神の星 - 2

 西谷さんが何故私の名を知っていたのかと疑問に思っていたが何てことはない。私がこのキャッスルに居る事情を『あの店の奴に聞いた』と彼は言っていたので、その際に名などの情報も知ったのだろう。

 あの後私はすぐにかび臭く粗末な自室に戻り、布団をかぶってひたすらに怯えていた。もしかしたら西谷さんのスーツを汚してしまったことや怪我をさせたことへの責任を取らされると思ったからだ。いったいいつ部屋のドアが叩かれるのだろうと震えていた。しかしその時は一向に訪れなかった。

 何が起ころうとも人間には平等に朝がやってくるように、私には働かなければならない夜がやってくる。本当はこのまま布団に身を守って貰いたいところだが、借金がある私は店に出なければならない。一刻も早く一円でも多くお金を稼いで、この船から降りなければならない。

 いつも着ている品のないドレスに着替え派手なヘアメイクを施す。今日も金持ちの暇つぶしに付き合うだけ。ろくでもない客のグラスに酒を注ぎ、時には一緒に飲み時には話に耳を傾け愛想笑いをする。ただそれだけだ。そのはずだった。

「ちょっとさん!?遅いよ!なにしてんの!早く来て!」

 出勤するなり慌てた様子のボーイが言う。私を指名した客に急かされたのかと思い急いでついていくと、奥まった場所にある個室に案内された。そこは特別な客にしか許されないVIPルームで入るのは初めてだった。なんだか嫌な予感がして唾を飲む。

「ここですか……?」

 思わず体を固め問うと、ボーイはまるで早く入れとでも言うように私の背中を軽く押した。

「そうだよ!さん指名!早く入って!一秒でも待たせちゃいけない人だから!」

 嫌な予感が増してゆく。ドアノブに腕を伸ばす勇気が出ない。私がいつまでも中に入ろうとしないことにボーイは苛立ったのか、ドアを半開きにするとその隙間に私の体を押し込んだ。突然の行動に驚きつつも声が出ない。中で待っている客はどんな人なのか訊こうかと思っていたが、ボーイは既にその場から去っておりタイミングを逃してしまった。

 客が居るであろう正面に向き直り軽く頭を下げる。薄暗い空間に目を凝らすと座り心地の良さそうなVIP用のソファにふんぞり返るように座る彼が居た。

「昨日ぶりだなぁ、

 嫌な予感もしていたしある程度予想していたとは言えサーッと血の気が引く。この感覚も昨日ぶりだなと呑気にも感じてしまった。西谷さんは昨日と全く同じスーツを着ていたが血などの汚れはついていなかった。きっと同じ物を何着か持っているんだろう。こんな大きくて意味の分からないコンテナ船を持っているんだ。金なら腐るほどあるに違いない。

「ほら、突っ立ってねえで座れって」

 西谷さんは自分の隣のスペースを手で叩く。席には彼一人でお付きの人間は見当たらない。私はゆっくりとソファへ近づき恐る恐る西谷さんの隣へ腰を下ろした。これでもかという視線が全身に突き刺さって痛い。

「何を、お飲みになりますか?」

 とりあえずはいつものように仕事をしようと思い、西谷さんに問いかける。声は震えなかったし裏返ったりもしなかった。きっと冷静を装えたはずだ。そう思いながら西谷さんの方を見ると、ゆっくりと口角を上げながら私を見つめていた。相変わらずの不気味な笑顔に思わず目をそらす。しかしそれを許すまいとするように西谷さんは私の顎を掴み、額が触れ合いそうなほどに顔を近付けて来た。

「俺がお前を借金から解放してやるよ」

 何を言われたのかが一瞬分からず、何の反応も出来なかった。西谷さんはこれでもかというほどに口角を上げていやらしく笑う。

「残りの借金を、俺が全部払ってやる」

 それは予想もしていなかった言葉だった。母の借金を背負うことになってから数カ月ほど。返せた額は100万にも満たないだろう。全額で1,000万ほどの借金を全額返済出来るのは一体いつになるのか気の遠くなるような話だった。そんな自分には『残りの借金を俺が全部払ってやる』という言葉はあまりにも甘い響きだった。しかし、キャッスルのオーナーという権力者が私のような平凡で面白味もなければどうしようもない女を見返りなくタダで助けるわけがない。

