埋もれ木に春が咲く - 2
幼い頃、大人は自分勝手な生き物だと感じていた。しかし自分がその“大人”の年齢に近づいてくると、自分勝手だという批判を簡単には出来なくなる。
法を犯し、刑務所に収監された一番。まだ幼かった私に周囲の大人たちは一番の詳しい状況を教えてはくれなかったが、罪状が殺人であるならばそれも当然だったかもしれない。これは自分勝手ではなく、私を守ろうとしていたんだ。周囲の大人たちは私のことを第一に考えてくれていた。
殺人。つまりは自分以外の人を殺めること。一番がその罪を認め刑務所に入ったということは理解出来たが、一番が人を殺したということは理解できなかった。あの一番が人をあやめるなんてことあるわけがない。きっと誰かをかばっているか、何かの間違いなのだと思いたかった。
道代さんは数年前に大病を患い、酒も煙草も絶ったためスナックを閉店した。代わりに同じ場所でオーガニックカフェの経営を始めたが、道代さんとヤクザの関りは目に見えて減っていき、同時に私とヤクザの関りも減っていった。それ以前に最近はヤクザに対する風当たりも強く、関りを持ちたくないという人が増えたため、私が一番について得られる情報などはほとんどなかった。
どこの刑務所に居るのか、いつ出てくるのか、その答えを誰に聞いたら良いのかなにもかも分からず、一番が消えてからただいたずらに18年の時だけが過ぎ去った。あの日小学生だった私は、いつのまにか三十路手前の年齢になっていた。
神奈川の大学に進学し横浜で一人暮らしをしていた私は、卒業してからも横浜に住み続けた。神室町に戻ることも考えたが、戻った所で今更新しい情報を得られるということもないだろう。一番を忘れたことなど一度もない。しかし最近の私は一番を思い出す回数が減る程に切羽詰まっていた。
「また落ちた……」
自分しかいない部屋で独り言を呟く。手に持っている書類には『選考結果のご通知』という文字が大きく書かれており、その下には『誠に残念ながら』という文字が続いている。先程自宅に届いたばかりの手紙は求人の不採用通知だった。
大学を卒業した私はそのまま大手企業に就職し順風満帆な生活を送っていた。人間関係にも恵まれていたし、仕事は楽しいし、給料も良い。何もかも完璧だった環境をぶち壊したのは一人の男性だった。
他部署から異動してきたその男性は私の直属の上司となった。男性が苦手だった私も大人になった今ではそれをほとんど克服し、一緒に仕事をすることなら何ら問題はない。問題はその男性がセクハラをすることだった。
肩に手を置くとか、手が触れる程度ならまだ良い。男性はどさくさに紛れ女性社員の下半身などを触ることが頻繁にあり、もちろん私も被害にあった。しばらくは我慢していたある日、堪忍袋の緒が切れた私は男性の胸倉を掴み、その顔に平手打ちをかました。
その姿は、私が幼い頃に神室町のチャンピオン街で酔っ払いにぶつかってしまった時と全く同じ状況だった。いま思えば八つ当たりに近かったかもしれないし、この世の男性に対する恨みのようなものをただぶつけただけだったかもしれないと反省した。
当然、反省するだけで許してはもらえず、私は数年務めた会社を理不尽にも解雇された。暴力をふるってしまったことは反省している。しかしこの結果には未だに納得がいっていない。納得がいっていないとはいえ、解雇されてしまったものはもう諦めなければならないことなのだが。
無職になってしまった私はすぐに再就職活動を始めた。しかし不景気な今の世の中で雇ってくれる会社は少なく、いくつか採用試験を受けてみたものの『ご希望に添いかねる』だの『貴殿の採用を見送る』だのという文字は飽きるほどに見ていた。
もう仕事を選んでいる場合ではないのかもしれない。いっそキャバクラやガールズバーの採用試験でも受けてみようか、と一瞬血迷ったことを考えてしまい頭をふる。私は美女でも、スタイルが良いわけでも、卓越したトーク力があるわけでもないし、なによりそこまで若くはない。
突然の解雇からの無職は精神的にとてもショックだったが、今の状況のほうがよほど辛いかもしれない。心と残り少ない貯金がじわじわと削られなくなっていくのを日に日に強く感じていた。
