失楽園 - 5
“褒められたい”、という感情にはどんな意味があるのだろうか。例えば子供のころ、学校で良い成績を取ると父親が褒めてくれたり、家事の手伝いをすれば母親が褒めてくれた。頭を撫で優しい言葉をかけられたその感覚が忘れられず、ただ“褒められる”であろう行為を繰り返した記憶がある。
私はカムスキーに“褒められたい”と思った。さらに言えば、私を必要としてほしいとも思ってしまった。彼にとって私は駒で、必要か必要じゃないかと言えば、必要ではないのかもしれない。何故なら駒は、使えなくなった時にまた次の駒を用意すれば良いだけの話であるからだ。
女型アンドロイド用のメイクデザインを考えてからというもの、私は鏡に向かう時間が多くなった。自分の髪型を少しアレンジしてみたり、メイクを変えてみたりという行為をしていると、とても気分が落ち着く。それはたとえばアイラインの色を変えてみたり、前髪を数ミリだけ切ってみたりなどという僅かなことだったが、ほんの少しでも違う自分が鏡の中に居るという事実に胸が躍った。
ある日のこと。リビングに顔を出すとカムスキーがソファに座り本を読んでいた。いつも自分の部屋に閉じこもっている彼がそこに居る事に驚きつつも、私はクロエを探してキッチンに向かおうとした。その時だった。
私の体に視線が突き刺さったのが分かる。カムスキーは本に落としていた目線を上げ、こちらをジッと見つめていた。恐る恐る彼の方向を見ると案の定目が合い、私を凝視する少し不可思議な表情に、ひるむ。
「なに?」
その力強い目線に耐えられなくなった私が呟く。問いかけにカムスキーは何も言わず、読んでいた本を閉じてソファから立ち上がった。その間もカムスキーは私の顔を凝視したままで、ゆっくりと一歩、一歩と進み、私の目の前まで来た。
カムスキーが読めない行動を取ることには既に慣れていた。しかしこんな風に黙り込み、私の顔を見続けるなんておかしい。彼の視線に耐え切れずに私が目をそらそうとすると、カムスキーが顎を掴み、それを阻止した。
「ちょ、なにして……」
まるでキスをするかのような顔の距離に、上手く言葉が発せない。
そういえばとふと思ったことがある。私たちは初めてキスを交わしたあの日から、それ以上どころかお互いの手に触れることすらしていない。偽りの夫婦であり恋人同士でもないので当然ではあるが、その事実に気付いた時、なんとなく胸の奥が狭くなる感覚がした。
ただカムスキーの顔を見つめるしかなくなった私に対し、彼は呆れたようにフーンと長い溜息をつき、呟く。
「最近、君は綺麗になった」
一瞬のうちに自分の顔が熱くなったのが分かる。自分のメイクや髪型の僅かな違いにカムスキーが気づいた事にも驚いたが、この男はまた“夫婦ごっこ”でもしているに違いない。こうして私をからかって弄んで、反応を見て楽しんでいるだけなんだ。胸の奥のモヤモヤした気持ちを吐き出すかのように私はカムスキーを軽く睨む。
「言っておくがこれは冗談なんかじゃないよ。君は本当に美しくなった。私の妻にふさわしい女性だよ」
そう言う彼の表情は見慣れたどの顔でもなく、アンドロイドにも似た無表情だった。思ってもないようなこと言わないで、そんな言葉を吐いてカムスキーの手を振りほどきたい。それなのに私の口から声は出ないし、体は動かないまま。
“もし君が私を愛すようなことがあれば、私は君を捨てようか”
あの夜のカムスキーの言葉が頭の中に蘇る。私には自分がどうしたいのかが分からなかった。生活を保障してもらう代わりにやむを得ず、という気持ちが第一だったはずなのに、それが私の中からすっぽりと抜けている。カムスキーから解放されたいという思いよりも、彼に褒められたい、役に立ちたい、必要とされたい、そばに置いてほしいとすら、思い始めている自分が居る。
彼を愛する。その言葉はしっくりくるのに、そうすればカムスキーは私を置き捨てるだろう。“偽りの妻”として機能しなくなった私をアンドロイドを廃棄するのと同じように。
自分の頬に生暖かい不快な感触がした。それは涙で、私の意志とは関係なく、重力に負け次から次へと瞳からこぼれていく。目の前のカムスキーは無表情だった顔を崩し、目を丸くしていた。
「何故泣く?」
カムスキーの問いかけに返答は出来ない。何故涙を流しているのか、そんな事は私自身が聞きたかった。溢れ出る涙を止めようと必死になったが、それはかなわない。
顎を掴んでいたカムスキーの手が移動し、両手で私の顔を包むと親指で頬をぬぐった。彼の指先が涙で濡れていくのがわかり、その濡れた親指が私の口唇に触れる。軽く力を込められた指先が私の口唇を割り、歯に軽く触れた。
「この口紅、私が好きな色じゃないな」
その言葉も、表情も、とても冷ややかだった。しかし彼が怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも私を嘲っているのか、軽蔑しているのか、何もかも分からない。カムスキーの心が読めずにいると、そのまま口唇が重なった。
