めんどくせえのはおまえのせいです - 後編
いや、別に焦ることなんかない。男と女が一人ずつ、隣同士に全裸で寝ていたからと言って一線を越えているかどうかなどは分からない。私の体があちこち痛むのも、下腹部に残っている異物感も、もしかしたら気のせいかもしれない。
何も身にまとっていない肌の上を、部屋に漂う冷たい空気が撫でていく。例えばシーツやら毛布やら、そういった体を覆い隠すような布が近くになかったため、私も康生もお互いに裸体を晒し続けている。目を反らすこともなければ、ジッと凝視するようなこともない。
とりあえず寒いから服を着ようと考えながら辺りを見回す。すぐ近くに自分が身に着けていた下着類が散乱しており、手を伸ばした。その時、視界にゴミ箱らしきものが映り込む。
「あ」
思わず小さな声をあげる。そこには避妊具の外装パッケージと、明らかに使用済みの『それ』が捨ててあった。記憶が途切れるくらいに酔っていたというのに避妊だけはちゃんとしていたのだな、と感心してしまう。とりあえず私たちは一線越えてしまったということで間違いはなさそうだった。私のからっぽの脳味噌がそれを認識した時、消えかけていた記憶が妙にはっきりとしてくる。
あの夜、珍しく深く酔っていた康生は、いつものように私の腕を掴んだ。そして固い親指で肌をさすった。あれが何かしらのトリガーだったのかもしれない。気が付けば口唇が重なっていて、熱く濡れた舌が歯をこじ開けて中に入って来て、体のあちこちを愛撫された。抵抗なんてしていないしする気もないのに、赤い花が咲き乱れる太い腕で私を押さえつけ、何度も何度も体を揺らした。重い吐息、行き来する粘度、下腹部に響く低い声。いくつかの記憶が蘇ってくる。
セックスなど何年振りにしただろうか、とぼんやり思う。曖昧な記憶の中でも、それこそ本当に死んでしまうのではないかと思うほどに気持ち良かったという想いだけははっきりとしている。それはきっと相手が康生だったからなのだろうと柄にもないことを考えた。
私は後悔などしていない。別にどうでも良かった。セックスしようとしまいと、私たちの腐り切ったこの関係が変わることはないと思っていたからだ。
「まさか、私らがやっちゃうなんてなぁ。お酒ってほんま怖いわ」
ハハ、と乾いた笑いをこぼしながら、床に落ちていたブラとパンツを拾い上げる。それを手早く身に着けると、両腕を天井に向かって上げ、大きく伸びをした。どこかしらの関節がぱきぱきと音を鳴らす。
今日も店に出勤しなければならない。とりあえず家に帰ってシャワーを浴びて、夜まで少し眠ろうか。そこまで考えた時、自分のすぐ後ろに居る康生から何の反応も返ってこないということに気が付く。
例えば、私の言葉に『ほんまにうっかりや』だとか『なかったことにしよか』だとか、冗談っぽく言い返してくれると思っていた。何も発さない康生に不安を覚え、振り返って顔を見る。康生は私を強く睨みつけると、表情を歪めたまま髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
私は後悔などしていない。別にどうでも良かった。セックスしようとしまいと、私たちの腐り切ったこの関係が変わることはないと思っていたからだ。でも、きっと、康生は違う。声も出さない。溜息もつかない。それでも分かった。康生は、私を抱いたことを後悔している。
昨夜に戻れるのならば戻りたい。そんな想いが塗りたくられたような顔を見ていることがつらく、私はすぐに前へ向き直った。床に脱ぎ捨てられた服を着て、上着を羽織る。すぐ近くに落ちていた派手な色のダウンジャケットを拾い上げ、康生に向かって投げた。
「ほら……、さっさと服着いや。風邪、ひくで」
