埋もれ木に春が咲く - 1

 白く滲む息は、外の世界がどれほど寒いのかを私に知らしめているようだった。こんな寒い日には、どんな気温でもまるで子供のように薄着で過ごしていた彼の姿を思い出す。お気に入りなのか赤いスーツを胸元を開けて着ており、いつも見ているこっちが寒くなるようだった。

 春日一番。この随分とめでたい名前を持つ男が私の初恋の相手だった。私の叔母である道代さんの経営するスナックによく顔を出しており、小さなころから道代さんに預けられていた私は一番と顔を合わせる機会が多くあった。当時の私は小学生で身長も低かったため、一番には「ちび」と呼ばれていた。

 私は一番がいま何処で何をしているのかすら知らない。大切な人が居るのか、私のことを覚えているのかどうかすら、分からない。再び会うことが出来たとしたら、一番はあの日のように私を「ちび」と呼ぶだろうか。

「おーい!ちび!居るかぁ!?」

 夕方の神室町チャンピオン街。その日も一番は断りもなくスナックに勝手に入り込み、カウンター席で本を読む私に声をかけた。

「ちびじゃないよ……、だよ」

 小さな声の反論は一番の耳には届いていないようだった。

 私は「ちび」と呼ばれるのがあまり好きではなかった。身長は確かに低かったためその辺りは特に気にしていない。気になるのは一番が私を子ども扱いする所だ。

「おいちび、ちょっと手伝ってくれるか?またシエスタんとこの茶々丸が居なくなったんだってよ」

「え、また?」

 『シエスタ』というのは道代さんが経営するスナックと同じ通りにあるバーで、茶色い虎模様の猫を飼っている。名前は茶々丸。この茶々丸はよく店を脱走しては数日間姿を見せないことが良くあり、バーのマスターは茶々丸が居なくなるとすぐに一番に助けを求めていた。

 読んでいた本にしおりを挟んで閉じるとカウンター席から飛び降りる。店を出る一番の背中を追いかけ同じように外に出ると、彼はきょろきょろと頭を動かしたあとに真っすぐ前の方向を指差して言った。

「俺はこっちを探すから、お前はあっちな。チャンピオン街から出てなきゃいいんだけどよ……」

 返事をするよりも早く、一番はその場から小走りで動き出す。大きな背中が路地の間に消えると私は軽くため息をついた。

 子供ながらも一番に恋をしていた私は、彼に子ども扱いされることが嫌だった。しかしこうして困っている神室町の人々を放っておけない一番の手伝いが出来ることはとても幸せだった。一番が私を必要としてくれている、と強く感じることが出来たからだ。本当の所、一番がどう思っていたのかは分からないけれど。

 私は一番が指差した方向を重点的に茶々丸を探した。路面に出ている小さな立て看板の裏、室外機の下、建物と建物の間の細い隙間に至るまで観察したが、茶々丸の姿はどこにも見当たらない。

「ちゃちゃまるー!どこにいるのー?でておいでー!」

 その名を呼びながら、可能性がありそうなありとあらゆる場所を探す。そして私は茶々丸を探すことに夢中になりすぎて、目の前にいる人の影に気付かずに突っ込んでしまった。

「わ!」  無意識に声が漏れ、反動で飛ばされた私はその場で尻もちをつく。ぶつかった相手は大人で体格も良かったため、私のような子供がぶつかった所で屁でもない様子だった。

 相手は男性でくたびれたスーツを着ており、こちらを睨むような鋭い目つきで見下ろす。その表情に恐怖を感じ、すぐに謝ろうと口を開いた瞬間だった。

「おいクソガキ!テメェ、どこ見て歩いてんだよ!」

 大きく低い声に更なる恐怖を感じ、息が上手く吸えずに浅い呼吸になったのが分かる。尻もちをついたまま動けない私の顔を男性は覗き込み、威嚇するように険しい顔をした。その目は虚ろで頬はほんのりと赤く、漂ってくるにおいは酒臭い。まだ陽も沈みかけた夕方の時間帯ではあったが、男性は充分すぎるほどに酔っているようだった。

「ったくよぉー!せっかく気持ちよく酔ってたのに台無しだぜ。どう責任取るんだよクソが!」

 ただただ怖くて、反論することもその場から動くことも出来ない。心臓がどんどんと早く鳴り呼吸が上手く出来ない。呆然とする私のことが男性は気に入らなかったのか、胸倉を捕まれ引き寄せられる。

「なんだその目は?ああ?大人ナメんじゃねーぞ!」

 男性は私の胸倉を掴んだまま大きく厚い手のひらで強い平手打ちをかました。パン、と乾いた大きな音がして、目の前に星が飛んだような感覚になる。どうやら口の中が切れてしまったようで微かな鉄の味を感じ、じわじわと痛み出す頬は熱を帯びていた。

