君だけはそこにいて - 1
私には何もない。これといった趣味も特技も資格もないし、なんならお金だってない。大学を卒業してすぐに就職した仕事はとっくの昔に辞めて、いまはいわゆるフリーターだ。言いたいことを我慢して上司や客に頭を下げる毎日は不満とうっぷんがたまらないわけがなく、そんな私のストレス解消法と言えばバッティングセンターだった。
「ああ、クソ」
思わず汚い言葉が飛び出る。打ったボールは当たりどころが悪く、思った方向へと飛ばなかった。
ここは異人町の北西にあるバッティングセンター。子供や男性の利用客が多く、大人の女はいつも自分一人しかいない。私はここでとにかくボールをかっ飛ばすのが好きだった。バットを振る時に体を持っていかれる遠心力の感覚、ボールが飛んできた時の身を裂くような風、そして何よりホームラン級を打てた時の爽快感がたまらない。
次こそ。そう思いバットを構えると空気を割くようなスピートで球が飛んでくる。タイミングを見計らってバットを振るとカキン、という気持ちの良い音が響き、ボールは設置されているホームランの的めがけて飛んでいった。
「よっしゃ!」
軽くガッツポーズを取った瞬間だった。私が打ったボールはホームランの的に当たる前に視界から消える。それはまるで魔法のような一瞬の出来事で、思わずボールが向かった方向を二度見し数回瞬きをした。しかし何度見てもボールがどこに行ったのかはわからない。
打ったボールが消えた。何が何だか分からずにそのまま立ち尽くしていると、以前に従業員が口にしていた話題をふと思い出す。ここのバッティングセンターは、ごくまれにホームランボールがネットの穴を抜けて外にいってしまうことがあるらしい。いま私が打ったボールも恐らくはそれだろうと予想した。
建物の向こう側は確か海で、ある程度ならボールが飛んで行っても問題はないはず。しかしなんとなく気になってしまい、私は外に出て確認をすることにした。マシンがあるエリアのすぐ横には外へ続く廊下があり、その奥にある非常口から外に出れるはず。
非常口を開けるとゴミの不快なにおいが鼻につく。それもそのはずですぐ近くにはごみ置き場があり地面が汚れていた。目の前には案の定海が広がっており、橋の向こう側にある観覧車のネオンがとても美しい。
やはりボールは海に落ちてしまったのだろうか。そう思い建物内に戻ろうとした時だった。落下防止用に設置されているのであろう柵に寄りかかるように、一人の男性が立っているのが分かった。後ろ姿しか見えないが黒を基調とした服に、不可思議なデザインのブーツのような靴を履いている。
こんな何もない建物の裏手で何をしているのだろうと感じながらよく見ると、なんと男性は右手に野球のボールを持っている。まさか、という言葉が頭の中を駆け巡った。ホームランボールが外に飛んで行ってしまうことがあるという話は聞いた事があったが、まさかこんな所に人が居て、その人に直撃する可能性があるなんて、そんな事予想出来るはずもない。
「あ、あの……」
ゆっくりと近づき、恐る恐る声をかけた。男性はすぐこちらに振り向いたが、後ろ姿しか確認出来ていなかった私はハッと息を飲む。何故ならその男性があまり柄の良い感じの人物には見えなかったからだ。剃り込みの入ったツーブロックのヘアスタイルに、丸いフレームのサングラス。野球ボールを持つ手の全ての指にはいかつい指輪が各々はめられており、髭をたくわえた顔は眉間に皺を寄せてこちらを見下ろしている。
この人、不良だ。私の乏しい表現力で出てきた言葉はそれだった。まさか自分の打ったボールがこの人に当たったのだろうか。もしそうだったとしたら“ゴメンナサイ”で済むような相手だとは到底思えない。しかし、声をかけてしまった以上はこのまま引き下がることも出来ない。私はゴクリと一度唾を飲むと、小さな声で問う。
「も、もしかしてそれ……あなたに当たりましたか……?」
「うん。大当たり。頭に」
この時、私は生まれて初めて“血の気が引く感覚”を経験した。言葉を失い息を飲むと呼吸まで止まったような気さえする。
「ごめんなさい!それ私が打ったボールです!」
自分の体の前で手を合わせ、頭を下げる。そしてすぐに頭を上げて男性の顔を見た。先程の眉間の皺は消えているものの、変わらない冷ややかな目でこちらを見下ろしている。
「あの、お怪我とかありませんか……?」
「え、痛いよ。めっちゃ痛い。あー……どうしよう死ぬかもしんない」
先程引いたはずの血の気がさらに引いていく感覚がした。お父さんお母さん、私の人生は終わってしまったかもしれません。こんな柄の悪そうな男性に野球ボールを当ててしまい、怪我までさせてしまった。それこそ「どうオトシマエ付ける気や!?」なんて言い出しそうな男性に。
頭が真っ白になった。遠くに見えるネオンが眩しく、目の奥が重くなってクラクラとしてくる。その時だった。体の両脇に力なく垂れ下げていた私の腕に何かが触れた。それは男性の手で、私の手首の辺りを強く掴んでいる。指輪が軽く腕に食い込んで痛い。
この手はなんなのだろう。そう思い男性の顔を見ると、彼は怪しいほどに無邪気な笑顔を見せて言った。
「痛いし怪我したかもしんないし、だからさー、お詫びに俺と遊んでよ」
「……は?」
イエスともノーとも言う隙もなく、男性は私の腕を掴んだまま歩き出した。片手に持っていた野球ボールはその場に投げられ、暗く湿った地面を虚しく転がる。
バッティングセンター近くにあるサッカーコートの横を半ば引きずられるように歩かされ、私は「待って」と声を上げようとした。しかしそれを男性の大きく、明るい声がかき消す。
「俺さ、いい店知ってんだよね!どうせ暇なんでしょ?一緒に行こ」
“どうせ暇”って失礼だな。そう思いつつも、男性の言葉は図星であるため否定する言葉が口から出ない。
このどう見ても柄の悪そうな不良っぽい男性。こんな人に連れていかれるなんて、それこそ殺されてしまうかもしれない。それなのに何故か、彼の明るい声と人懐っこい笑顔にほんの少し、本当にほんの少しだけ惹かれてしまい、手を振り払って逃げることが出来なかった。
「ね、君の名前は?なんていうの?」
私の手を引き歩きながら彼が問う。人に名前を聞く前に自分から名乗るべきだろうと思いつつも、私は「です」と返した。そして男性は私の名前を聞いただけで、自身の名を口にしようとはしない。
これが私と彼、趙天佑の出会いだった。