失楽園 - 6
カムスキーの家に自身の軽そうな荷物だけを取りに行き、そのまま出て行こうかと考えていた。しかしクロエの「おかえりなさい。お疲れさまでした」という挨拶と優しい笑顔に引き寄せられ、彼女の用意してくれた夕食を食べると、気が付いた時にはいつものようにベッドで眠っていた。習慣というのは恐ろしいものである。
いつもの寝室に、いつもの二人別々のベッド。どんな事があろうと明けない夜はなく、訪れた朝に目を覚ました私は、すぐ隣にあるカムスキーのベッドを見た。そこは、もぬけの殻だった。
なんとなく予想していたことだ。おそらくカムスキーは自宅ではない場所で夜を過ごしたか、あのまま会社に泊まったのだろう。彼が夜を越せる場所などいくらでもあるだろうし、サイバーライフ社内には綺麗に整備された仮眠室もある。
クローゼットから引っ張り出した、そこまで大きくはないボストンバッグ。そこに洋服や日用品、化粧ポーチやお気に入りのマグカップなどを詰め込んだ。元々ここはカムスキーの家だ。私の荷物など多くはない。
引き出しをかき回し、次から次へと荷物をバッグへ詰め込む私の背中に柔らかな声がかかる。
「?」
声がした方向へ振り返ると、部屋の入口付近にクロエが立ち、こちらを見つめていた。その表情はいつものにこやかなものとは違い、ほんの少しだけ不安そうに見える。アンドロイドにそのような感情は存在しないので、私の気のせいなのだろうと解釈した。
「あなたにも、さよならしなくちゃいけないね」
立ち上がり、ゆっくりとクロエに近づいた。彼女はこちらをみていたかと思うと、どこか寂し気に目を伏せる。私はクロエの美しいラインを描く顎に手を添え、顔を上げさせると、両手で頬を包むようにしながらその綺麗な瞳をジッと見つめた。
「クロエ。私はもういかなくちゃ。元気でね」
そう言うと、クロエの瞳が一瞬曇った気がした。そしてだんだんと眉間に皺が寄っていき、明らかに悲しそうな表情をする。アンドロイドがそんな顔をするのを、私は初めて見た。
「寂しいです」
とてもか細い声で一言、クロエが口にする。私は目を見開き彼女を見つめ返すと、“寂しい”という言葉と、その意味を考えた。“寂しい”という“感情”は、人間なら誰もが理解できる事だろう。しかしクロエはアンドロイドだ。人間ではない機械人間のアンドロイドには、ただの一つも感情など存在しないはずなのに。
「あなたは、寂しいという感情が分かるの?」
クロエに問うと、彼女は困惑しているように眉間の皺を深くし、頷こうとしているのか首を傾げようとしているのか、曖昧に頭を動かす。見たことのないようなクロエの姿に、私は思わず笑みをこぼした。
感情を理解するアンドロイド。それが存在しても何ら不思議ではない。カムスキーが生み出した機械生命体たちはきっとこれからも進化し続け、彼のそばに居続けるのだろう。
クロエだけじゃない。きっとこの先様々なアンドロイドが、色んな感情を理解する日が来るかもしれない。そうすればきっと、彼らは今よりも更にカムスキーの役に立てるはずだ。私に出来ない事を、彼らが成し遂げてくれるに違いない。
「クロエ、私は、あなたに出会えて本当に良かった。ありがとう」
口にしてすぐに、クロエの肩を引き寄せてその体を抱きしめた。アンドロイドの体は人間のものとは明らかに違い、とても冷ややかに感じたが、彼女の体の奥底から聞こえるシリウムポンプの稼働音は、人間の心臓と同じだった。
“アンドロイドに罪はない”
いつしかこの場所でカムスキーが言った言葉をぼんやりと思い出す。彼の言う通り、アンドロイドに罪なんかなかった。ただこうして、私たち人間と同じようにそれぞれがそれぞれの人生を歩み、生きているだけなんだ。
クロエの顔を見たら涙がこぼれてしまいそうで、私は彼女から手を離すと顔を見ないようにうつむいたまま、逃げるように部屋を飛び出した。クロエは私を呼び止めることも、追ってくることもしなかった。
家を出てすぐ、太い道路が走っている通りを歩く。相変わらずの雪が降り積もり、歩きづらく滑りやすい道は真っ白に染まっていた。
自身の口唇から漏れる真っ白な息を見ながら、さてどうしようかと考える。今の私には仕事がない。そしてたった今、住む場所も失った。手持ちの金もほとんどなく、今日ならまだしも明日の食事すらままならないかもしれない。このままだとホームレスになるか、この寒さで凍え死ぬかのどちらかだ。
