埋もれ木に春が咲く - 9
朝。もうすでに出発する予定時刻を10分ほど過ぎている。私は持参する資料をまとめてバッグに突っ込むと、小走りでエレベーターに向かい呼び出しボタンを連打した。
「社長!急がないと電車に乗り遅れます。神内駅まではタクシーで良いですか?」
すぐ後ろに居るであろう一番に声を掛けると、後頭部をかきながら呑気な様子で「はいはい」と返事をする。ついこの間返事は一回にしろと注意をしたばかりなのに、と思うが今ここで再び注意をするのは時間の無駄だと思った。今は一刻も早く神内駅に向かい電車に乗りたい。
今日は一番ホールディングスの株主総会。ライバル会社が多数参加するという話を聞きつけ、どのような質問や言葉が飛んできても対応できるよう、完璧な資料を用意した。きっと大丈夫。いま最大の問題は電車に乗り遅れてしまったら株主総会に遅刻をしてしまうことだ。
社外に出てすぐの道路に停まっていたタクシーをつかまえ、飛び乗る。
「神内駅まで。急ぎ目でお願いします!」
そう言うとタクシーの運転手は「かしこまりました」と優しい声で返答する。一番は私が乗り込んだ反対側のドアをから車内に入るとシートにどかりと腰を下ろし、私はなんとなくその様子を横目で見た。一番にしては珍しいダークグレーのスーツ。そのネクタイがあらぬ方向へと曲がっている。
「ちょっと、ネクタイが曲がってます。ちゃんとしてください」
タクシーは走り出し、私は一番の肩を掴んで引き寄せ、曲がっているネクタイを直す。彼の顔はまだ目が覚めていないのかぼんやりした表情でゆっくりと瞬きを繰り返し、こちらをジッと見つめた。
「社長、いいですか?今日の株主総会はライバル会社の方たちが山ほど来るんですよ。そんな呑気に構えてたらあっという間に言い負かされちゃいますからね。分かってます?だいたい今日だって本当はもっと早く出発……」
「だぁーっ!もううるせぇな!分かってるよ!」
車内に声が響き渡り、私は恨みを込めて一番のネクタイを強く締めた。その様子をバックミラー越しに見ていたタクシーの運転手がハハ、と小さな声で笑う。
「社長さんと秘書さんですかぁ?大変ですねぇ」
タクシーの中とは言え第三者が居る場所で騒ぎすぎた、と反省し、私は運転手に向かって会釈をしつつ「すみません」と呟く。しかし運転手は特に気にしていないのか、狭い道をそれなりのスピードで走り抜けながらものんびりとした顔をしている。
「いやしかし、なんだかお二人は社長と秘書というより、まるでご夫婦みたいですねぇ」
運転手はそう言ってハハと声を上げて笑った。恐らくはサービストークのようなものだったのであろうが、恥ずかしくなった私はシートに座り直すふりをしながら一番と距離を取る。
「おい、」
すぐ隣から私を呼ぶ声が聞こえる。先程の運転手の発言もありその方向を見たくなく、無視を決め込もうと黙り込むと、私の太ももの上に一番が手を置いた。それにはさすがに驚き、俯いていた顔を上げ睨みつけ、囁くような小声で文句を言う。
「ちょっとやめてください。セクハラで訴えますよ、社長」
「うるせぇ。自分の嫁にセクハラもクソもあるか」
「まだ嫁じゃない!」
私の大声と同時にタクシーが止まり、運転手が驚いたような丸い目でこちらを見ながら「着きましたよ、神内駅……」と呟く。
どんどんと熱くなる顔を誤魔化すように、私はまとまったお金を運転手に支払い、お釣りも受け取らずに車外に出た。駅の方向へ早足で歩くと、すぐ後ろを一番が小走りで追いかけてくる。
「なぁ」
一番はすぐに私に追いつくと隣を歩きながら顔を覗き込んで問いかける。
「さっきの、“まだ”ってことは、これからなる気があるって受けとっちまって良いのか?」
先程の「“まだ”嫁じゃない」という発言を問われ再び顔が熱くなる。
はっきり言えばあれはただのミスだ。一番とそのような関係になりたくないわけじゃないし、いつかはなるのかもしれないと考えたことだってある。しかしこの話は今するべきではないと思うし、せめて今日帰ってから二人きりの時にでも話したい内容だ。
「もうその話はおしまい!今は株主総会に集中!わかった?」
まるで母親が子供に言い聞かせるような口調で言うと、一番は今朝と同じように「はいはい」と二回返事をした。
腕時計で時刻を確認すると電車には間に合ったようで一安心する。ここから電車に乗って株主総会が行われる会場へと向かう。間違えないように行先もちゃんと確認をし、駅に入る改札をくぐる前に、なんとなく一番の顔を見た。
彼は私がほんの少しの不安を抱えていることを感じ取ったのか、目を合わせるなり歯を見せて笑う。
「よっしゃ。じゃあサポート頼むぜ、」
一番はそう言って私の頭の上に手を乗せ、まるで子犬を可愛がるかのようにぐしゃぐしゃとそこを混ぜる。大事な株主たちの前に行くと言うのに、せっかく綺麗にしておいた髪をめちゃくちゃにされて文句のひとつも言いたくなったが、先ほどの一番の言葉が嬉しく、同時にその笑顔が眩しすぎて何も言えなくなった。
声を出さずに小さく頷いて返事をする。この先どんなことがあろうと彼となら大丈夫。肩を並べて歩いて行ける。そう強く思いながら私たちは改札をくぐった。
END
(2021.6.25)