埋もれ木に春が咲く - 8

 “それ以上は、……言うな、

 一番に名を呼ばれたのにこれっぽっちも嬉しくなんかなかった。私が口にしようとした想いを一番は遮り、拒否した。まるで目の前で耳を塞がれたかのような気分だった。

 いつも通りの時間にアラームが鳴り、目を半開きにしてそれを止める。自室の天井をぼんやりとした視界で眺めながら、昨日のことを考えた。一番の声のトーンも歩き姿も何もかもがいつも通り。一瞬見せた横顔がほんの少し悲しそうに見えたが、それは私の思い違いなのだろう。

 ベッドから起き上がり自分の頬を軽く叩く。そのまま洗面所に向かい冷たい水で顔を洗うと体も気持ちもしゃっきりとしてきて、自然と背筋が伸びた。

 仕事に行こう。きっと今日も一番、いや、社長は本社に出勤してはこないだろう。昨日のことはまた後で考えればいい。大丈夫。きっと大丈夫だ。

 何度も何度も自分に言い聞かせ、身支度を整え自宅を出た。朝食は口にしなかった。

 本社に着くといつもより更に早い時間のためか当たり前のように誰も居なかった。誰よりも早く出社し部屋を掃除するのが私の日課で、今日も同じようにデスク上を拭いておこうと引き出しからウェットティッシュを取り出す。自身のデスク上を拭いたあと、鎌滝さんと社長のデスクも拭いておこうと思っていると、エレベーターから電子音が聞こえた。

 その電子音はエレベーターが到着した時に聞こえる音で、恐らくは鎌滝さんが出勤してきたのだろうと考えるも、彼女が来る時間にしてはまだ早い気がし自身の腕時計に軽く目をやる。そしてすぐにエレベーターの方向に目線を送ると、そこに居たのは鎌滝さんではなく、見慣れた赤いジャケット姿だった。

「い……」

 一番、とその名を呼びそうになり思いとどまる。この場では彼を“社長”と呼ぶべきだと思ったからだ。言葉に詰まり無意識に口元を手で押さえていると、一番は弱々しい笑顔を見せた。

「よぉ、……ずいぶん早ぇな」

 思わず力が抜け、持っていたウェットティッシュがデスクの上に音もなく落ちる。心臓は早く鳴り、呼吸が浅くなる。体は動揺を隠せなかったが、心の内ではどこか冷静だった。

 もう、やめよう。18年前の想い出に捕らわれるのも、一番と昔のような関係に戻りたいと願うのも、私がずっと持ち続けていた彼への想いを伝えることも、もう、なにもかもやめよう。

 この会社に来た始めこそ、私はほとんど関りのない社長と平社員の関係でもいいと、ただ一番の傍にいられればいいと考えていた。それなのに一番に覚えていてもらえたことが嬉しくて、少しは成長した自分を見せられたことが嬉しくて、ずっと手が届かないと思っていた人と肩を並べて歩けたことが嬉しくて、何よりも大事なことを見失っていた。

 18年間ずっと会いたかった一番に再び会えた。あの頃と同じように彼の傍にいられる。ただそれだけでいい。そう思っていたはずじゃないか。

「……社長」

 名を呼ぶと社長はこちらを一瞥し、すぐに目をそらしてから大きな窓の際に置かれた自身のデスクに近づく。その行動は私の言葉を避けているように見え、座りもせず窓の外から見える景色を遠い目で見つめている。避けられていたとしても言わなければ。伝えなければならないと思った。

「その、……昨日は申し訳ありませんでした。私が言ったことは、忘れてください」

 そう言って、こちらに背を向けたままの社長に向かって頭を下げる。

 忘れる。一番と再会してから何度この言葉を頭の中で繰り返したことだろう。一番を起こしに行って抱き寄せられた時に私は彼に「さっきのことは忘れます」と言った。一番に名前を呼んで欲しいと懇願した時も彼は私に「昔のことは忘れろ」と言った。

 忘れようとしても忘れられないことなど山ほどある。忘れられないならそれでいい。一番に忘れろと言われても、一番が忘れてしまったとしても、私は覚えている。幼い私が一番に恋をして、いまも彼に恋をしている。それを私だけが覚えていればそれでいいじゃないか。

 下げていた頭をゆっくりと上げる。すると窓の向こう側の景色を見ていた一番はいつの間にかこちらに振り返っており、眉間に皺を寄せた険しい顔のまま瞳を閉じていた。

「“申し訳ありませんでした”って、お前は自分の何が悪いか分かってんのか?分かってねぇだろ」

 言葉の意味が分からず、無意識に「え」という間抜けな声がもれた。一番は険しい顔のまま閉じていた目を開き、こちらを睨むように見る。しかしその表情は怒りというよりも何か他の感情が混じっているように思えた。

「お前は何も悪くねぇ。悪いのは俺だ。全部俺なんだよ」

 混乱し、心臓の音が早くなったのが自分でも分かる。理解が出来ず“どういうこと?”と問うため口を開くのと同時に、一番は窓際から足早にこちらに近づき、私の腕を掴む。その力は強く、抵抗なんてものはこれっぽっちも出来そうになかった。

「お前、俺を起こしにウチまで来た時があったよな?」

 一番は険しい表情のまま言う。

 始業時間になっても現れない一番を心配した鎌滝さんに代わり、私が彼の家に赴き起こしに行ったあの日。私は卑怯にも眠っている一番にキスをした。そして寝ぼけた一番が私を抱きしめた。あの時のことを思い返し、罪悪感と羞恥心で胸の中がぐちゃぐちゃになる。

 私が声も出せずただ頷くと、一番は下口唇を噛む。その様子は次の言葉を口にすることを躊躇っているように見えた。

「あん時よ……俺ぁお前を抱く夢を見てたんだ」

 一番の大きな瞳が私を見つめた。黒く深い色に自分の姿がうつっているような気がする。

 私を抱く夢?私の腕を掴み引いて抱きしめたのは、夢の中でも同じことをしていたから?私の名を耳元で低く囁いたのも、夢の中で同じことをしていたから?