それだけを言い残し部屋を出る。ヒールがぶつかるカンカンという耳障りな音を響かせながら階段を降りると、逃げるようにその場から歩き出した。良い天気だった。それなのに私は早く家に帰ってシャワーを浴びたいと思っていた。自分の体に残る康生の感触ごと、全てを洗い流したい気分だった。
それから、康生は私の目の前に現れなくなった。私が在籍している店には週に何度も訪れていたというのに、それがぱったりとなくなった。店長には「なにかあったの?」と訊かれたが、曖昧にはぐらかした。
店にも来ない。電話にも出ない。メッセージを送っても既読すらつかない。康生が良く行く飲み屋に行ってみたり部屋を訪ねてみたりしても、会えることはなかった。今までに喧嘩(もちろん暴力ではなく口論)をしたことはあってもここまで避けられたことはなかった。もしかしたら康生は私のことを『一度寝たくらいで彼女面する面倒臭い女』だと思って突き放そうとでもしているのか。
色も匂いも変わり腐り切ったこの関係を、もう何年も放置してきた。別にそれで良かった。どうでも良かった。私はぬるま湯に浸かっていたかった。そのうち皮がふやけてぶよぶよになり、みっともなく溶けて排水溝に流れてしまっても、もうそれで良かった。でも私にはそれすらも許されなかったのだと、たった今やっと気が付いた。終わる時はこんなにもあっさり、まるでロウソクの火のように簡単に消えてしまうのだなと思う。涙さえも出なかった。
康生に避けられるようになってから数日。何日顔を見ていないだとか、何日声を聞いていないだとか、もうそんなことは分からなくなった。あまりにも連絡が取れないため知らないうちに番号を変えられたのではないかとすら思ってしまう。たまたま鶴野さんに会った際、康生の様子はどうかとさりげなく訊いたこともあったが「獅子堂なら相変わらずやで」という言葉と笑顔が返ってきただけだった。
街は今日も人でごったがえしている。春はまだまだ遠いようで、外に出ると冷たい風が頬を刺す。厚手のコートにマフラーを巻いて家を出た。自分の身に何が起ころうとも、店に出勤しお金を稼がねばならない。仕事終わりに『今日も康生は店に来なかった』と気分が落ち込むことは目に見えている。それでも私は店に行かなければならなかった。
人の波に乗り、道を歩く。流れに逆らって歩く人が急に目の前に現れてぶつかることが間々あるため、気を抜いて歩くことが出来ない。この街は気を張っていないとすぐ何かにぶつかってしまう。康生が今なにをしているのか、何を考えているのか、一線を越えてしまった私たちが元のような関係に戻ることは出来ないのかどうか、そんな考えごとをしながら歩く余裕すらも与えてくれはしない。
ふと、冷たい空気とともに何かが私の頬を撫でた。覚えのある感触と匂い。その場に立ち止まりたかったが、それをすると自分の後ろを歩く人の迷惑になってしまう。人の流れを止めるわけにはいかず、私は脚を動かし続ける。
真っすぐ前を見て歩かなければと思い、改めて顔を上げる。向かい側から擦れ違うように歩く人の波が視界に映り込んだ。その中に見覚えのある色があった。黒と金。触ると柔らかく、あいつが着ているとまるで大きなぬいぐるみのような感触のダウンジャケット。
「……康生?」
その名を呟き、思わず脚を止めた。私の後ろを歩いていた人の体が肩の辺りにぶつかり、小さな舌打ちと共に「邪魔じゃボケ」と吐き捨てられる。人の波を抜け、逆らい、ダウンジャケットを着た後ろ姿を追いかける。
「康生!」
今度は大きな声で名を呼ぶ。こちらに振り返った顔はあまりにも見慣れたものだった。大きな傷が走っている頬。不機嫌そうな深い眉間の皺。今にも『うっさいわ』と小言を漏らしそうな口唇。康生だ。ずっと会いたくてたまらなかった康生がそこには居た。
