君だけはそこにいて - 2

 腕を引かれ、強制的にバッティングセンターを後にした私が連れていかれたのは、神内駅からほど近いダーツバーだった。てっきり浜北公園あたりから海にでも沈められるのかと思っていた私は酷く拍子抜けする。

 大きなダーツ盤が描かれた看板には植物のツタのようなものが装飾されており、とてもお洒落な雰囲気がある。店がある地下へ続く階段を見ながら思った。ここはどう考えても自分には不釣り合いな場所な気がする、と。

「あの……、私ダーツとか分かんないんですけど」

 自分の数歩先ですでに階段を降りかけている男性の背中に声を掛ける。そういえば彼の名を聞くのをすっかり忘れていたと思い訪ねようとしたが、それよりも先に彼が「大丈夫。俺が教えてあげるよ」と言って笑った。

 店の中は外の看板よりもずっとお洒落で、カウンターには数えきれないほどの酒瓶が並んでおり、メニューが豊富だという事が良くわかる。テーブルと椅子が並ぶフロアの奥にはダーツ盤があり、薄暗い店内でまるで夜の街のネオンかのようにキラキラと光を放っていた。

 とりあえずはお互いにビールを頼み、当然の流れでそのままダーツをすることになった。ルールどころか持ち方すらも分からなかった私に、男性は文字通り“手取り足取り”教えようと、私の手をとってそこにダーツを握らせた。

「持ち方は一番スタンダードなスリーフィンガーがいいかなぁ。ちょっと弧を描く感じで、紙飛行機飛ばすみたいに……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 言葉を遮るように言うと、男性は不思議そうに目を丸くしてこちらを見た。

「ダーツよりも先に、あなたの名前を教えて欲しいんですけど」

 男性の丸かった目が微かに細められ、口唇をキュッと結んだのが分かった。持っていたダーツを指先でもてあそびながら「うーん」と軽く唸る。名前くらいを何故そんなに教え渋るのかが私には分からなかった。

「俺の名前、知ったら後悔するかもよ。……それでもいい?」

 男性は怪しくニヤリと笑い、こちらに顔を近づけて言う。その時に私はやっと気付いた。この人は他人に名前が知られては困る何かしらの事情を持っている。まさかとは思うが指名手配犯?もしくは何か犯罪に加担している人物なのかもしれない。

「……やっぱりいいです」

 なんだか怖くなりきっぱりと断った私を見て、彼はふは、と吹き出し「きみ、面白いね」と言いながら無邪気に笑う。

 初めこそ柄の悪そうな男性だと思ったが、こうして話してみると気さくではあるし、笑顔もとても可愛らしく見える。でもどこか怪しく、名前を教えないということはそういうことなのだろうと納得した。

 ダーツを楽しみながらお互いに何杯かの酒を飲んだ。ビールにグラスワイン、最終的にはカクテルまで注文してお互いにかなり酔っていたと思う。ふわふわする意識の端の方で“そういえばここのお金ってどっちが払うんだろう。やっぱり私かな?それともワリカン?”などと現実的な事を考えた。

「俺もさぁ……色々大変なんだよねぇ。さんわかるぅ?」

 酒を飲みながらトロンとした瞳で男性がこぼした。「わかるぅ?」なんて言われても知らないよと心の中で思うが口には出さない。

 男性の境遇を聞くと、どうやらそこまで深刻ではないが軽い悩み事のようなものがあるらしかった。詳しくは伏せていたが、彼は今とある組織の責任者らしく、たくさんの部下をまとめる地位に居るらしい。

 名前を教えてくれない上に“とある組織の責任者”だなんて、何やらキナ臭さしか感じない。しかしとりあえずは気付かないふりをすることにした。

「俺、自分ではボスに向いてないと思うんだよ。やる気ないのに器用貧乏でここまできちゃったってわけ」

 男性は片手でグラスを揺らしながら、まるで独り言のように呟く。どうやら彼がバッティングセンターの裏に居たのは、あの場所から見える夜景と海を見ながら考え事をするためだったらしい。確かにあの場所は観覧車の夜景も見えるし、人の気配も少なく考え事をするのには最適かもしれない。

「あー、なんで俺こんな話ししてんだろ。酒のせいかな。飲みすぎた」

 目を伏せ、揺れるグラスの水面を見る彼の顔はとても寂しそうに見えた。自分にも悩みや考え事があるように、他人も同じようなものを抱えて生きている。私だけじゃなく人間という生き物はその当然のことをいつも忘れてしまう。

 その上だ。そんな悩める彼の頭に私は野球ボールを直撃させてしまった。改めて申し訳なさを覚えながら、犯されるのも殺されるのも勘弁して頂きたい自分には、こうして彼の話を聞くぐらいしか出来ない。

「あのー……」

 恐る恐る声をかける。男性は伏せていた目を上げてこちらを見たが、酔っているのか相変わらずトロンとした目つきで、よく見れば顔も少し赤い。

「もう一度、夜景を見に行きませんか」

 そう提案しつつも、心のどこかで“私は何を言っているんだろう”と思った。こんな人と夜景を見に行っても今度こそ海に沈められる可能性だってある。自分から死にに行くようなものだ。それなのになんだか放っておけなかった。この男性には人の心を惹きつける何かがあるのかもしれない。だからこそ、いまの組織の責任者にもなれたのだろう。

 男性はきょとんと目を丸くしていた。当たり前ではあるが私の提案が予想外だったのだろう。しまったと思うが、口に出してしまった言葉はもう戻らない。

「あ、その、もしかしたら夜景でも見れば、あなたの気も少しは晴れるかなって思って」

 先程の言葉の説明をするつもりだったのだが、何故か言い訳がましく聞こえてしまう。なんだか恥ずかしくなり顔を伏せて、ああ変なこと言ってしまったなと思いながらテーブルの上に置かれたグラスを見る。

 一呼吸置いた後、男性が、置きっぱなしになっていた私のグラスに自分のグラスをぶつけた。カチンと小さな音がして、思わず顔を上げると男性と目が合う。

「いいね、それ」

 彼は小さくそう言うと、とても嬉しそうに笑っていた。その笑顔は今日初めて会った彼が見せる、一番の笑顔に思えた。