「最低だろ。気持ち悪ぃだろ。妹みたいに思ってたお前を、俺のこと兄貴みたいに慕ってくれてたお前を、見違えるほど綺麗になったお前を、俺は夢の中で汚したんだよ」

 叫ぶような一番の声が部屋に響き渡った。言葉にし難い想いが私の胸を満たし目の奥が熱くなってくる。最低じゃない、気持ち悪くなんかない。そう思っても声が出ず、ただ涙がこぼれた。

「俺の傍に居ればロクなこたぁねぇ……。だからお前を忘れようとしたんだ。忘れられそうだって思ってた。でも無理だった。今までずっと18年間、お前のことを忘れたことなんか一度もねぇんだから」

 私も同じだった。ずっと一番を忘れようとした。彼への想いを捨てようとしていた。それでも無理だった。夜になって目を閉じるたびに思い出し、朝になって目覚めるたびに思い浮かべる。そんな存在を簡単に忘れられるはずなんかないのに。

 腕を掴む一番の力が弱まり、それを振り払うと目の前にあった胸に飛び込んで背中に手を回す。大きく太い胴体を強く抱きしめると、一番も私の頭を抱えるようにして抱きしめ、髪に口唇が落ちた。

「ずっと一番に会いたかった。ずっとこうしたかった。ずっと好きだって、言いたかった」

 涙で声が濡れ、上手く発音出来ていたかどうかすらわからない。しかしそれに応えるように一番の腕に力が入り、頭を撫でる一番の指に私の髪が絡みついた。

「こっちの台詞だよ、馬鹿野郎」

 一番の声がひどく優しくて、私の頬を何度も涙が伝う。もう何もかも忘れなくて良いのだという喜びが私の胸を満たし、ただ私を抱きしめている腕を二度と放して欲しくはない、二度と放さない、と強く思った。

 背にまわっている腕がほんの少し緩まり、一番は私の髪に埋めていた顔を上げ、視線を絡ませるように目を合わせる。今までに見たことがないその表情に心臓が爆発しそうなほど早く鳴っていた。

「一番?」

 こちらを見つめたまま何も言わずにいる彼を不思議に思い、私がその名を呼んだ瞬間だった。一番の手が私の顎に伸びてきたかと思うと半ば乱暴にそこを掴み、まるで噛みつくように口唇を塞がれる。驚いた私は思わず「ん」という声をもらした。

 口唇を軽く噛む程度だったキスは、あっという間に舌が触れ合っているのではないかと錯覚するほどに深くなる。まるで食べるように蠢く口唇と口唇の隙間から漏れ出す熱い息は頭をくらくらとさせた。

 やっと口唇が解放されると、私はぷは、と息を漏らしすぐに思いきり吸う。呼吸が上手く出来ずに苦しく肩で息をした。その間、一番の大きく固い手のひらが私の腰の辺りに触れ、首元に顔を埋められる。

「ちょっと待って一番。ほら、これから仕事、仕事だからその、」

「まだ始業時間じゃねぇ。ずっと我慢してたんだ。少しは好きにさせろ」

 首のすぐ横に口唇を落としたまま一番は呟き、その振動で背筋が震える。どうしよう。その思いだけが頭を埋め尽くす間にも、一番の手は私の太ももの辺りまで伸びていた。顔を上げ、もう一度だけ見つめあうと再び口唇を塞ぐためか一番は私の顎を掴む。

 その時。目の前のことに夢中になっていた私はエレベーターの電子音に気付かず、扉が開く音が部屋に響き渡った。中から人が降りてきて私たちの姿を見るなりその場に固まり立ち尽くしている。

「……へ?」

 見慣れた女性の姿。黒く長い髪に白く美しい肌。いつも通りのスマートなパンツスーツ姿の鎌滝さんは私たちを見るなりに吐息交じりの不可思議な声をあげ、目を丸くした。

「わ、わ、わー!お、お、お、お二人ってばそういう、そういう関係だったんですね!ごめんなさい私ったら気付かなくって!ていうか私お邪魔ですよね!そうだちょっとその辺りでコーヒーでも買ってきます!コーヒー!やっぱり朝はコーヒーですよね!あはは!」

 鎌滝さんは聞いたことがないくらいの早口で一気に言うと、そのまま再びエレベーターに乗り込み、閉ボタンを連打している音がこちらに聞こえるくらいの勢いで扉を閉めた。

 事情の説明も言い訳すらも鎌滝さんは聞いてくれず、部屋には再び静寂が訪れる。動きを固めたままだった一番が再び太ももに触れ服をまさぐり始めたため、私はその腕を掴んで引き離し、彼の頬をつねった。

「いってぇ、なにすんだよ!」

「社長、おふざけが過ぎます。もう業務を始めましょう」

 私がゆっくりと言い聞かせるように丁寧な言葉で言うと、一番はチッと舌打ちをしこちらを軽く睨む。その表情にひるまずこちらも睨み返すと、一番は私の二の腕辺りを掴み、顔を近づけた。

「これから嫌というほどそばにいてやっからな、覚悟しとけよな、

 低く囁かれたその声に、先ほどのキスを思い出し顔が熱くなる。その言葉をそっくりそのまま返してやりたいと思った時、先ほど一番が言った「こっちの台詞だよ、馬鹿野郎」という言葉に似ていることに気が付いて少し笑った。