「落とせ。今すぐ」
口唇の隙間からカムスキーの囁きが聞こえた。熱く濡れた舌が入り込み、私の呼吸を奪う。間に押しつぶされた私のリップの色は、カムスキーの口唇へと移っていった。
情を感じやすい。カムスキーが私に言った言葉は間違っていなかったのだろう。だからと言って、誰でも愛せるわけなんかじゃない。きっとあなたじゃなきゃ、私は情を感じなかっただろう。でも認めたくはない。カムスキーを愛してしまったのかもしれない、なんてことは。
喉から手が出るほど欲しがっていた自由を得る条件は揃った。私はカムスキーに必要とされたいと感じた。彼に褒められ、そばに置いてほしい、そばに居て欲しいとすら感じた。一般的にこれは、カムスキーを愛しているといっても差し支えないのだろうと、まるで他人事のように思う。
もしカムスキー本人にこの事が知られれば、彼は自分の思い通りに動けない駒など必要ないと、私をあっさり捨てるだろう。その光景が安易に想像出来て、私は乾いた笑いを漏らす。
それならば、何も言わずに隠しておくのが最善だ。私の気持ちも、カムスキーに対する想いも、すべてを胸にしまっておこう。それが私がカムスキーのそばに居られる条件であるのならば。
私がカムスキーへの恋愛感情を自覚しても、変化したことなど何もなかった。いつもの食卓、いつもの寝室、いつもの仕事部屋にいつもの作業。一日のノルマが終われば、自宅でクロエの美味しい夕食と彼女の優しい笑顔が待っている。変わったのは私の心の中だけで、それ以外は何一つ、変わらない。
「カムスキー、私、終わったけど」
自身の作業を終え、デスクに向かうカムスキーの背中に声をかけるが、集中しているのか返答はない。彼はいつも私が勝手に帰ると少し機嫌が悪くなるため、こうして声をかけるようにしているのだが、作業に集中しているカムスキーはあまり返事をしない。
さて、どうしたものか。そう考えつつ、カムスキーの背中を見つめていると、私の視線に気づいたのかこちらに振り返り、乱れた前髪をかき分け疲れた声で言う。
「すまない。先に帰っていてくれるか。とりあえず今日中にこれを片付けてしまいたい」
カムスキーの顔色はあまり良くなかった。くぼんた目元がそれをさらに強調させ、寄せられた眉間の皺は深い。私は彼の体を心配しつつも「わかりました。お先に」とだけ言い、部屋を出た。
真っ白な廊下を歩き、出入口に向かう。そこで無人タクシーを捕まえ、自宅まで帰る予定だ。サイバーライフ社内は定刻時間をすぎているせいか、他の社員の姿もあまり見えない。白く、殺風景な社内がさらに寂しく見えてくる。
角を曲がり、そこにあるエレベーターに乗り込んで一階に向かう予定だった私の脚が止まる。エレベーターのすぐ横に、一人の女性が立っていたからだ。
誰だろうと思い顔を確認すると、目が合う。気まずさを感じ目をそらしながら、エレベーターのボタンを押そうと手を伸ばした、その時だった。まるで私の行く手を遮るかのように女性が目の前に立ち、私を見下ろす。
「あなたが、?」
名を呼ばれ驚いた。私はこの女性を知らない。それなのにこの女性は私を知っている。どこかであった人だろうかと考えはしたものの、思い当たるふしはなかった。女性はエレベーターから私の体を引き離すように腕を引き、壁まで追い詰める。
「ふぅん。あなたがあのカムスキーの奥さんなんだ」
心臓がドクリと大きく、ひとつ鳴る。私とカムスキーの関係を知る人がどれだけいるのか分からないが、この女性を私は知らないし明らかにサイバーライフの職員ではないだろう。そんな人が何故私とカムスキーの関係を知っているのか。
女性の顔を改めてまじまじと見ても、やはり見覚えがない。女性らしい長い髪と長いまつ毛。香水のような良い香りが漂い、体にフィットしたニットと、膝くらいまでのタイトなスカートがとても良く似合っている美しい人だった。
「私ね、カムスキーを落とそうとしたけど無理だったの。おかしいわよね。私みたいな美人にだってこれっぽっちもなびかないんだもの。さすが変人と呼ばれるだけあるわ」
女性が早口で言ったその瞬間に合点がいく。彼女はおそらくカムスキーに言い寄っていたのだろう。彼が以前に言っていた「私に言い寄ってくる女など、みな地位と権力欲しさの下品で薄汚い奴らばかりだ」という言葉を思い出す。この女性にはとても失礼だとは思ったが、もしかしたらこれがカムスキーの言った“薄汚い奴”なのだろうか。
私があれこれと考え、一人で勝手に納得している間も、目の前の美しい女性は綺麗なピンク色の口唇から次から次へと言葉を紡んでいく。
「初めはゲイなんじゃないかって思ったわ。次にドール愛好家なのかなって。でもやっぱり違ったみたいね。あなたって顔もスタイルも平凡だけど、どうやってあのカムスキーを落としたのかしら。彼って変わった趣味してるのね」
