※『埋もれ木に春が咲く』の元にしたお話
あの日の嘘
広くて、それでいて狭いこの世界の中で、“初恋の相手がヤクザの若衆”という人間は一体どのくらい存在するのだろう。その割合は多くないということだけはなんとなく分かるが、私はその中の一人だ。
春日一番。この随分とめでたい名前を持つ男が私の初恋の相手だった。私の叔母である道代さんの経営するスナックによく顔を出しており、小さなころから道代さんに預けられていた私は一番と顔を合わせる機会が多くあった。当時の私は小学生低学年で身長も低かったため、一番には「ちび」と呼ばれていた。
「おう、ちび!ちゃんと宿題やったか?」
その日も一番は断りもなくスナックに勝手に入り込み、図書室で借りて来た本を読む私に声をかけた。一番のセリフはいつも同じ。宿題は毎日出されるが、私はいつも一番が店に来る前に済ませるようにしていた。
「ちびじゃないよ……、だよ」
「おお、悪ィ悪ィ」
一番はそう言って笑いながら私の頭の上に手を置き、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でる。髪型が乱れるこの行為は好きではないが、一番に「やめて」と言ったところで笑って誤魔化されるだけなので、いつしか抵抗することを諦めていた。
「道代ママは?また奥で寝てんのか?」
その問いかけに、声を出さず頷いて答える。店は夜に営業を開始するため、店主である道代さんは昼間に寝ていることが多かった。あの人は毎日のように大量のお酒を飲むため、いつも眠くなってしまうのだろうと、当時の私は子供ながらそれなりに理解しているつもりだった。
大人しくしたままでいる私を一番が見下ろす。軽く肩をすくめため息をつくその姿はまるで“まだ小学生なのにお前も大変だなぁ”とでも言いたげだった。確かに、私の両親は共働きで忙しく、きょうだいも居ないためいつもひとりぼっちだ。預けられた先でも叔母はいつも寝ているし、話し相手だって居ない。それでも寂しくなんかなかった。一番が来てくれるから。一番が居てくれるから。
「ちび、これ食うか?」
一番はそう言って、目の前に小さな箱を差し出した。それは発売したばかりの有名なチョコレート菓子で、頻繁にテレビでCMを見ていたため私も良く知っていた。そういえばクラスの友達が食べたという話をしていて、とても羨ましく感じた記憶がある。
私は差し出された箱のパッケージを見るなり、思わず叫んだ。
「これ、いまCMしてるやつでしょ?ずっと食べたかったんだ!」
箱に触れた瞬間にハッとする。しまった。つい大きな声を出して興奮してしまった。せめて一番の前では子供っぽい自分を見せないようにと努力していたつもりだったのに。受け取りかけていた手を思わず引っ込め、俯く。なんだか恥ずかしくて一番の方を見ることが出来ない。
黙り込んだままでいると、すぐ目の前の辺りからガサガサという音が聞こえて来た。思わず目線を上げて音のした方向を見ると、一番がチョコレートの箱を開け、中の個包装を破っている音だった。優しく甘い香りがふわり、と漂い鼻をくすぐる。一番はチョコレートを一つだけ手に取ると、それを私の顔の前に差し出して言った。
「ほら、口開けろよ」
何が起こったのか一瞬分からずに固まる。自分の目の前に差し出されたチョコレートと、一番の優しい笑顔。言われた言葉と一番の行動。それぞれの意味が分かってくると、顔が熱くなってくるのが分かる。
「え、ちょ、やめてよ。じ、自分で食べれるよ」
「いーから口開けろって!ほら、あーん」
拒否の言葉も虚しく、一番とチョコレートはどんどん私に迫ってくる。押し負け半ば諦めるように恐る恐る口を開けると、一番は口唇の隙間から中にチョコレートを押し込んだ。口の中に甘い香りが広がり鼻に抜ける。ああ美味しいと心から感じた。
「どうだ?うまいか?」
一番は何故かとても嬉しそうに問いかけた。きっと私の表情を見ればこのチョコレートが美味しいものだということは丸分かりだっただろう。しかし私はその率直な気持ちを伝えることに何故か抵抗があった。今思えば、私は素直じゃなく可愛げのない子供だった。
「うん……、まぁまぁ、かな……」
甘く、やわらかいチョコレートを口の中で咀嚼しながらひねくれた言葉を口にする。一番はきっと私の気持ちを見透かしていたのだろう。「そりゃ良かった」と返事をしながら優しい笑顔を浮かべていた。「まぁまぁ」という私の言葉に対しての返答にしてはちぐはぐだった。
かみ合わない返答の後にすぐ、自分の頭の上にあたたかく重いものがのしかかるような感覚がした。それは一番の大きな手のひらで、変わらないままの笑顔を浮かべながら、優しく私の髪を撫でて言う。
「たーんと飯食って、いっぱい寝て、大きくなれよ!!」
一番のその笑顔と、その言葉と、その手のひらの感触は、私の心にこびりついて離れなかった。きっとこれは今までもこれからもそうだろう。
まだ小学生だった私が一番に抱いた想いは初恋であり、家族のような、兄のような、自分と関りのある数少ない大人の男性に対しての憧れのような、様々な感情が混ざり合っていたと思う。ただはっきりと言えるのは、一番が好きだったというその想いだけ。
彼が法を犯し、刑務所に収監されたという話を聞いたのはそれからしばらく経ってからのことだった。まだ幼かった私に周囲の大人たちは一番の詳しい状況を教えてはくれなかった。罪状が殺人であるならばそれも当然だったかもしれない。どこの刑務所に居るのか、いつ出てくるのか、その答えを誰に聞いたら良いのか、なにもかも分からず、ただいたずらに18年の時だけが過ぎ去った。
“たーんと飯食って、いっぱい寝て、大きくなれよ!!”
今でもはっきりと覚えている。あの日一番が私に言った言葉。どれだけ食べて、どれだけ寝て、どれだけ大きくなれば、私はあなたに近づけるのだろうか。いまあなたはどこで何をしているのだろうか。
甘く、やわらかいチョコレート。それを口にする度に私はいつも滑らかなくちどけと共にあの日の嘘を噛み締める。「まぁまぁ」だなんて真っ赤な嘘だ。もしもまたいつか彼に会える日が来たとしたら、心からの素直な気持ちを伝えたい。「世界で一番、美味しかったよ」、と。
(2021.6.25)