失楽園 - 1

 死後の世界。いわゆる“天国”と言われる場所はどんな所なのか。雪が降り積もるデトロイトよりも白く、それでいてこことは違い、きっと暖かい場所なのだろう。いま私が死ねば天国に行けるのだろうか。

 時は2026年。安全で人件費のいらない自動運転の車が増え、タクシードライバーは次々と職を失ったという。私は自分も同じような目に合うのだという事も知らず、呑気にもそれを他人事のように考えていた。

 私はそこまで大きくない会社で、事務員として働いていた。事務員と言っても仕事は多く、大切な書類やデータの処理、荷物の搬入を手伝ったり取引先の客にお茶出しをしたりと、業務は幅広かった。そんな自分を、あの会社はあっさりと解雇した。

 原因は憎きアンドロイドだ。上層部が買ったというサイバーライフ社製の最新型女性アンドロイド。金色の髪と青い目がとても美しかった。型番など知らないしどうでもいい。私はそいつのせいで仕事を失った。私はこなしていた業務をそのアンドロイドに全て、奪われたのだ。

 あっさりと無職になってしまった私はすぐに次の仕事を探そうとした。しかしデトロイトという街はもうすでに私が良く知る住み慣れた街ではなくなっていた。機械を使用した作業の自動化や、最新型で高クオリティのアンドロイド普及により、どこもかしこも人の手を必要としていなかったのだ。

 雪が降り積もる冷たく暗いデトロイトの街を歩き、私は帰路についていた。今朝も早くから雇ってくれそうな会社を回ったが全滅で、もはや涙どころかため息すらも出てこない。まともな貯金すらない状態で何日も仕事が見つからなければ、光熱費や家賃すらも払えないというのに。

 そして、未来どころか明日の自分すらも見えない私に追い打ちをかけるような出来事があった。学生時代から付き合っていた恋人に、振られた。何年も一緒に居たというのに別れと言うのは想像以上にあっけなく、電話でただ一言「別れよう」と告げられた。

 女々しく泣いてすがりつく気力すらも今の私には残っておらず、電話を切ったあと冷静にも彼の連絡先をスムーズに消した。スマートフォンを上着のポケットに押し込んだその時にやっと今起こった事が現実味を帯びてきて、鼻の奥がつんとしてくる。

 もしかしたら彼は、無職になった私が負担になると思ったのかもしれない。もし職を失わなければずっと一緒に居れたのだろうか。もしかしたら結婚出来たのだろうか。色々な考えが頭に浮かぶがもう全て、何もかもが手遅れだ。

 雪の道を踏みしめる脚に上手く力が入らない。とりあえず早く自宅に帰り、熱いシャワーで体を温めてから今後の事を考えなければ。わずかな希望すらも見えない“今後”の事を。

 その時だった。俯き、足元だけを見てゆっくり歩いていた私の顔面に何かがぶつかった。それがすれ違おうとした他人の肩だと気が付いた時には既に、雪に足を取られた私の体はバランスを崩していた。あ、倒れる。まるで他人事のように思った時、ぶつかった相手が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。

「あ、」

 小さく声が漏れる。腕を掴まれ引っ張られた私は倒れずに済み、崩れたバランスをなんとか立て直すと、足の裏からギュウ、と雪を踏みしめる音が聞こえた。私はすぐにぶつかった相手、つまり私の腕を掴み倒れる事を阻止してくれた人の顔を見た。男性だった。

「あ、すみませ……」

 聞こえたか聞こえなかったか、自分では判断できないくらいの小さな声が私の口から漏れる。男性は長い髪を頭の後ろで無造作にまとめており、むさ苦しい髭をたくわえ眼鏡をかけていた。とても暖かそうなモッズコートを着ており、見た目に反してどこか品があって不思議な感覚がする。しかも何故か私には彼の顔に既視感があった。どこかで会った人だろうか。

 お礼を言おうとしたその時だった。彼は表情を歪ませチッと小さく舌打ちをすると、呆れたように鼻でため息をつきながら手を離した。これは私の被害妄想かもしれないが、その行為はまるで“汚いモノに触れてしまった”時の仕草かのように見えた。

「気をつけろ。下ばかり向いて歩くな」

 彼は吐き捨て、私の横を通り過ぎて行く。私の体はこの寒さに凍り付いたかのように動かなくなった。

 確かに彼の言う通り、前を見ずに歩いていた私が100%悪い。しかしどうして顔も名前も知らない赤の他人にそんな風に言われなければならないのだろう。どうしてこの世界はこんなに私に冷たいのだろう。アンドロイドに仕事を奪われ、たいした財産もなく住む家も失う寸前で、たったいま長年一緒に居た恋人に別れを告げられた。そんな私に、どうして誰も優しい言葉の一つもかけてくれないのだろう。

