心にぬるい雨が降る - 1
焼き印のように、脳味噌に刻まれている。人を殴った時の骨が軋むような音。握りしめた拳の甲の部分に伝わる人の体の感触。刃物で切られた時の背筋が凍るような鋭い痛み。誰のものかも分からない飛び散る血液。匂い、味、空気、何もかもが焼き付いている。十五歳の頃からずっと。
闘技場に放り込まれて、いつ死ぬか分からないような毎日を過ごしていたあの頃よりもしんどいことなどこの世にないと思っていた。それは今でも変わらない。人を人と思っていないような拷問を受けながら、そんな風に考えていた。俺の体を痛めつけているのは顔も名前も分からない奴で、分かっているのは大道寺の人間ということだけだ。
「今ここで死ぬか、大道寺の一員になって生きるか、選べ」
黒い短髪。黒いスーツ。まるでどこぞのサラリーマンのような奴が言った。もし自分が大道寺の人間になったとして同じようにサラリーマンのような恰好をさせられるのだろうか。考えると笑えてきた。死ぬことなんぞ怖くない。それでも俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。
――そういうあんたは大道寺の犬になり果てたんか?何が伝説の龍や。笑わすな!
あの日叫んだ言葉が頭の中に蘇る。きっと俺は空に向かって叫んでいた。重力に負けた声が俺に降りかかる。『大道寺の犬』という単語が頭の中でしつこいくらいに響き渡って、耳の奥でぶらさがりながら俺をあざ笑っている。
「上等や……」
大道寺の犬にでも何にでもなる。それでも飼いならされるつもりなんかこれっぽっちもない。いつか全員嬲り殺して自由になる。そのチャンスが来るまでは地べたを舐めてでも這いつくばって生きる。死ぬ気で生きてやる。
『元暴五年条項』については前から知っていた。極道から足を洗った人間は五年の間、銀行口座もクレジットカードも作れない。携帯電話や住む家の契約すらも出来ず、はっきり言えば人間としてまともな生活が出来ないに等しい。この『元暴五年条項』がある限り取り込まれるほかなかったのかもしれない。今の俺は仕事も住む場所も全て大道寺から与えられている。
あれからどのくらいの月日が経ったか。仕事はほとんどが用心棒のようなものばかりだった。どこぞに隠れてコソコソする暗殺だとか、空気を読んで誰かさんを守る護衛だとか、そういうのは向いてないと判断されたらしい。俺と同時期に大道寺に取り込まれた西谷会長(正確に言えばもう会長じゃない)は逆に暗殺などが上手いのだと風の噂で聞いた。昔はあんなに派手にやっていたというのに、人には誰も知らないような意外な才能が隠れているものなんだなと思った。
大道寺は日本中に支部を持っていて、俺も同じように日本中を転々とさせられた。ある時は名古屋、ある時は博多、ある時は神戸、ある時は札幌という風に住む場所もしょっちゅう変わった。とは言え困ることなどなにもない。獅子堂康生という名を捨てた時、大道寺からは他人と関わらないようにと念を押された。今の俺はあの頃以上にただ暴力を振るうだけの人間になっていた。
いま居るのは人口がそれなりの地方都市で、駅前はそこそこに繁盛している。次の仕事の指示が出るまでは息抜きでもしていろという大道寺のお達しにより、好きなように過ごすことにした。行動は主に人目に付きにくい夜。一人で飲みに行ったりキャバで遊んだり、憂さ晴らしに血の気の多い喧嘩師と殴り合ったりもした。
ある日の夜。キャバで散々遊んで飲んだ帰り、家で飲み直そうとコンビニに寄った。ビール、チューハイ、ハイボール。手あたり次第に酒を買い、ついでにつまみも買う。白いビニール袋を手首にぶら下げながら、ふわふわとした足取りで歩いた。時刻は既に深夜一時を回っていた。この街は駅から離れれば離れるほど暗く、寂しくなっていく気がする。
ふと、とある空間に視線を吸われた。それはどうやら空き地のようで、黄緑色の貧相な雑草があちこちに生えている。道沿いの街灯の光が差し込んではいるがとても暗い。こんな仕様もない空き地なんか駐車場にでもして金稼ぎに使えばいいものを。そんな風に考えていると、雑草が生えておらず土がむき出しになった中央部分にしゃがみこんでいる人の姿が見えた。