このままではいけない。そう思い私はクローゼットを開け、お気に入りのアウターを引っ張り出した。美味しい物でも食べて、綺麗な景色でも見れば少しは頭がスッキリするかもしれない。そうだ、中華街に行って本格的な中華料理でも食べよう。その後は浜北公園に行って海でも眺めよう。
私は手早く身支度を整えると、そのまま部屋を飛び出した。
神内駅にほど近い場所にある私の部屋は、中華街もそこまで遠くはない。あの場所へ近づくたびに漂ってくる食欲をそそる香りが私は大好きだった。昼間でも煌びやかに見える赤や黄の装飾はとても美しく、重く沈んだ心が少しだけ軽くなるような気がする。
なにを食べようかな。エビチリ、回鍋肉、酢豚、ナッツ炒めも美味しそう。そんなことを考えながら中華街を歩いていた時だった。
「うわぁ!」
食べ物で埋め尽くされていた私の思考を大きな声が引き裂く。声のした方向を見ると一人の女性が地面に座り込んでいた。どうやらつまづき転んでしまったようで、へたり込む彼女の目の前には持っていた荷物が散乱している。
女性は黒く長い髪で、肌は白くとても美人だった。綺麗なパンツスーツを着こなしておりとてもスマートに思える見た目とは裏腹に、慌てた様子で散乱した荷物を集め始める。目の前を往来する人々に向かって「すみません!踏まないでください!」などと叫びとても困った様子に見えるが、彼女を助けようとする人は誰も居ない。
私は女性の元へ駆け寄り、地面に散らばった荷物を拾い始めた。その荷物が個包装されたお菓子だということにその時に初めて気づく。小さく透明なビニールに入ったそれはお煎餅のようで、先ほど彼女が「踏まないでください!」と言っていたことに納得出来た。物がお煎餅ならば踏まれれば粉々に割れてしまう。
「あ、ありがとうございます!助かります!」
「いえ」
今にも泣きだしそうな顔でお礼を言う女性に、私は一言だけを返す。お礼よりも先に今はこの散乱するお煎餅たちをさっさと集めてしまったほうが良い、と思っていたためだった。
「ふぅー。良かったぁ、みんな無事ですね」
かき集めたお煎餅たちを袋に入れながら女性が独り言を呟く。私は軽く会釈をし彼女に背を向けて歩き出した。さて、まだ何を食べるか決めていない。オーソドックスにラーメンと餃子でも良いかもしれない。そんな風に考えた時だった。
私の腕を何者かが掴む。思わず「う」という声が漏れ、その場に立ち止まった。何事かと思い振り返ると、先ほどの女性が私の腕を両手で掴み、歯を見せて笑っていた。
「あの、わたし鎌滝えりと言います!とても助かったので是非お礼をしたいのですが、あなたのお名前伺っても良いですか?」
女性は目を輝かせながらいきなり自己紹介を始めた。カマタキ、だなんて変わった苗字だなと思いつつ、早くその場から去りたかった私は彼女から目をそらして言う。
「あ、えっと、別にお礼とか良いですよ。ただお煎餅拾っただけ……
「いえ!そんなわけにはいきません!親切にして頂いてとても助かりました!このままじゃ私の気がすみませんし、何かお礼をさせてください!」
私の言葉を最後まで聞く事なく女性は食い気味に叫ぶ。その勢いに押され気味になるも、彼女は私の腕を両手でしっかりと掴み、離してくれそうになかった。
「せめてあなたのお名前を!お名前だけでも」
女性はすがるように私に言ったが、どう考えても名乗った所でこの手を離してくれるとは思えなかった。厄介な事に首を突っ込んでしまったかもしれないと思いつつ、「ですけど」と名乗る。
「さん!ありがとうございます!」
鎌滝さんはいつまでも手を放してくれそうになかったので、私は彼女に食事をごちそうしてもらうことでそれを『お礼』とした。どうせ初めからご飯目当てでこの中華街に来たのだし、その代金が浮いたのは良かったじゃないかと自分を納得させる。
二人で手ごろな店に入り、料理をいくつか注文する。鎌滝さんはとても細く、格好良いパンツスーツを着こなしている見た目に反してよく食べる女性だった。炒飯や小籠包を次から次へと口へ運んでいく姿は小動物のようでとても可愛らしい。
「私、この近くの会社で働いてるんです」
いつしか鎌滝さんは自身が務める会社について話し始めていた。私は自分が無職であることに引け目を感じ、話を右から左へ聞き流しつつ彼女と同じように炒飯をひとすくい口に運ぶ。
「元々は小さなお煎餅屋さんだったんですが、今はとても大きな会社になったんです。新しい社長がとても優秀な方で……。あ!さっきのお煎餅はうちの新商品のサンプルで、社長の所に持っていく途中だったんですよ」