「そんな言い方しなくたって……いいでしょ!」

 思わず口にした言葉はただの八つ当たりだった。しかし頭が真っ白になるというのは、こういう事なのだろうと今更ながらに思う。

 涙が出そうになるのを下口唇を噛んで耐えると、私は足元に降り積もっていた雪に手を伸ばした。指先に冷たい感触がしたが、お構いなしに白い塊を鷲掴みにする。それをそのまま両手で丸め、野球ボールほどの大きさの固い雪玉にすると、彼の後ろ姿めがけて思いきり投げつけた。

「こっちはアンドロイドに仕事を取られて未来も見えなくて、前なんか向けない!自分の足元しか見れないんだから!」

 気が付いた時には、自分でも驚くぐらいの声量で叫んでいた。赤の他人である彼からしたら意味不明の言葉であるし、雪玉も理不尽な暴力だろう。しかし私は運動神経が悪い。学生時代の野球の授業でも良い成績を残せたことなんかなかった。私が投げた雪玉は案の定上手く当たらず、彼の肩をかすめた。雪玉はそこでぱらぱらと崩れ、再び雪となって地面に落ちる。

 通りに居る他の通行人たちが私の大声に驚いてこちらに振り返っていた。その光景を見た私はすぐ我に返り自分の口元を押さえたが、時すでに遅し。雪玉を肩に受けた彼はゆっくりとこちらに振り返り、私を睨みつけた。

 ヤバイ。そう思ったが口唇が震え上手く声にならなかった。震えは寒さから来るものなどではなく、自分がしてしまった事への恐怖から来るものなのだろう。誤魔化すように下口唇を噛む。それと同時に目の前の彼が眉間に深い皺を寄せたまま、睨むような表情で私の方へ一歩、近づいてきた。

「ご、ごめんなさい!」

 謝罪の言葉を叫ぶと、私は踵を返しその場から全速力で逃げ出した。背後で「待て!」と叫ぶ彼の声が聞こえたが、ふり返らず、どこに向かっているかも分からないまま、走った。


 道でぶつかった彼に雪玉をぶつけ逃げ帰ったあの日から数日が経った。未だに彼に対する罪悪感も既視感も私の中に残ったまま。何回か同じ通りを歩いてみたが再び彼に会う事はなく、安心したような、胸の不快感が増したような何とも言えない気持ちだった。

 しかし、私は何故彼に既視感を覚えているのだろう。自分の中にある知り合いの記憶を思い起こしてもあのような長髪と髭面は見当たらないし、誰かに似ているだけだろうかとも考えたが、思い当たるふしもない。まぁおそらく気のせいなのだろうと考えないことにした。

 この日も私は部屋に閉じこもり、ベッドの上に寝転がって電子書籍の求人誌が表示されたタブレットと、ネット求人のサイトを開いたノートパソコンを置き、それを交互に眺めていた。この際、業務内容や給与を選んではいられない。そう思ったが、アンドロイドが普及し始めた昨今、人間には高いスキルが求められ、自分を雇ってくれそうな会社はそうそう見つからない。

 はぁ、と軽い溜息をつく。コーヒーのおかわりをしようとマグカップを手に持ち、ベッドから足を下ろしたその時だった。玄関に設置されたインターホンが一度だけ、ジリリと鳴らされた。

 思わず小さく「げ」と声を漏らす。もしかしたら、私が住むこのアパートの大家が家賃の取り立てに来たのかもしれないと考えたからだ。私は音をたてぬよう、ベッドサイドのテーブルにマグカップを置き、抜き足差し足で玄関ドアの前まで歩いた。

 外の様子を伺うために玄関ドアの覗き穴に顔を近づけようとした、その瞬間だった。向こう側に居るのであろう来訪者がドン!と大きな音を立てて玄関ドアを叩いたのだ。ドアが歪むのではないかと思うほどの力強さに私はひるみ、思わず開錠してドアを開けた。

 私の頭の中はと言うと「ついに大家さんが本気で怒った」のだろうと思っていた。しかしその予想は大きく外れ、ドアを開けた目の前に立っていたのは、背が高い、若い男性だった。私が知る大家は小柄で年配の女性なので、少なくともこの男性は大家ではない。

