神の星 - 1

 世間一般的にネグレクトをして精神的、肉体的、金銭的に苦痛を与えるような親のことを『毒親』と呼ぶらしい。私の母は正にそれだった。幼い頃から不思議なまでに私に関心を示さず、家でもほとんど姿を見たことがなかった。ここ最近はいい歳をしてホストにのめり込み、毎晩飲み歩いたりブランド物を買い漁ったりして多額の借金を作っていた。

 そんな母が蒸発したのは半年ほど前のこと。母の借金は1,000万近くまで膨れ上がり、ホストクラブの売掛、つまりは『ツケ』も中には含まれているらしい。それだけならまだマシだったのかもしれない。最悪なのはその借金の連帯保証人が何故か私になっていたことだ。もちろん署名した覚えも捺印した覚えもない。しかし書面には間違いなく自分の文字での署名と印鑑がしっかりと押されていた。記憶にはないが、過去に言いくるめられ騙され書いてしまったのかもしれない。こういう愚かさは母親に似てしまったのだろうと自分を皮肉ってもひとつも面白くなかった。

 借金の返済をするため、私は夜の街に売り飛ばされた。江戸時代じゃあるまいし現代社会でこんなことがあるだろうか。私を従業員として買った店長らしき人はキャバクラや風俗店をいくつも経営しているやり手のようで、極道関係者とのつながりもあると耳にした。

 店長は私を気に入ったようだった。気に入ったと言っても恐らく顔と胸と尻くらいしかまともに見ていないだろうと思う。初めは地元の小さなキャバクラやガールズバーで何日か働かされた後、大阪の蒼天堀に飛ばされた。ついに風俗店で男のアレでもしゃぶらされるのかと思いきや、私が連れて行かれたのは『キャッスル』と呼ばれる巨大なコンテナ船の上にある謎の施設だった。そこでは違法な賭博や人が死んでしまうような闘技が行われたりしていた。何故船の上に城があるのか。何故船の上でこんなことをするのか。これのどこが娯楽になるというのか。金持ちの考えることはまるで理解出来ない。

 船の上に作られた煌びやかな街は外からの視界を遮るようにコンテナに囲われていた。視界の悪い甲板のあたりから海に目をやったが、陸地は遠すぎてまるで見えなかった。早く借金を返してこのふざけた船から降りるんだ。目の前に広がる何の変哲もない水平線だけを眺めながら強く決意した。

 私の仕事は主に金持ちの相手をすることだった。露出の激しい服を着てお酌をしたり飲み物を運んだりするだけ。しかし客に体を触られたり服の中に手を入れられたり、大量の酒を無理矢理に飲まされたりするなどは日常茶飯事だった。早くこのクソみたいな場所から解放されたい。その一心で私は耐えた。

 その晩も品性を感じない金持ちどもに強い酒を飲めと強要され無理矢理胃に流し込んだ。私はお酒にはそれなりに強いと自負している。しかし今日飲まされたのはそんな自分ですらひどく酔ってしまうほどに強い酒だった。あまりにも気分が悪くなりバックヤードに逃げ込む。外の空気を吸うべきかもしれないと思い裏口から店の外に出て、喫煙者用の灰皿とパイプ椅子が並ぶそこへしゃがみこんだ。

 吐きそうだった。煙草の吸殻の匂いが気分の悪さを増長させているような気がする。パイプ椅子に腕を乗せ寄りかかり吐き気に耐える。むしろ一度吐いてしまった方が楽になれるのかもしれないとも思った。

「だらしねえなぁ」

 背後から低い声が聞こえた。顔を上げる気力もなく、尚且つ自分に言われた言葉だとは思えなかったため伏せたままで居ると、固い地面に靴底が当たる軽快な音が聞こえた。革靴だろうか。自分に影が落ちたのが分かる。ああさっきの『だらしねぇなぁ』という言葉は私に投げかけられたものだったんだと思い、吐き気に耐えながらなんとか顔を上げようとした時だった。ドレスに合うようにまとめ上げていた後頭部の髪を鷲掴みにされ、まるで生首でも掴むかのようにしながら無理矢理に顔を上げさせられる。若い男性がこちらを覗き込んでいた。

