嘘吐きは色恋のはじまり - 1

「いただきます」

 俺が店主を務める佑天飯店は狭く、客の一人が呟いた食事前の挨拶さえも良く聞こえてしまう。声の主は常連客の女性。この辺りで働いているのか来るのは大概がお昼時で、注文するのはいつも同じメニュー。青椒肉絲とライスのセットだ。

 テーブルの上にある料理はひたすらに湯気を立てている。女性は青椒肉絲を一口ぶん箸でつまむと、ライスと一緒に食べ始める。同じメニューばかり食べていて飽きないのかと思うも、顔をほころばせながら美味しそうに食事をする彼女の姿はいつだって俺を良い気分にさせてくれた。

 彼女の名も年齢もどこに住んでいるのかも、俺には分からない。ただ知っているのは顔と、青椒肉絲が好きだということ。あとは、食べる前に必ず顔の前で手を合わせて「いただきます」と言うし、食べ終わった後は同じように「ごちそうさまでした」と言うし、会計の時はレジを打ったうちの店員ちゃんに「美味しかったです」と挨拶してくれる礼儀の正しい人だということ。

 はっきり言えば店主として悪い気はしなかった。うちの店に通ってくれるということは味を気に入ってくれているということだし、食事や店に対する挨拶や礼儀を欠かない所も好印象。店員ちゃんにこっそりとデザートの杏仁豆腐を持たせて、彼女のテーブルにサービスとして出したことだって何回もある。

 ある日、店にタダ飯を食べに来た鉄爪に彼女の話をした。俺としては単なる世間話のつもりだった。鉄爪は五目炒飯を頬張り、もぐもぐと咀嚼をしながらこちらを不思議そうに見つめていた。口の中の物をごくりと音を立てて飲み下すと、今度はどこか楽しそうにニヤリと厭らしく笑いながら身を乗り出す。

「口説かないんすか?」

 鉄爪の言葉を聞いてすぐに、彼女のことを鉄爪に話したのは失敗だったかもしれないと感じてしまう。とは言え鉄爪の言葉に嫌悪を感じたわけではない。自然と口角が上がり小さな笑い声がもれたのを自覚した。

「もー、お前らみたいな若い奴はすーぐそうやって色恋に繋げようとすんだから……」

「いやいやいや!趙さんが軽く口説けば女の一人や二人すぐに落ちますって。メシも美味いし。そもそも趙さんもまだ若いじゃないすか」

「あのね、別にそんなんじゃないの。良い常連さんが居るんだよって話しただけでしょ」

 つっぱねるような言い方をすると鉄爪はそれ以上は何も言わず、食べ掛けだった炒飯に再び手を付け始める。口いっぱいにそれを頬張りながら「ヤバイ!ウマイ!やっぱ趙さんの作るメシが世界一!」と、聞き取りづらい滑舌で言った。口の中に物入れたまま喋るんじゃないよと注意しようとしたが、鉄爪の言葉が素直に嬉しくて何も言えなくなった。

 そう。彼女については、ただ『良い常連さんが居る』という話なだけだ。先ほどまでは自分でもそうでしかないと思っていた。しかし鉄爪の『口説かないんすか?』という提案に自分の気持ちが良く分からなくなってくる。

 俺は彼女の名も年齢もどこに住んでいるのかも知らない。しかし彼女がいつもの時間に店に来ない日は妙にそわそわするし、何日も姿を見ない時期には心配になったこともあったし、俺が店に出られない日は今頃はあの子が店に来ているかなと時計ばかりを見てしまうこともある。俺の頭の中にあるのは、総帥の座を退いた横浜流氓という組織の行方と、店主となった自分の店のことと、常連客である彼女のことぐらいだ。それでも彼女を口説くなんて考えたこともなかった。

 鉄爪を見送った後はすぐに店じまいにした。そもそも佑天飯店は入口が分かりづらいため、お客さんがひっきりなしに来店するということがない。今日はもうさっさとアガリにして久しぶりにサバイバーで酒でも飲もうかと考える。いつものようにバッティングセンターの裏手にある海を眺めるのも良いかもしれない。