 自分の見知らぬ、しかも大人の相手に暴力をふるわれ頭が真っ白になる。何も考えられず、ただ呼吸をすることと頬の痛みを感じることで精いっぱいだった。恐怖とショックで涙の一粒すらも出て来ない。

 その時。聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「離せやコラァ!」

 怒鳴り声と同時に男性が吹っ飛び、私の胸倉を掴んでいた手が離れた。目の前に大きな影が落ち、私と男性の間に誰かが割って入ったことが分かる。赤いスーツを着た大きな背中。一番だった。

になにしてくれてんだテメェ!ぶっ殺すぞ!」

 まるでチャンピオン街全体に響き渡りそうなほどに大きな声で一番が叫ぶ。先ほど男性が吹っ飛んだのは一番に思いきり殴られたせいらしく、その場に倒れ込み半泣きの表情で顔をおさえていた。

 追撃を加えるために一番が男性に近づく。すると男性は大慌てで立ち上がり「ごめんなさい!」と叫びながらチャンピオン街の出入口に向かって走り出した。

「オイコラ待て!逃げんじゃねぇ!」

「一番!」

 男性を追いかけようとする一番を大きな声で呼び止めると、私はその場に立ち上がる。心臓の鼓動も落ち着いているし、呼吸もしっかり出来ている。平手打ちされた自身の頬に手を添え、その痛みと熱さを強く感じながら、私は小さく呟いた。

「いいよ、もう。……酔っ払いを相手にするだけ、無駄だよ」

 それだけを言って俯くと、一番の足音が聞こえこちらに近づいてきているのが分かった。すると大きな手のひらが私の耳の辺りに触れ、両手が頬を包む。顔を上げさせられると一番の大きな瞳と目が合った。

「悪ィ、俺のせいだ。ちゃんとお前についてるべきだった」

 とても悲しそうな顔だった。一番は私の顔を包んでいる手の片方だけを動かし、平手打ちされた頬をさする。何故か頬の痛みも、熱さも増したように感じた。目の奥が熱くなってきて視界が歪む。私の意志とは関係なく、目から涙がこぼれた。頬を伝うはずの涙は一番の手の甲をすべっていく。

「お、おい。大丈夫か?痛ぇのか?」

 小さく首を振ると、一番はそれ以上何も言わなかった。

 痛いのは平手打ちされた頬ではなく、私の心だった。一番に悲しそうな顔をさせてしまった自分がとてつもなく不甲斐なかった。大人の男性に胸倉を掴まれ暴力を振るわれ、恐怖で何も言えず何も出来なかった。一番が助けてくれなければどうなっていたのだろうと想像すらしたくない。

 子供ながらも一番に恋をしていた私は、彼に「ちび」と呼ばれ子ども扱いされることが嫌だった。しかし私は事実とても小さく、非力で、世間知らずの“クソガキ”だった。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。幼かった私に、初めての恋と劣等感を教えてくれた人。それが、春日一番という人だった。

 茶々丸はとある飲み屋前に置かれている植木鉢の影で丸くなっている姿が発見された。見つけたのはもちろん一番で、茶々丸は大人しく一番の腕に抱かれるとそのままシエスタのマスターの元に届けられた。

 あの日から私は男性を怖いと思うようになった。とは言え年下の子供や自分の父親、そして一番は例外だった。私が怖いと思うのは体がそれなりに出来上がっており力を持っている男性。そのような人を見るたびにあの時、見知らぬ男性に胸倉を掴まれ平手打ちされた光景が目の前に蘇るようになった。

 私の変化に一番も気づいており、それが自分のせいであると責任を感じているように見えた。だから私は一番の前では出来る限り平気なふりをしていた。神室町内で弟分の男性を引き連れている一番に会った時や、他の男性と話をしている一番を見かけても、自分の心に蓋をしていつも通りに接していた。一番に不必要な重荷を背負わせたくなかったから。

 それからしばらく経ち、年が明けた2001年1月1日。私は除夜の鐘を聞きながら眠りにつき、目が覚めてすぐに自宅近所にある寺へ初詣に行った。顔見知りに会うたびにお年玉やお菓子を貰い、調子に乗った私は道代さんの元へと向かうことにした。

 お正月であれど働いている人は居るし、初売りや何だで神室町には人が多く行きかっている。私は歩きなれた道を行き、いつもの角を曲がってチャンピオン街に入ろうとした。その時だった。

 数メートル離れた前に見覚えのある背中がある。背が高く赤い派手なスーツを着ており、髪型はパンチパーマ。一番だった。新年早々会えると思ってもいなかった私は思わず足取りが軽くなり、その背中に近づいて声を掛ける。