おしゃべりな人だと思った。そして次に、彼女の言葉はおそらく私とカムスキーを馬鹿にしているという事に気付く。彼女の言う通り、私は平凡な容姿で目を奪われるような美しい部分があるわけではない。それは自覚しているので、私自身を馬鹿にされるのは構わなかった。しかし、カムスキーを馬鹿にされると、なんだか無性に腹が立つ。
確かにカムスキーは変わっている。何を考えているか分からないし、オブラートに包めば“変人”。はっきり言えば“狂人”だ。私も最初はそう思っていた。しかし彼は彼の野望を遂げるために必死になっているだけだ。アンドロイドの事を考え、自身の事を考えているだけ。
私は手を握りしめ拳を作り、軽く睨む。それが女性の癇に障ったようで、同じように私を睨み返すと声を荒げた。
「ああ、わかった。あなた、彼のことを本当に愛していないんでしょう?どこかの誰かさんたちみたいに彼の財産や地位に惚れたってわけ?」
「違う」
気が付くと女性の声をかき消すように、食い気味に叫んでいた。今まで生きてきた中で一番の大声だったのではないかと思うほどの声量。女性も私の声に驚いたようで、目を丸くしてこちらを見たまま黙り込んでいた。
「違います。あなたたちと一緒にしないで頂けますか」
自分の声が震えているのが分かる。その震えは怒りからくるものだと思ったが、それだけではないようにも感じる。何か怒り以外の感情が混じっている、そんな気がした。
カムスキーの財産や地位なんかどうでもいい。あんなに必死になって仕事を探して、居場所を見つけようとしていた自分がまるで嘘のようだ。私には何も必要なかった。ただ彼のそばに居られればそれでいい。カムスキーが居なくては、意味がないのだ。
「私はカムスキーが好きです。あの人を心から愛しています」
声の震えは止まっていた。スムーズに口からこぼれたその言葉は、私の本音だった。今まで誰にも言ったことのない、本音。
女性は睨んでいた目を細め、まるで私を見下すようにフンと鼻を鳴らした。そしてすぐ近くにあったボタンを押しエレベーターを呼ぶと、ドアの目の前に立ちながら言う。
「ほんと、変人には変人が寄り付くものなのね。お二人の幸せを心から願うわ。さよなら」
そう言い切ったと同時にエレベーターが到着し、電子音と共にドアが開く。女性は颯爽とエレベーターに乗り込み、開閉ボタンを連打してドアを閉めた。
エレベーターホールを静寂が包む。女性の甲高い大きな声も、甘い香水の香りも、女性特有の雰囲気も、すべてが消えて“無”になった瞬間だった。それなのに何故か、私の肩に何か重いものが残っているような気がする。立っているのかつらくなり、すぐ近くにあったベンチに腰を下ろそうと後ろに振り向こうとした。
その時だった。自分の背後に人の気配を感じる。それはとても身に覚えがある雰囲気で、振り向いてその人物の顔を見ずとも、そこに誰が居るのかが私には分かる。カムスキーだ。
「今のは何だ?」
カムスキーの低く、唸るような声が耳に届く。ゆっくりと振り返りその姿を見ると、腕を組み、無表情のまま私の顔を見つめている。
どうしよう、という思いと、ああやっぱり、という思いが混ざり合っていた。カムスキーに先ほどの女性との会話を聞かれた。彼女がカムスキーを落とそうとしていたこと。彼女が私やカムスキーを馬鹿にしていたこと。そして、私の本当の気持ちを。
黙り込んだまま、何も返答しない私に苛立ったのか、カムスキーは更に低い声で言う。
「今のは何だったんだと聞いている。答えろ」
今なら誤魔化せるかもしれない。例えば「さっきの言葉はこの場を切り抜けるための嘘です」だとか「あの女性がしつこかったので、つい冗談で言ってしまいました」などと言えば、この状況を切り抜けられるかもしれない。そう思うのに、私は何も言えなかった。
もうこれ以上、カムスキーに嘘をつきたくなかった。私はあなたが好きなのだと言ってしまいたかった。それを伝えれば彼のそばに居られなくなるということも、分かっていたはずなのに、止められなかった。
「カムスキー、私はあなたが好きです」
ただ一言。それだけを口にすると、私はカムスキーの顔も見ることなく、エレベーターとは真逆の方向へと走り出した。この先には非常階段がある。いま居る階が何階なのかは忘れてしまったが、ひたすらに下りれば会社の外に出られる。どんなに時間がかかっても、カムスキーが私を追ってくることは、きっとないだろう。
靴底が階段にぶつかり、擦れる音が耳に響く。これを下り切れば、もう終わりだ。私はもうカムスキーのそばには居られない。
“もし君が私を愛すようなことがあれば、私は君を捨てようか”
あんなに欲しかったはずの“自由”が、いま目の前にある。胸を締め付け、私を殺そうとしている、自由。このまま死んでしまおうかとすら思うけれど、私は天国になど行きたくはない。きっと天国には、カムスキーの姿はないのだから。