道の真ん中で立ち止まった私たちを周囲の人間が迷惑そうな顔で睨むように見る。しかし康生の柄の悪さを見るなり、そんな目を向ける人はすぐに居なくなった。逃がしたくないという想いから、康生の腕を掴む。
「私のこと避けとるやろ?なんで?」
答えなどもうすでに分かっていることを、わざとらしく問う。康生は何も口にしなかった。ただ不機嫌そうな表情でこちらを見下ろしている。
「こないだのことやろ?康生が今までどんな子と付き合うてきたか知らんけど、私は一回寝たくらいでどうこうしてくれなんて言わんで。そんな面倒臭い女とちゃうよ。だから、」
だから、ともう一度口に出した。しかしその先の言葉が出てこない。『今まで通り腐れ縁で居てよ』と言いたいのに、喉が詰まったように声が出ない。
「俺はもう、戻られへん」
私の心を読んだかのような、康生の暗く低い声が落ちて来た。そしてすぐに首に大きな手がかかったのが分かる。小動物を片手で絞め殺すかのように、グ、と指の腹が皮膚に食い込んだ。
「俺はあのいっぺんで戻れなくなったわ。お前を抱いた時のことが、もう、頭から離れへん。声も味も汗も匂いも全部」
康生の顔はあの日の朝に見た表情と同じだった。私を睨みつけるような鋭い目。苦しそうに引きつる頬。ただあの日と違うのは、後悔の色がひとつも感じられないことだった。
私も同じだよ、と言おうとしても、声が出なかった。私も康生に抱かれた時のことが頭から離れなかった。押し潰すかのように乱暴に重なった口唇だとか、押さえつけられた手の感触だとか、溶けそうな程に熱い異物感だとか、何もかもが頭から離れなかった。
セックスしようとしまいと私たちの腐り切ったこの関係が変わることはないなんて、真っ赤な嘘だ。ぬるま湯に浸かっていたいだとか、別にどうでもいいとか、そんな風に開き直って逃げたとしても、結局私は、たった一度抱かれただけで変わってしまった。康生のものになりたいと心の何処かで、ほんのわずかでも、思ってしまった。
「覚悟、出来とるんやろな?」
凄むような声が私の名を呼ぶ。言葉の意味が分からずにただ相手を見つめることしか出来ない。何の反応もしない私に康生の大きな溜息がかかる。
「こうやって無理矢理にでも俺を捕まえたっちゅうことは、覚悟出来とるんやろなって、聞いとんじゃ」
康生の手から力がぬけ、私の首から離れていった。触れたままで居て欲しいと口にしそうになる。こちらを見つめる康生の目は、私のそんな言葉を待っているような気さえしてしまった。
「いっぺん寝たくらいでああだこうだ言うのが面倒臭い女っちゅうんなら、俺のために面倒臭い女になってもらおか?」
先ほどの苦しそうな表情から一変、まるで子供のように悪戯っぽく笑う顔は、いつも通りの見慣れた康生だった。その時に初めて、自分が面倒臭い女になっていたということに気が付く。いつの間にか一番なりたくない自分になっていたという状況が、何故か酷く心地良い。
一歩前に出て、康生に近付く。わざとらしくダウンジャケットの裾を掴み、わざとらしく上目遣いをし、わざとらしく首をほんの少しだけ傾ける。これはキャバの先輩に教わった技だ。男という生き物はなんだかんだこういう単純なぶりっ子に弱い。
「じゃあ……、責任取って、私を康生の女にしてくれる?」
いかにもな仕草で康生を見上げる。その狙いすましたかのようなあざとさが可笑しかったのか、康生は口角をあげ「しゃーないな」とだけ言って、フン、と大きく鼻で笑った。周囲を行き来をする人の肩が、道の真ん中で立ち止まったままの私の体に何度もぶつかる。そのうちのひとり、名も顔も知らぬどこかの誰かが「ウッゼェ」とぼやく声が聞こえた。
(2024.4.3)