「遅い」

 男性は呟いた。その言葉はおそらく、私が玄関ドアを開け迎え入れるのが“遅い”という意味なのだろう。彼は長い髪を頭の後ろで無造作にまとめており、むさ苦しい髭をたくわえ眼鏡を……という所まで考えてハッとした。男性は先日私が道でぶつかり、八つ当たりをし、その挙句に雪玉をぶつけた彼、その人だった。

「あなたは……!」

 それ以上は何も言えず、ただ口を開けたり閉じたりを繰り返すことしか出来なかった。その表情はひどく間抜けだっただろう。自分の体のありとあらゆる場所から、経験したことのないような変な汗が噴き出たのが分かった。目の前の彼は怖いほどの優しい微笑みを浮かべ、言う。

「部屋に入れてくれないか。ここは寒くてね」

 妙な迫力におされるように一歩後ずさると、彼はそのまま私を部屋の奥に押し込むようにして玄関ドアをくぐる。ドアが閉まりきる大きな音が聞こえ、玄関は一気に薄暗くなった。

 彼は何しにここに来たのだろう。仕返し?謝罪?慰謝料請求?その前に何故、私の家が分かったのだろう。様々な考えが頭に浮かぶが、とりあえず先日の事を謝るべきだと思い、彼に向かって頭を下げた。

「あの、その、この間は本当に申し訳ありま……」

「汚い家だな」

 私の大きな声を彼の言葉がかき消した。そしてその言葉を反芻してから思う。今この人「汚い家」って言った?

 下げていた頭を上げると目の前に彼の姿はなく、無遠慮に部屋の奥まで進んでいた。見ず知らずの女の家にそんな風に入るなんて常識的に考えてありえないだろうと思いつつ、私も同じように部屋の奥へ進むと彼の背中に叫ぶ。

「ちょっと!勝手に入らないでください!何なんですか?」

 私が叫ぶように言っても、彼はお構いなしに部屋のカーテンを引いて開ける。窓の外を眺めながら「外の光が全然入ってこないな。カビが生えそうだ」などとブツブツ言い、まるで私の言葉が耳に入っていないようだった。

 なんかこの人、変だ。直感的にそう思い、警察に通報すべきかもしれないと考えていると、窓の外を見ていた彼が振り返り、私の顔を見た。

「君、名前は?」

 問いかけられた言葉を理解するのに少し時間がかかった。今更名前を聞くのかとも思ったが、そういえば私もこの男性の名前を知らない。私が返答に戸惑っていると、彼が「私はカムスキー。イライジャ・カムスキーだ。君の名前を教えてくれ」と優しく言った。

……、ですけど」

 カムスキーと名乗った彼の声が思ったよりも優しかったため私は少し油断し、戸惑いつつも名乗った。そして自分の名前を口にしてから、ふと思った事がある。彼の顔にも見覚えがあったが、イライジャ・カムスキーという名前にも聞き覚えがあった。しかしどこの誰だかまではハッキリと思い出せない。

 口元に手を当て、唸りながら記憶の引き出しをひっかきまわすが、いまいちハッキリしない。彼の顔とイライジャ・カムスキーという名前を何度も何度も頭の中で考えていると、いつの間にか目の前に居たカムスキーが囁くように言った。

「今日から君は、・カムスキーと名乗りなさい」

 その言葉に私は彼の顔を見た。この人は何を言っているのだろう。何故私がファミリーネームを変え、彼と同じファミリーネームを名乗る必要があるのか。赤の他人同士が同じファミリーネームを名乗るには養子縁組が思い浮かぶが、彼と私では歳が近すぎて養子も何もないだろう。

 私は彼を見上げながら両手を広げ、肩をすくめた。“あなたが何を言っているのか私には理解できない”という意思表示を強くしながら、言う。

「なんでですか。私を養子にするにしたって年齢が……」

「何を言ってる。養子じゃない。私の妻になるんだよ」

 その言葉が時間を止めたような気がした。心臓も思考も全てが止まったような気持ちになったが、目の前の彼は表情を変えずに優しい微笑みのまま私の手を取ると、その甲に口唇を落とす。

「私と結婚してくれ、

 彼に頭を真っ白にされたのはこれで二度目だ。一度目はあの日、道でぶつかり怒りと憤りと悲しみの感情に我を忘れた私は、彼に向かって叫び、雪玉をぶつけた。しかし今回は何も言えず、何をすることも出来ず、ただ目を丸くして彼の顔を見つめることしか出来なかった。