「その代わり、お前はこのキャッスルから出さねえ。これからずっと俺の傍に置いとく。逃げるようなら首輪でもつけて鎖に繋いでやる。な、いいだろ?」

 ほらやっぱり、と頭の中で独り言ちる。西谷さんは私の腰に手を回し、いやらしい手つきでそこを撫でた。振り払いたい気持ちを抑え下口唇を噛んで耐える。

「あなた、なんなんですか……?どうして私なんかにそんなことを言うんですか?私じゃなくても、女なんか掃いて捨てるほど居るんでしょ?」

 昨夜、生暖かい血の感触と彼本人が率直に気持ち悪いと感じたが、あの時と同じ感情に再び襲われる。西谷さんはフンと小さく鼻で笑ってから「随分な言い様じゃねえか」と独り言のように呟いた。

「ありがたいお話ですが、私は真っ当に働いて借金を返してここを出ますので、お断りします」

 『ありがたい』などとは微塵も思っていないが、建前上の言葉を吐き捨てる。西谷さんが何を飲むのか聞いていないにも関わらず、アイスペールから取り出した氷を適当なグラスに入れた。とりあえず何でもいいから酒を飲ませてさっさと帰ってもらおう。そう思っていると、再び西谷さんの顔が近付いてきて耳元で低い囁きが聞こえた。

「一人で払い切るには途方もねえ額なんだろ?俺を頼れって」

 何が『俺を頼れ』だ。どうせ私をここから出さず都合の良い道具にしようとしているんだろう。この西谷という男の奴隷になるくらいならキャッスルの奴隷で居た方がまだましだ。

 ふと気が付くと自分の太ももに西谷さんの手が置かれていた。ドレスのスリットから手が差し込まれ肌を直接撫でられる。軽蔑の気持ちを混ぜた目線で睨むように見たが、西谷さんは太ももに置いた手を退かそうとはしなかった。

「その目……」

 西谷さんが呟く。独り言かのような言葉の意味が分からず、思わず眉間に皺が寄った。

「お前のその目だよ。その目がたまんねえ。俺のこと、ぶっ殺してやりてえって思ってんだろ?」

 黒いネイルの大きな手がこちらに伸びて来て、どこか愛おしそうに私の頬を撫でた。不釣り合いすぎる優しい手つきに心臓が跳ねたが気付かないふりをした。目が離せなくなり視線がいやらしく絡まる。西谷さんの無駄に綺麗な顔に気を取られているうちに肩のあたりを掴まれ、そのままソファへ押し倒された。西谷さんは私の下半身を跨ぐように馬乗りになる。

「なぁ、もっと俺のこと見てくれ。ギンッギンの殺意がこもった目でよ」

 声が出なかった。それは彼の理解不能な雰囲気に飲まれたからなのか、それとも今度こそ犯されるのではないかという恐怖からなのか、どちらかなのかが自分でも分からない。

 私の下腹部に西谷さんが跨っていて、なんとなくそこへ目線をやるとあることに気が付いた。スラックスのファスナーがある辺りが大きく膨らんでいる。その部分が時折私の体に触れたが、とても固い感触で尚且つ熱を帯びているように思う。間違いない。西谷さんは勃起していた。

「ああ、もうこんなんになっちまったじゃねえか。責任取ってくれよ」

 吐息交じりの艶っぽい声が耳元で囁かれ、西谷さんの手のひらが私の胸に触れた。とっさに手を伸ばしテーブルの上に置かれていたアイスペールを掴むと、それを西谷さんの頭部目掛けて思い切り振りかぶる。ガン、という鈍い音が聞こえ、中に入っていた氷が辺りに散らばった。

 こんな攻撃ひとつで西谷さんを仕留められるとは思っていない。私は一瞬の隙をついてVIPルームを飛び出した。彼から逃げるのはこれで二度目。背後から名を呼ばれたが止まれなかった。店内のテーブルとテーブルの隙間を走り、店の外に飛び出す。キャッスルに逃げ場なんかない。それでもとにかく走った。ドレスとヒールではあまりにも走りづらかったが、とにかくあてもなく走った。

 もう嫌だ。こんな所に居たくない。弱音ばかりが頭のなかをこだまし、涙が溢れた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私はただ真っ当に生きていただけだ。普通に生きて普通に死んでいきたかった。ただそれだけだったのに。

 切れそうになった息を整えながら立ち止まる。涙が伝っていく感触がし、目元を手で拭った。先ほど西谷さんが『俺のことぶっ殺してやりてぇって思ってんだろ?』と問いながら私に触れた時のことを思い出す。どこか愛おしそうに頬を撫でたあの手つき、あの顔、あの目。縋るものが何もない私には、西谷さんの慈悲深い仕草が勘違いでなければ良かったのにとすら思ってしまった。