「見ねえ顔だな。新しく入った奴か」

 問いに頷いて答える。男性はとても綺麗な顔をしていた。しかしこちらに向けられた笑顔は不気味で底が見えず、分かりやすく言えば邪悪に感じた。妙な恐ろしさと吐き気に同時に襲われ、思わず「う」と小さく声を上げる。

「吐きそうなのかよ。じゃあ手伝ってやろうか」

 男性はそう言うと私の頭を掴んだまま、散々飲んだ酒のせいでよれによれてしまったリップの隙間に指をねじ込む。何が起こったのか分からずに居ると男性の指は私の口の奥の方へと進んでいき、舌の根本のあたりを強く押し込んだ。その反動で胃の中に入っていた酒が外へと零れ落ち、ぼたぼたと音を立てる。

「おー、おー、よく出る、よく出る。いいねえ」

 男性はどこか楽しそうに笑いながら言う。とても嘔吐している人間の前で、それも満面の笑みで言う台詞には思えなかった。一度吐いたことで気分の悪さが薄らぎすっきりとした頭で彼の顔を見た時、思い出す。そういえば以前店長が、この『キャッスル』には西谷誉という名の若いオーナーが居るのだと言っていた。キャッスルで一番地位と権力があり、いわゆる『神』に等しい存在なのだと。有名な極道組織の人間らしいが組の名前は忘れてしまった。その神とやらが恐らくいま目の前に居る彼なのだろうと根拠もなく思う。

 西谷さんは唾液と吐瀉物にまみれた指先を私のドレスで拭う。その間視線はこちらに注がれたままで下から上までを舐めるように見られた。キャッスルのオーナーとあらば謝罪をしなければならないと思うも、上手く言葉が出てこない。

「あの、わたし、オーナーの前で、こんな……」

 申し訳ありませんと言葉を続けようとしたその時だった。西谷さんは私の首を掴むとそのまま絞めるかのように力を込めて引っ張り、私をその場に立たせた。呼吸が上手く出来ない状況に焦り、西谷さんの腕をひっかくようにしながら掴む。

「お前、ちょっと付き合えよ。な?」

 西谷さんは力を緩めぬまま、私の体を引きずるようにしながら歩き始めた。彼が一体何を考えているのかが読めず恐怖する。歩みを止めてしまったら掴まれている手を強く絞められて殺されてしまうのではないかと思い、ただ必死に脚を動かした。

 連れて行かれたのは上階の部屋だった。気が付けばバスタブに放り込まれていて、汚れたドレスの代わりの洋服も用意されていた。複数名の美しい女性たちが世話をしてくれてまるで客人のような扱いに戸惑う。身綺麗にされた私は誰も居ない部屋に取り残された。解放された大きな窓からキャッスルの眩しい光が入り込み、少し突き出たガラス張りの床の真下には闘技場のリングが見える。自分が置かれたこの状況が現実に思えなかった。

 西谷さんはこんな所に私をつれて来てどうするのだろう。彼の手や綺麗なスーツを汚してしまった責任を取らされるのかと思いきや、どうやらそうではないらしい。あれこれ考えていると襖が開き西谷さんが現れた。先ほどとは違い裸足だった。大股でこちらに近付き、床に正座をする私と目を合わせるようにしゃがみ込む。

「あの店の奴に聞いた。お前、実の親に騙されて売られて来たんだって?今時居るんだなぁそんな奴」

 西谷さんは目を細め、歯を見せて笑う。私のことを心底馬鹿にしているのだということが良く分かった。『実の親に騙された』という彼の言葉が胸に突き刺さる。騙されたことは真実に他ならない。しかしあのろくでもない母親のために自分が今こうしているとは思いたくなかった。私は自分の意思で自由になるためにここにいるのだと思いたかった。