目を凝らす。こちらに背中を向けているため、どんな服装をしたどんな人物なのかが良く分からない。ただ後頭部から分かる髪の感じからして女のようだった。人影がすっくと立ちあがったかと思うと、振り返って俺の方を見た。やはり女だった。薄っぺらくあまり暖かくなさそうな白いコート。そこから伸びる足も負けないくらいに白く、まるで幽霊のようだった。いやむしろあれは本当に幽霊で、実は俺にしか見えていないんじゃないかとすら思えてくる。
何となく目がそらせずにいると、自分の足元から「みぃ」という小さな音が聞こえた。すぐに頭を下げて音の方向を見ると、そこにはふさふさとした茶色い毛をまとった猫がいた。大きさからして大人の野良猫だろう。腹でも減っているのか足元に縋りついてくる。
「おう。なんや、にゃんころ」
腰を折って身を屈めようとした時、猫は両腕を振り上げて俺の脚にしがみ付いた。そしてまるでロッククライミングかのように、ズボンの布に爪をひっかけながらぐいぐいと登り出す。
「おいこら、やめえや。破れるやろ」
猫の首根っこを掴み、ズボンから引き剥がす。爪からばりばりという音が聞こえズボンにはあちこちに傷らしきものがついた。猫は不満があるのかドスのきいた大きな声で「うみゃー!」と鳴く。微笑ましく思いながら顔を上げると、空き地から女の姿が消えていた。
「その猫、お兄さんの猫?」
と思いきや、女はいつの間にか目の前まで来ていた。問いかけをしながらも口を半開きにし、呑気な顔で俺を見上げている。その瞬間にやっと気が付く。女が空き地にしゃがみこんでいたのはこの猫の様子を見ていたのだと。
「ちゃうわ。お前のやないんか」
「ううん。違う」
女は俺の手から猫を優しく受け取る。近くで見るとそれなりに綺麗な顔をしている女だった。薄い化粧でも華があり、黒髪は闇に溶け込むかのような不気味さと色っぽさの両方が感じられる。貧相な体つきではあるが手足は細く長く、そして白かった。
「お兄さん。この子、飼えない?」
突拍子もないことを聞かれ、なんでやと返答したくなった。大道寺からの指示により、どのタイミングでこの街から離れることになるかも分からない俺に動物の世話なんか出来るわけがない。猫は大きいし毛並みもそれなりに良い。どこかで食べ物を恵んで貰ったり身綺麗にされている可能性もある。そもそも野良猫なんか俺のような人間の手を借りなくとも立派に、貪欲に生きる動物だろう。
「そいつ野良やろ。今までも一人で元気にやってきたんとちゃうんか」
飼えない理由を大っぴらに言えなかったためひとまずは適当に誤魔化す。俺の言葉に納得がいったのかいかないのか、女は目を細め素っ気なく「ふぅん」と呟いた。長いまつ毛が持ち上がって、中途半端な色の瞳が俺を見上げる。つやつやとした柔らかそうな口唇が街灯の光を鈍く反射していた。
「じゃあ、……私は?」
女が口にした言葉の意味が一瞬分からなかった。白く細い腕に抱かれた猫が小さく「みゃう」と声を上げる。長い毛をくしゃくしゃとかき分けるようにしながら撫でられている表情はとても気持ちが良さそうだ。
「私のことは?かえない?」
黙り込む俺に言い聞かせるようにもう一度ゆっくりと女が言う。その「かう」は先ほどとは発音が違った。「飼う」ではなく「買う」。女は俺に「私のことは買えないのか」と訊いた。
抱かれていた猫がまるで液体かのように腕をすり抜け地面に着地する。ふさふさとした毛並みの細い脚で小走りすると、空き地に生い茂る雑草の向こう側に消えた。猫の姿は見えなくなったのに、女の姿は俺の目の前から消えない。表情はまるで魂を根っこから引き抜かれたかのように暗かった。
今までの経験上、自分から体を売ろうとする女はここまで暗くない。そして訊いてもいないのに「二万でどうですか」だとか「ゴムなしで良いですよ」だとか金額や内容について話し出す場合がほとんどだ。
「こないなとこで立ちんぼかいな……。もっと駅に近い方がええんちゃうか」