死。アンドロイドが廃棄されるのと同じように、人間も意外とあっさり死んでしまうものだ。昨夜、サイバーライフの階段を走り下りた時に考えていた事を思い出す。
いま死んだとしても、私は天国になど行きたくはないと思った。天国であろうと地獄であろうと、どこにもカムスキーの姿はないだろう。私は生きて、彼のそばに居たかった。あの家で、サイバーライフの仕事場で、彼の隣で、私は生きていたかった。
「」
ふと、誰かが自分の名を呼んだ。それが本当に自分を呼んだのかどうかも分からなかったが、反射的に声のした方向へ振り返る。その瞬間、私の顔面に何かがぶつかった。
「……うわ!」
顔を守るように前に手を構えるも時すでに遅し。自分の意志とは関係なく思わず声が漏れ、何が起きたのか理解できず、数秒間固まる。目元のあたりから白く冷たいものがパラパラと零れ落ち、視界にちらつく。その時にやっと、私は顔面に雪玉をぶつけられたのだと理解できた。
雪の冷たさと、かすかな痛みと、情けなさで泣きそうになる。顔面についた雪を手で払いのけながらも、こんな酷い事をしたのは誰だろうと、目の前に居る、雪玉を投げたであろう張本人を改めて見た。
その人物は男性で、長い髪、むさ苦しい髭、柔らかい雰囲気の眼鏡、とても暖かそうなモッズコート……。その全てに見覚えがあった。
「カムスキー?」
名を呟いたのと同時に、カムスキーは足元にあった雪に手を伸ばして両手で雪玉を作ると、それを再びこちらに向かって投げた。私は身体をひねって雪玉を間一髪で避けたが、カムスキーはひるむことなく第三投のために再び雪に手を伸ばそうとしている。私は彼を止めるために慌てて声を上げた。
「ちょっと、何するの!やめてよ」
「あの日の仕返しだよ。忘れたのか?君は初対面の私に雪をぶつけてきただろ」
カムスキーが再び雪玉を投げ、同じくそれを間一髪でかわす。私がいくら避けようと、何を言おうと、カムスキーの手が止まる気配はなかった。再び雪に手を伸ばし両手で丸め、こちらに投げるために振りかぶる。キリがないと判断した私は走るようにカムスキーに近づくと、彼の両手をとって体の動きを止めた。
「やめてってば」
大きな声で言うと、カムスキーはまるで電池が切れた機械かのように、あっさりとその動きを止めた。彼の手から雪玉が落ち、地面にぶつかったそれがぐしゃりという音を立てて崩れる。
「誰が出て行って良いと言った?」
低く、擦れた声の呟きだった。カムスキーの表情は感情が読み取れない無表情で、私は彼が怒っているのか悲しんでいるのか分からない。掴んでいたはずのカムスキーの手は何故かいつのまにか逆に私の腕を掴んでいて、先ほど雪を触っていたせいだろう、手のひらはとても冷たく、ほんの少し濡れていた。
離して。その一言だけを口にしようと、微かに震える口唇を開いた瞬間、カムスキーが私の腕を引いた。彼の太く長い腕が背中にまわり、骨が軋む音が聞こえるのではないのかと思うほど、強く抱きしめられる。呼吸が止まった気がした。
名を呼ぼうとその一文字目を声にした時、それをかき消すようにカムスキーが声を荒げる。
「私を愛したら君を捨てるという言葉は撤回する。、君を、私の本当の妻にする。いま決めた」
上ずった声で、まるで子供のような言い分。カムスキーがこんな風に話すのを、私は初めて耳にした。
ただ冷ややかにこちらを見る水色の瞳。いやらしく笑い、人を物のように扱う態度。気持ちや行動も悟らせて貰えない、鉄壁に守られた心。そのどれも、いま目の前にいるカムスキーには存在しなかった。
私の体を抱きしめていた腕をほんの少し緩め、顔を覗き込むように距離を取る。彼の目はとても優しかった。細められた目の奥にある瞳の色には、冷たさなどまるで感じない。
「どこにもいかないでくれないか。私のそばにいてくれ」
カムスキーは囁くような小さな声で言うと、私のこめかみのあたりに口唇を落とす。優しく柔らかなキスに、私の目からは涙がこぼれ、頬にいくつもの筋を作った。
視線を絡ませながら、ゆっくりと頷く。それと同時にデトロイトの街に、真っ白な雪が降りだした。
…
……
………
ゆっくりと目を開けた。視界には真っ白な天井、背中には柔らかく滑らかなシーツ、大きく高級感溢れるベッドが体を包んでいる。相変わらず自分の周囲は、あの世みたいに白いものばかりだなと思った。