 店を出て異人通りを歩く。異人細道を抜けて伊勢佐木ロードへ出ようとした途中、中華パブが入っているビルのたもとに複数人のグループが固まって立っていることに気が付いた。向かい合って何かしらの雑談でもしているように見える。頻繁に見かける光景のため特に気にせずグループの前を通り過ぎようとした時、とある人物に視線を吸われた。噂をすればなんとやら、青椒肉絲の彼女だった。店の外で彼女の姿を見るのは初めてだったため、それなりに動揺してしまう。

 よく見ると複数人のグループは全員がチンピラらしき見た目の男で、青椒肉絲の彼女を取り囲んでいるように見えた。もしかしてトラブルだろうかと考えるも、彼女は特に怯える様子もなく談笑していたため、普通に知り合いか何かなのかもしれないと思い直す。

 彼女の存在に気付いた瞬間に立ち止まってしまったが、これ以上は怪しまれるかもしれない。さっさとこの道を通り抜けてしまおうと思い脚を素早く動かして歩き始めたその瞬間、明るく高い声が耳に届いた。

「あ、それならすぐそこの佑天飯店って店がおすすめですよ!すごく美味しいんですけど、いつもお客さん少ないんですよね」

 自分の店の名を大声で言われ、思わず再び脚を止める。体全体が重くなり、固まったように動かなくなった。彼女を取り囲んでいる男たちはお互いに目くばせをし、何かしらを企んでいるような悪い表情をしたように見えた。

「あー……、てかさぁ、その店も良いけど今日は俺らのおすすめの店行かね?店長が知り合いだから高い酒もいっぱい飲めっし、スゲーまったり出来て最高なんだよね?どう?」

 グループの中の一人が彼女の肩に腕をまわして顔を近付ける。その瞬間にああなるほどと合点がいった。この男たちは彼女に『どこかオススメのお店知らない?』とでも声を掛けてナンパしたのだろう。当の本人はナンパをされたということに気が付いてはいなさそうだった。

 男に顔を近付けられた彼女は眉間に皺を寄せて不快を露わにするも「私は遠慮しておきます」と控えめな断りを口にした。そんな弱々しい言葉に男たちが怯むはずもなく、さらに顔を近付けながら彼女に身を寄せようとしている。

 女の子を誘って、やんわり断られて、それでも退かずに無理矢理どこかに連れ込もうとしている男たちを憐れに思う。そして俺の店を愛し、それを他の人にも勧めようとしてくれていた青椒肉絲の彼女への好感が更に高まっていくのが分かった。ここで彼女を助けなければ佑天飯店の店主としての名が廃る。

「はぁい、ストップ」

 気配を消して足早に近付き、声を掛けるのとほぼ同時に彼女の腕を取って自分のほうへ引っ張る。男の手は自然と彼女の体から離れた。

「この子、『遠慮します』って断ってんでしょ。男なら潔く退いたら?」

 男たちは初めこそ怖い顔で俺を睨んでいたが、そのうちの一人が何かに気付いたようにハッと息を飲み仲間に何かを耳打ちした。この近くは横浜流氓が根城にしている慶錦飯店が近いため、もしかしたら俺が流氓の関係者だと勘付いたのかもしれない。

「萎えたわ……、クソが」

 ありがちな捨て台詞を吐き、男たちはこちらを睨みつつその場から去って行った。青椒肉絲の彼女はまだ状況が飲み込めていないのか、去り行く男たちの背中と俺の顔を交互に見ながら戸惑ったような様子を見せている。

「あいつら、おすすめの店が知りたいんじゃなくて、ほんとの狙いは君だよ。どっかの店に連れ込んで酒飲ませて、何かしら悪いコトしようとしてたんじゃない?」

「えっ?」

 やっと状況を把握したのか、彼女は驚いたように声を上げて丸い目で俺を見つめた。

 彼女のことを正面からまともに見るのは初めてで、ああこんな顔をしているのかと素直に思う。どちらかと言えば愛嬌のある顔立ちで、良く言うならば親しみやすく、悪く言うならば絡まれやすいのではないかと感じた。こちらを見上げる黒い瞳が妙に魅力的で、吸い込まれるような感覚に陥る。

 すぐ下にある形の良い口唇に視線を吸われた。この小さな口で俺の作った青椒肉絲を毎回平らげているのか、とぼんやり考える。うちの店の料理はそれなりに量が多く、彼女はそれにいつもライスを付け、その上で焼売やらエビ蒸し餃子やらを追加で注文することもある。俺は日ごろからそれらを見ていたため、彼女はどちらかと言えば良く食べるほうだと感じていた。この細い体のどこに入っているのかと思いながら、彼女の頭のてっぺんからつま先までを舐めるように見てしまう。まるで見惚れるかのように彼女を見続けていた自分に気付いてハッと息を飲んだ。