からかいの意味を込めて言う。覗き込んでやろうと身を屈めながら顔を近付けると、女は体を大きく震わせた。目が合った瞬間ひるんだ様に表情を歪ませ一歩だけ後ろに下がる。
「なんやお前……、びびりすぎやろ」
チッと大きく舌打ちをすると女はもう一度ひるむ。そっちからけしかけておいて何故こんなに怯えられなければならないのか。なんだかいら立って来て、思わず女の腕を掴んだ。簡単に折れてしまいそうなくらいに頼りない腕を引き、その場から歩き出す。
「おら、さっさと歩けや。買うて欲しいんやろ?俺に」
女は躓きそうになりながらも俺についてきた。ちらりと後ろを振り返って顔を確認すると、戸惑ったような表情が段々と険しいものに変わっていく。もう逃げられないとでも思ったのかもしれない。人の気配がない暗い道に、俺の大きな足音と女の小さな足音が交互に響く。
名前を尋ねると、女は小さな声で「」と口にした。苗字は言わなかったが別に気にならなかったし知りたくもなかったので訊かなかった。本来であれば人に名前を訊く時は自分から名乗るのが礼儀だろうが、一応は消された存在である俺は名乗れない。も訊かなかったので別にどうでもいいんだろう。これから自分を買う男の名前なんぞ、どうでも。
今の根城であるアパートに到着すると、迷いなく玄関ドアの鍵を開けた。放るように靴を脱ぎながらの腕を引き部屋の奥へと進む。中は真っ暗だったが電気を点けるのが面倒に感じた。敷きっぱなしの薄くて固い布団の上にの体を投げるように押し倒す。いつだって湿っぽい布団が珍しく埃を吐き出した。
「あの、ちょっと待って、先にシャワーを、」
「じゃかあしい、黙っとれ」
の上に馬乗りになりながらダウンジャケットを脱いで適当な場所へ放る。暗闇の中でも分かるくらいに白い腕を取って布団に押さえつけると、首筋に向かって顔を埋めた。香水かシャンプーか分からない甘い匂いと、女の汗の匂いがまざりあって鼻をくすぐってくる。
「やめて……」
まるで、古臭い冷蔵庫が中の食材を一生懸命に冷やしている時の稼働音かのように、耳を澄ましていないと聞こえないくらいの僅かな声が耳に響く。首に埋めていた顔を持ち上げると、目の前のはまぶたを細かく震わせて今にも泣きそうな顔をしていた。
「ほれ、やっぱあかんやないか」
天井からぶら下っている電灯のスイッチに腕を伸ばして引っ張ると、部屋が明るい光で照らされた。真下に居るは涙目で俺を見上げながら下口唇を噛み締めていた。俺に捕まれたままの細い腕がひたすらに震えている。
「たいした覚悟も出来てへん奴が一丁前に『私を買え』とようぬかせたな。びびって震えとる女なんか抱いてもなんもおもろないやろ。自分から脚なり舌なり絡めて来るような女の方がええんじゃドアホ」
の腕を布団の上へ投げつけるようにして放った。今にも涙をこぼしそうだった瞳がだんだんと丸くなり、不思議そうに俺を見つめる。
「お前みたいな女に払う金なんぞあらへん。さっさと帰れや」
フンと鼻で大きく息を吐き、布団に寝ころんだままのに背を向けた。目線の先にはコンビニで買った物が入っている白いビニール袋がある。ここへ着くなり床に置いたのだったということを思い出した。袋に手を突っ込み缶ビールを取り出す。すっかりぬるくなっていた。
背後で布が擦れる音がした。はバタバタと大きな音を立てながら、何も言わずに部屋から出て行った。背を向けていたためどんな顔をしていたかも分からないが、きっと俺の様子を確認することすらしなかっただろう。玄関のドアがバタン!と力強く閉まる。
「はあーあ、クソッたれが」
自分一人になった部屋に大きな溜息と独り言が響く。ビールを開けて一口飲んだが予想通りぬるくて不味かった。が寝転がっていた場所になんとなく目をやる。人物の形をくっきりと残すように布団がへこみ、乱れている。
あんな風に女に迫ったのはいつぶりだろうか、となんとなく考える。女独特の甘さに汗と体臭が混じった生々しくいやらしい匂い。手のひら、指先、舌の上に覚えのある感覚が広がって、自分のものにグ、と力が込められたのが分かった。ビールをもう一口飲む。やはりぬるくて不味かった。