「一番。あけましておめでとう」

 私はいつも通りのトーンでそう言ったが、一番は驚いたようにすぐにこちらへ振り向き、ぎこちなく笑う。

「おお。なんだ、ちびじゃねぇか」

 違和感を覚え、何かがひっかかった。一番の声の大きさや、笑顔や、纏う雰囲気のようなものがいつもと違うように思えたせいかもしれない。ただなんとなく“一番になにかがあった”と率直に感じた。

「……どうかしたの?」

 その様子が気になり問いかける。すると一番は何かに気付いたようにハッとし「なんでもねぇよ!」と無駄に大きな声で答えると、笑いながら私の頭の上に手を置いた。髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でられ頭を揺さぶられる。髪型が乱れるこの行為は好きではないが、一番にやめてと言ったところで笑って誤魔化されるだけなので、いつしか抵抗することを諦めていた。

「それにしてもお前、元旦から一人なのかよ。道代ママんとこに行くのか?」

 私は声を出さず頷いて答える。きっと道代さんは昨日も飲み歩いてベロベロになっているだろうから、もしかしたら店の奥で寝ているかもしれない。どちらにせよ今日は元旦のため店は休みである可能性が高い。

 私の両親は共働きで忙しく、きょうだいの居ない私はいつもひとりぼっちだ。預けられた先でも叔母はいつも寝ているし、話し相手だって居ない。それでも寂しくなんかなかった。一番が来てくれるから。一番が居てくれるから。



 急に名を呼ばれ、肩が震える。一番はいつも私を「ちび」と呼ぶのでその名を口にされることは稀だった。少し驚き一番の顔を見ると、先ほどと同じような優しい微笑みをこちらに向け、自身のスラックスのポケットから何かを取り出し、差し出した。

「これやるよ。お年玉だ」

 差し出されたのは小さな袋に入った一枚のお煎餅だった。予想するに大きな袋に個包装で入っているものの一つで、一番の“やくざ”の事務所から拝借してきたものだろう。何故おせんべいを私に?と思ったが、恐らくはペットに餌をあげる感覚に近いのかもしれない。

「わたし、おせんべいあんまり好きじゃない……」

 可愛げが無さすぎる返答をし受け取らずに居ると、一番は私の手を取りそこへ無理矢理にお煎餅を握らせた。

「バーカ。好き嫌いすんな!」

 一番の、いつもの明るい元気な声が聞こえてすぐ、自分の頭の上にあたたかく重いものがのしかかるような感覚がした。それは一番の大きな手のひらで、変わらないままの笑顔を浮かべながら優しく私の髪を撫でて言う。

「たーんと飯食って、いっぱい寝て、大きくなれよ!!」

 一番はそう言うと私に背を向け「じゃーな!」と叫び、手を振りながら神室町の人ごみに消えた。

 その笑顔とその言葉とその手のひらの感触は、私の心にこびりついて離れなかった。今までもこれからもそうだろう。まだ小学生だった私が一番に抱いた想いは初恋であり、家族のような兄のような、様々な感情が混ざり合っていたと思う。

 子供ながらも一番に恋をしていた私は、彼に「ちび」と呼ばれ子ども扱いされることが嫌だった。しかし私は事実とても小さく、非力で、世間知らずの“クソガキ”だった。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。はっきりと言えるのは、一番が好きだったというただその想いだけ。

 あの日を最後に一番は私の前から姿を消した。もらったお煎餅は、なんだかいつもよりしょっぱく感じた。

 一番は何故消えたのか。その理由を教えてくれる大人は誰一人としていなかった。幼かった私は“やくざ”がどういうものかはっきりとは分かっていなかったが、場合によっては良くないこともする存在だということは知っていた。きっと一番は何かしらのトラブルに巻き込まれ、行方不明になったか、もしくはもうこの世には居ない存在なのかもしれない。そう考えることで自分を無理矢理に納得させていた。

 あれから8年の年月が経ち、私は高校を卒業後、神奈川の大学に進学することになった。親元を離れ一人暮らしするアパートは横浜に借りる予定だ。

 男性を怖いと思う気持ちは、8年前の頃に比べたら大分マシにはなったと思う。ただまだ完全に克服したわけではない。男性の大きな声を聞いたり、強く体がぶつかったりすると恐怖を感じるのは変わらない。

“たーんと飯食って、いっぱい寝て、大きくなれよ!!”

 今でもはっきりと覚えている。あの日一番が私に言った言葉。どれだけ食べて、どれだけ寝て、どれだけ大きくなれば、私はあなたに近づけるのだろうか。私はいつかまたあなたに会えるのだろうか。なんて、もう生きてるかも死んでいるかも分からないような相手に“いつか会えたら”なんて期待をするだけ無駄な話だ。つい先ほどまでそう思っていた。

 一番が居るのは、見知らぬ土地でもあの世でもなく刑務所。その事実を知らされたのは、私がこの神室町を出る当日のことだった。