば良いと半ばやけくそに近い思いだった。
「華やかな色味を多く使ったメイク、様々な状況にマッチするフォーマルなメイク、髪色に応じてそれに合うメイク、それぞれを考えました」
私はカムスキーに対しいつも敬語を使わない。それは彼自身が望んだ事で、「妻になるのだから丁寧な話し方はやめろ」というカムスキーの言葉を思い出す。しかし何故か私はいま、彼に敬語を使って話している。たとえカムスキーが気まぐれに任せた仕事だったとしても、私は真剣に、真面目に、全力で取り組みたいと思った結果だった。
何も言わず、口をかたく結んだままカムスキーはタブレットを見つめていた。何の反応も見せない彼の様子に少し不安を覚えていると、カムスキーは口元に手をあて自身の顎鬚を擦る。その仕草に私の心臓が大きく鳴ったのは、決してカムスキーの色っぽさに目を奪われたせいなどではなく、自分がおこなった仕事の評価を聞くのが怖かったからだ。
カムスキーはフゥと大きな息を吐くと、私の顔を見つめ、微笑んだ。
「驚いたな。君がここまで出来るとは思わなかったよ」
自分の仕事に自信がなかったわけではない。しかしカムスキーのその言葉は意外で、私は思わず茫然としてしまった。彼は微笑みを消さずに言う。
「すごいじゃないか。このデザイン案を次の会議で提出しよう」
何が起きているのかも、何を言われたのかも良く分からなかった。もしかしていま私、褒められてる?あのカムスキーに?そう頭の中で繰り返して自分に言い聞かせてみても、なんだか実感がわかない。
ふと気が付くと、カムスキーの手が私の頭の上にあった。そして髪をゆっくり撫でてから、軽く口唇を落とす。以前にも同じような行為をされたような覚えがあるのに、何故か恥ずかしくてたまらなくなる。自分の顔がどんどんと熱くなっていくのが分かった。
「単純でかわいいね、君は」
その言葉は、おそらく私を馬鹿にするものだったのだろう。それなのに何故か私は反論することが出来ず、ただ赤くなった顔をかくすようにうつむくことしか出来なかった。
もっと褒められたい、もっと必要とされたい、彼に。私はそう思ってしまった。