「別に、騙されてません」

 情けなさから小さな声しか出ない。西谷さんは笑顔を消し、今度は不気味な無表情を浮かべた。目線は同じ位置にあるというのにまるで私を冷たく見下しているような瞳だった。

「誰だってそう言うんだよ。さっさと金返して、こんなとこ出たいだろ?」

「あの、何がおっしゃりたいんですか?」

 問いに対する答えはなく、西谷さんは黙ってその場に立ち上がった。座っている私の目線と丁度同じくらいの高さに西谷さんの股間がある。嫌な予感がしたのと同時にカチャカチャというベルトのバックルがぶつかる音がした。西谷さんは笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。血の気が引くとはこういうことを言うのだろうと呑気にも思った。

 このままでは無理矢理に咥えさせられる。思わず四つん這いでその場から逃げた。立ち上がろうとした瞬間に腕を掴まれ引き倒される。赤い絨毯張りの部屋だったため体にそこまでダメージはない。しかし私を組み敷いている西谷さんの顔があまりにも恐ろしく、生きた心地がしなかった。

「逃げんなって。悪いようにはしねえから」

 大声を出されることを阻止したいのか、西谷さんは人差し指と中指を私の口の中に突っ込んだ。先ほど店の裏で吐かされた時と同じように長い指が舌の根本辺りまで到達し、そこを強く押される感覚がする。

 もう嫌だ吐きたくない。私の胃は空っぽでもう吐き出せるものなんかない。必死に抵抗し手を前に出す。指先や拳が西谷さんの顔に当たるも彼にとっては屁でもないだろう。

 霞んでいく視界の端に何かが映り込んだ。それは西谷さんの腰に収められた白鞘の小さな刀、いわゆる『ドス』のようだった。手を伸ばし掴んで引くと、鞘から抜かれた刃がキャッスルの光に照らされて妖しく光る。これを使えば彼は死ぬかもしれないなどとそんなことを考える余裕などなかった。私は掴んだドスをそのまま西谷さんに向けて突き出した。

 自分の体に温かい血が降りかかったのが分かる。しかし人の体を貫いたような感覚はなかった。それもそのはずで、私が突き出したドスは西谷さんの素手によって掴み止められ体には刺さっていなかった。手から血がぼたぼたと滴っていき、私の体にこぼれ落ちて行く。

 仕留め損ねた。もうおしまいだ。絶望の気持ちで呆然とする。私はこのまま彼に犯され弄ばれ、嬲り殺されるんだろう。全てを諦めて目を閉じた。

「いいねえ!お前!」

 急に大きな声を出され、驚きから閉じた目をまたすぐに開く。目の前にある西谷さんの顔は先ほどまでの不気味な笑顔とは違い、心の底から楽しくてたまらないというような表情だった。

「なぁ、俺にもっとくれよ。お前の殺意をよ」

 この人は何を言っているんだろうというのが率直な感想だった。西谷さんの思考がまるで理解出来ない。ドスを握ったままの私の手の上に刀傷だらけで血にまみれた彼の手が重なる。ぬるぬるとして生暖かい血の感触が気持ちが悪い。それと同時に西谷さん本人も気持ちが悪かった。この人はきっと今までの人生で出会ったことのないレベルの『ヤバイ人』に違いない。このままここに居てはいけないと強く感じた。

 右脚で西谷さんの腹部を思い切り蹴り上げる。女の些細な蹴りなど何のダメージにもならないと分かっていた。しかし目的はそこではない。攻撃によって生まれた一瞬の隙をついた私は西谷さんの体を強く押すと、手を振りほどきながら立ち上がってその場から駆け出した。

 どれが本当の出入り口なのかも分からないまま適当な襖を思い切り開ける。部屋の外に出ようとした時、西谷さんが「なぁ!」と大きな声を上げた。思わず足を止める。

「今日のところはこんくらいで勘弁してやる!でも逃げられると思ってんじゃねえぞ!!」

 部屋全体に響き渡るような怒鳴り声だった。何故彼が私の名を知っているのだろうかという疑問に気付かないふりをしながら、振り返らずにその場から逃げる。振り返らなかったというより振り返れなかったという方が正しいかもしれない。西谷さんの顔をもう一度見るのがあまりにも怖かった。

 見たこともないような通路をあてもなく走りながら顔や体についた血を拭う。『逃げられると思うな』という言葉と、一番最後に『』と私の名を呼んだ西谷さんの声がいつまでも頭の中に響いていた。