「この辺りは異人町の中でも特に危ない奴らが多いから、気を付けなきゃダメだよ。それじゃ」

 俺はそう言ってから彼女の肩を軽く叩くと、背を向けてその場から歩き出す。後ろから俺を呼び止めるような声が聞こえた気がするが立ち止まれなかった。初めて正面から見た彼女を穴が開くほどに見つめ、見惚れてしまったことに気付かれるのが怖かった。

 その後はサバイバーに向かい、ただひたすらに酒を飲んだ。らしくない思考に捕らわれ変な行動をしてしまったような気がして、後悔に似たような感情にさいなまれた。それをかきけすように強い酒ばかりを選んで飲んでいたら案の定酔ってしまい、翌日は酷い二日酔いに襲われた。胃のあたりが気持ち悪いし頭も重い。

 本来であれば店を休んでも良かった。しかし今日も青椒肉絲の彼女が店に来るかもしれないと思うと厨房に立たないわけにはいかなかった。予想通り彼女はいつも通りの時間に店を訪れ、いつも通りに空いている店内で、いつも通りのテーブルについた。

 店員ちゃんの「注文入ったよー!」という大きな声が厨房に響き渡る。彼女のことも昨日のこともなるべく考えないようにしながら、いつもの青椒肉絲を作り始める。彼女は俺のことには気づいていないようだった。カウンター席ならまだしもテーブル席であれば厨房は見えにくいため当然と言えば当然かもしれない。

 何も考えないようにしながら中華鍋を振っていると、二日酔いによる体調不良がより強く感じるような気がしてしまう。出来上がった青椒肉絲を店員ちゃんに運んでもらうため、カウンターの上に差し出した。

「チョット、趙さん?これ注文ちがう。あのお客さん注文したの五目麺。青椒肉絲とちがうよ」

 店員ちゃんが片言の日本語で言った。思わず「え?」と間抜けな声を出し、店員ちゃんと顔を見合わせる。そういえば先ほど注文が入った時、俺はそれをちゃんと耳で聞いて頭で理解しただろうか。毎回のように青椒肉絲を注文する彼女は今日もきっと青椒肉絲を注文するだろうという先入観があり、それにとらわれてしまったと自己嫌悪する。思わず「あちゃー……」とこぼしながら頭を抱えた。

「ごめん。間違えちゃった。すぐ作り直すよ」

 作り立ての青椒肉絲がどっさり乗った皿を下げようとした、その瞬間だった。テーブルに大人しく座っていた彼女がガタン!と大きな音を立ててその場に立ち上がり「あの」と声を上げる。

「私、確かに五目麺を注文しましたけど、青椒肉絲でも大丈夫ですよ。青椒肉絲好きなので。せっかく作ってくださったので、食べます。もったいないですし」

 どうやら俺と店員ちゃんのやり取りが彼女に聞こえていたらしい。この狭い店内であれば仕方のないことかもしれない。彼女の言い分はありがたかったが、注文していない料理をお客さんに食べさせることを申し訳なく感じてしまい、返答を躊躇する。

「……ん!?」

 おかしな唸り声が聞こえた。その声の主は俺でもなく店員ちゃんの子でもなく、彼女だった。ふと気が付くと彼女はこちらを凝視しており、俺たちの目が必然的に合ってしまう。あ、やば、と今更ながらに思った時にはもう遅かった。彼女は立ち上がったそのままの脚でゆっくりとカウンターに近付き、俺の顔を見つめる。そっぽを向いて顔を背けても無駄に思えた。

「あなた、もしかして……、昨日のナンパのお兄さんですか!?」

 彼女はこちらに人差し指をつきつけながら半ば叫ぶように言った。人を指さしてはいけないし『ナンパのお兄さん』などと人聞きの悪いような言い方をしないで欲しいと思う。案の定店員ちゃんが「趙サン、こんな若い子ナンパした?オマワリサン来るよ」と呟きながら俺を白い目で見る。おかしすぎる状況に思わず笑いがもれ、誤解だと弁明する気も起きなかった。