あはは、と呑気に笑いながら鎌滝さんが言う。社長の所へ行くというのにこんな所で寄り道してて良いのだろうかと思うが口には出さない。彼女の様子からするにその“優秀な社長”とやらはのんびりとして寛大な人なのだろうと勝手に解釈した。
「よかったら一ついかがですか?うちのお煎餅とっても美味しいんですよ」
鎌滝さんは傍らに置いてあった袋に手を突っ込み、先ほど地面にばらまいてしまったお煎餅のサンプルを取り出すと、軽く身を乗り出すようにして私のほうへそれを差し出した。その勢いに押され「どうも」と返事をしながらとりあえず受け取る。
新商品だと言っていたお煎餅はどこにでもあるような至って普通のお煎餅に見えた。小さく透明なビニール袋に薄目のお煎餅が入っており、味は醤油だろうか、表面が茶色くキツネ色で、きっと袋を開けたらとても良い香りがするのだろうなと感じる。
私は小さな頃、お煎餅があまり好きではなかった。しかし今はとても好きなお菓子のひとつで、そうなった要因は2001年1月1日のあの日、一番に“お年玉”と言って貰ったのがお煎餅だったからだ。あの日すぐに食べたお煎餅は少し湿気っていたししょっぱかったけど、とても美味しかった。
「さん……!?」
震え、焦ったような様子の鎌滝さんの声が私を呼んだ。気が付くと私の目からは涙がこぼれており、頬を伝ってぽたぽたとテーブルに落ちる。
「え、え!?ど、ど、どうされたんですか!?私なにか気に障ることを言ってしまいましたか!?」
鎌滝さんはバッグからハンカチを取り出し、差し出す。綺麗なハンカチを汚したくなく、私はそれを受け取らずに首を横に振った。
「昔を……思い出しただけなんです。すみません」
涙のせいで震える声を絞り出して言うと、鎌滝さんはハンカチを引っ込めそれ以上は何も言わなかった。
あの頃の私は幼く無知で無力だった。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。それが今はどうだ。無駄に歳だけを取り、一番を取り巻く真実を知ったくせにこうして何もできずにのうのうと暮らしている自分が情けない。
涙で濡れた頬を手で拭いながらハッとした。気が付くと私の様子を見ていた鎌滝さんも同じように泣きそうな顔になっており、驚いて私の涙が引っ込む。彼女は同情しやすい性格なのだろうかと呑気に思いつつ、この微妙に気まずい雰囲気をなんとかしようと歯を見せて笑った。
「あ、私、実はいま無職なんです。夢も職もなくて、将来が不安で、それで、その……ははは……」
顔の前で手をパタパタと振りながら言い訳を並べ立て、乾いた声で笑う。別にいまここで自分が無職であるということは言わなくても良かったのではないかと思うが、今更もう遅い。
笑う私を見た鎌滝さんは、目を丸くしてきょとんとした顔をする。そして一瞬だけ眉を歪ませ考えるような顔をすると、座っていた椅子から急に立ち上がった。テーブルの上に置かれていたスープのお椀やお冷のコップが軽く揺れる。
彼女の行動に驚きつつ何も言えずにただ見つめていると、鎌滝さんは両手で私の手を取りこちらに顔を近づけた。
「うちで働きませんか?」
「……は?」
何を言われるか予想もしていなかったが、急に支離滅裂なことを言われ思わず間の抜けた声が出る。一瞬、鎌滝さんはふざけているのだろうかと思ったが、彼女の真剣な表情と潤んだ瞳を見る限り冗談を言っているようには見えない。
「さん、父が死んで頼れる人が居ない中で騙され路頭に迷っていた昔の私にとても似ていて……放っておけません」
父が死んだ?騙された?急に訳の分からないことを言われ混乱していると、私の手を掴む鎌滝さんの両手に力が入ったのが分かる。
「私が勤める会社はすぐそこなんです。そうだ!今から見学だけでもどうですか?この後お時間ありますか?」
何を言われているのか良く理解できなかった。ああ、もしかしたら私はこの後、高い布団や壺を買わされ大金を騙し取られでもするのかもしれない、と思う。しかし先ほど自分でも言ったことだが、私には夢も職もなければ、貯金だってもうすぐ底をつく。もう失う物なんてないんだ。
「……はい」
何の感情も込めずにただ一言だけ返事をした。鎌滝さんは嬉しそうに笑うと、掴んでいた私の手をやっと解放してくれた。