時は2029年。デトロイト郊外にあるカムスキー邸。ここには周囲に何もなく退屈だ。サイバーライフを辞職した夫、イライジャ・カムスキーが建てた無駄に広い大きな家で、私たちは暮らしている。
ふと隣を見ると、イライジャの姿がなかった。シーツの少しくぼんでいる部分に手を当てると、ほんのりとぬくもりが残っており、彼がそこに居たことを証明していた。昨夜は一緒に眠りに落ちたはずなので、先に目を覚ました彼はシャワーでも浴びているのだろうかと予想する。
ベッドから這い出た所でふと気が付く。そういえばイライジャどころか、クロエの姿も見当たらない。いつもならば私が起きるとすぐに「おはようございます」と挨拶をしに来て、朝食のメニューを選ばせてくれるというのに。
不思議に思いながらも、私は寝巻のまま部屋を出た。廊下を裸足で歩くと、ぺたぺたという音が耳につく。少し歩いた先にある、壁一面がガラス張りになっているプールがある部屋に、彼は居た。
部屋の扉をあけ中を覗き込むと、イライジャがこちらを見て、微笑む。彼は私と同じように寝巻のまま、プールサイドにある椅子に腰かけ、窓から見える外の風景を眺めているようだった。私は部屋に入り、イライジャに近づきながら言う。
「今日は早起きだね」
私の言葉に、イライジャは表情を変えずにゆっくりと瞬きをする。今が何時なのかもわからないのに「今日は早起き」だと言うなんて、自分でも少しおかしかった。
ゆっくりと近づく私に、イライジャが手を伸ばした。腕を引かれるまま、私は椅子に座る彼の膝の上に座り込む。寄りかかり、体を預け、同じように窓の外の風景を見つめると、イライジャの腕が体を包み、後ろから抱きしめられる。視界に広がるのは、上から下へと小さな雪の粒が舞っているだけの、真っ白で退屈な風景だった。
「君が起きるのを待っている間、雪を見ていたんだよ」
イライジャが言う。その言葉に私は眉をひそめた。ただ静かな水辺が広がっているこの場所には面白いものなどなにもなく、ひたすらに舞い、降り積もる雪ぐらいしか眺めるものがないという事は、なんとなく分かる。
「覚えてるか?私たちが初めて会った日のこと。同じように雪が降り積もった寒い日だった」
「うん」
「君は私に雪をぶつけてきたね」
「……う、うん」
「女性にあんなことをされたのは生まれて初めてだったな。なんて野蛮な女なんだと思ったよ」
その話の内容に、自分が責められているような気分になり、なんとなく居心地が悪くなる。私はイライジャの腕の中で軽く身じろぎをしたが、彼は私を逃すまいと腕の力を強めた。耳元に息遣いを感じる。
「いま思えば、私の一目惚れとかいうやつ……だったのかもしれないな」
昔を思い出すようにしみじみと言うイライジャに私は後ろに振り向こうとするが、彼の腕の力が強くて上手くいかない、苦戦する私を楽しむかのようにイライジャはくつくつと喉の奥で笑い、言う。
「ちなみに慰謝料の10万ドルだが、いつになったら払ってくれるんだ?」
「え!」
思わず大きな声を出し、イライジャの腕を振り払うようにして彼の顔を見た。私の反応を楽しんでいるように、片方の口角だけを上げていやらしく笑っている。
「それは、その、私とあなたが結婚することで、チャラになったんじゃ?」
「いや?まさか君は自分に10万ドルの価値しかないとでも思ってるのか?」
10万ドル。当時の私にはとても払えるような値段ではなかったが、いま思えば額面などなんてちっぽけなのだろう。私がいまここにいる事実も、イライジャの存在も、とてもお金に換えられるものではないと、強く思う。
何も言い返せず、ただ口を結ぶ私の様子を見たイライジャはフ、と吹き出すように笑い、私の額にキスをした。
「なぁ、。これからも何があろうと私のそばに居ると誓えるなら、その10万ドル、チャラにしてやってもいいぞ」
甘く、最高の口説き文句と言ってもいいくらいのセリフ。それなのに私にとっては何故か憎たらしく、それでいてひどく愛おしいと感じる。イライジャがとても楽しそうに、まるで子供のような悪戯っぽい笑いを浮かべている事で、その気持ちが強くなった。
そんなの、誓わなくったってそばにいるわよ。頭の中に浮かんだ返答を声にはせず、私はただ黙ってイライジャの口唇に軽く触れるだけのキスをした。それはまるで、神の前で永遠の愛を約束する時のような、誓いのキス。
大きな窓から見える景色は先ほどよりも深い深い、白だった。
END