※『君だけはそこにいて』と同一主人公の後日譚

君の口唇じゃなきゃ意味がない

 薄暗く不穏な雰囲気の“異人通り”を太い道路に向かって抜けた先にあるベーカリーカフェ。路面店のせいもあって客数はいつも多く、レジもテーブルにも人が多い。店の前を通るたびに焼き立てなのだろうパンの良い香りが漂ってきて、いつかこの店でランチを食べてみたいとずっと思っていた。

 そう。たったいま私はそのベーカリーカフェに来ている。目の前に置かれたバスケットには焼き立てのパンが入っているが、なんだか違和感を覚えた。その理由は大人気のはずのこの店に全く人が居ないからだ。

「食べないの?」

 私の目の前に座っている趙さんはサングラスの向こう側にある目を細め、優しい笑顔を浮かべながらそう言った。私は「ああ」とか「はあ」とか曖昧な返事をしつつ、バスケットに入ったクロワッサンを手に取る。一口大にちぎって口に運ぶとバターの風味がいっぱいに広がり幸せな気分になった。

 さすが人気店なだけあってとても美味しい。そんな想いが表情に出ていたのか、趙さんは先ほどよりもさらに目を細くして微笑みながら「そんなに美味しいんだ」とまるで独り言のように呟いた。

 このベーカリーカフェに行ってみたいという話を趙さんにしたのは数日前のこと。いかにも彼らしく「なら一緒に行こうよ」とあっさり返され、一緒にランチを取ることになった。私はランチのほとんどを一人でとることが多いので、たまには誰かと一緒に過ごすのも良いのかな、などとぼんやり考える。

 しかしだ。この店は人気が高く特に女性客が多いはず。それなのに今日は休業日なのかと勘違いするほどに客が一切居らず、店内には落ち着いた音楽が空しく響き渡るのみ。

 恐らくは趙さんが“なんらかの力”を使って貸し切り状態にしたのだろうと私は考えた。ここまでせずとも別に良いのに、と少し呆れつつも目の前の趙さんを見る。彼はモカの入ったコーヒーカップに口唇をつけながら、先ほどと同じように微笑んでいる。

「趙さん、楽しそうですね……」

 口の中の物を飲み込んでからそう言うと、趙さんは手に持っていたカップをテーブルに置きほんの少しだけ身を乗り出して言った。

「そりゃ楽しいよ。だってとのランチデートじゃん」

 次はどのパンを食べようかなと思いつつバスケットに伸ばしていた手を止めた。“ランチデート”という単語に思わず反応してしまった自分が恥ずかしく、手を引っ込めて何かを誤魔化すようにコーヒーを一口飲む。なんだか緊張してきて苦いはずのコーヒーの味がいまいちわからない。

 私と趙さんは“そういう関係”ではない。しかし趙さんとは“友達として”のハグもしたことがあるし、私を口説き落としたいというようなことを言ってくることもある。

 ああそうかこれってデートなのか、と改めて思うとなんだか妙に恥ずかしくなり、顔が熱くなってくるのが分かった。最近の私は何かがおかしい。いままではこんなことぐらいで照れたりはしなかったのに。

 ふと気が付くと、頬に何かの気配を感じた。自分の口唇のすぐ横のあたりに趙さんの手が伸びてきて、そこを優しく撫でる。私は何も言えずに体をかためることしか出来なかった。

「パンのくず、ついてるよ」

 趙さんは私の頬から取ったパンくずを自身の口に運び、食べる。すると彼は目を丸くし「あ、ほんとだ美味い」と呟いた。たったひとかけらのパンくずでも風味が豊かで美味しいということなのだろう。

 私は趙さんの、まるで恋人同士がするかのようなその行為にさらに恥ずかしさを感じ、テーブルの上のパンを見つめるように俯く。すると先ほどと同じように再び趙さんの腕が伸びてくる気配がしたかと思うと、今度は顎の下に人差し指を入れて軽く顔を持ち上げられた。

「あのさ、はいつになったら俺のもんになってくれんの。そろそろ待ちくたびれたんだけど」

 目が合い、あまりの恥ずかしさに顔から火が出そうになるものの、何故か目がそらせなかった。

 私はたぶん、趙さんが好きなんだと思う。でも最近の私は趙さんに口説かれたり、こんなふうに見つめられたり触れられたりすると、どうしたらいいのか何と答えたらいいのか分からなくなる。

 何も答えない私に趙さんは小さくため息をついて困ったように笑うと、テーブルに置かれたバスケットの中にある小さなパンを手に取り口の中に放り込む。もぐもぐと咀嚼をした後にごくりと飲み干すと「これも美味いね」と小さく呟いた。その頬には先ほどの私と同じように小さなパンくずが付いている。

「趙さん……、ここ」

 彼の頬に触れる勇気がなかったため、私は自身の頬を指さしてパンくずが付いていることを伝えた。すると趙さんはどこか不思議そうに目を丸め黙り込み、頬についたパンくずをいつまで経っても取ろうとしない。

 趙さん?と名を呼ぼうとしたその時、目の前に影が落ちた。趙さんはテーブルに手をついてこちらに大きく身を乗り出し、整った顔がすぐ目の前まで近づいてきたかと思うと、柔らかい口唇が私の頬に触れた。

 何が起こったのか分からずにかたまっていると、趙さんは何事もなかったかのように椅子に座り直し、モカを一口飲む。私の頬には柔らかく温かい口唇の感触と、ちくちくとした髭の微かな刺激だけが残っていた。

「なに……してるんですか」

 何の感情も込められずにただ無意識に呟く。趙さんはテーブルに備え付けられている紙ナプキンを使って頬についたパンくずを拭いて落とすと、まるで子供のようににやりと笑いながら口唇を舌で舐めて見せた。

「あーごめん。ほっぺにキスしてって意味かと思っちゃってさ」

 趙さんは頭をかきながらわざとらしく言ったが、彼のその言葉は嘘だとすぐに分かった。この人はそうやって私をからかって、私を振り回して、私が言う“あなたが好き”という言葉を待っている。本当にずるい人だ。

 そして私はいま、少し残念に思ってしまっている。趙さんの口唇が触れたのが私の頬で、口唇ではないということに。そんな風に思ってしまっている自分が恥ずかしくて、でもどこか高揚感のような気持ちにも満ちていて、胸が潰れそうになる。

「……趙さん」

 小さな声で名を呼ぶと、彼はテーブルに頬杖をつきながら微笑みこちらを見つめた。その表情はまるで“早く言ってしまえよ”とでも言いたげに見える。私は紙ナプキンで口元をぬぐい、軽く身を乗り出して囁いた。

「もうとっくに……趙さんのものですよ。私は」

 私の心を満たしている“口唇にキスをしてほしい”という想いはとっくに見抜かれているだろう。趙さんは顔の目の前に手のひらを出すと、「続きは帰ったらね」と口にした。


‎(2021.‎7‎.‎19‎)‎