心にぬるい雨が降る - 2
いつの間にか朝が来ている。昨日はぬるくなったビールを飲んでから自分の手で一発抜いた。あのとか言う女の匂いを嗅いでからどうにも性欲がおさまらなかった。そこから先の記憶は一切ない。どうやら知らないうちに眠ってしまったらしい。
ぼんやりする頭でゆっくりと立ち上がって、便所に行ってから風呂に入った。それから水を飲んでとりあえず冷蔵庫を開けてみる。酒類しか入っていないと分かっていても中を確認する癖はやめられない。適当な服を着て、濡れた髪をタオルで拭きながら先ほどまで横になっていた布団の上へ腰を下ろす。その時、尻の下に妙な違和感があった。
「あ?」
思わず変な声が出る。よく見ると布団の上に何か小さい物が落ちていた。窓から入る朝(というよりもはや昼)の光を反射してキラキラと輝いている。指の先でつまんで持ち上げるとキラキラが増して眩しい。
女物のアクセサリーの部品、のように見えた。大きさの違ういくつかの石が団子のように繋がっている。上部には留め金のような出っ張りがあり、きっとピアスかなにかだと思った。ピアスの穴に通す部分と飾りの部分とが離れ、壊れてしまったのかもしれない。アクセサリーの構造なんか知りっこないがたぶんそんな所だ。
これはの忘れ物だと直感する。うちには他の女うんぬんの前に自分以外の他人を上げたことはない。昨夜のあいつはこんなものを着けていただろうかと思うも、気が付かなかっただけかもしれない。
あの女が忘れ物を取りに来ることはないだろうと思った。合意の上とは言え半ば自分を犯そうとしていた男などもう顔も見たくないはず。その上言うなればこれは『ピアスだったもの』だ。もうすでに壊れてしまったも同然の部品をわざわざ取りになんか来ない。余程高価なものでなければ。
その時、部屋のインターホンが大きく鳴いた。妙な予感がした。少なくとも良い予感ではなかった。手に持っていたピアスの部品をちゃぶ台の上に置き、なんとなく足音を殺してゆっくりと玄関ドアに近付いた。覗き穴から外を確認すると、昨日見たばかりの女が立っているのが見える。だった。
「ごめんくださーい。えっと……、あれ?」
はドアを軽くノックしながら、上部にある表札を見上げているようだった。名前は書かれていない。大道寺が管理する住居だから当然と言えば当然だ。は俺の名前を口に出して呼びかけようとしていたんだろう。それが出来ずに戸惑っている様子が覗き穴から見えた。きっとはピアスの部品を取りに来た。どうみても安物にしか見えないあれは、わざわざ取りに戻るほどに高価な物なのか。
インターホンの音が何度も何度も何度も何度も響き渡る。観念して玄関のドアを開けた。目的など分かっている。それでもわざとらしく、なんやねんとでも言ってやろうかと口を開いて息を吸った。お互い顔を見合ったのとほとんど同時にが深々と頭を下げたので、思わず声を飲み込む。
「すみません。あの、私、昨日ここに忘れ物しちゃったみたいで。ピアスなんだけど……」
ハァとでかい溜息をもらしてから「ちょお待っとれ」と一言断りをいれて玄関のドアを閉めた。部屋の奥に戻り、ちゃぶ台の上に置いていたピアスの部品を手に取る。やはり何回見ても高価な物には見えない。
まぁええわ、と思わず口からこぼしそうになりながらも、俺は振り返って玄関ドアの方向を見た。外で待っているにこれを渡せばさっさと帰るだろう。一歩踏み出しドアに近付いた時、驚きから思わず脚を止めた。外で待っているはずのがいつの間にか部屋の中に居たからだった。
「おま……、なに勝手に入っとんねん」
ずかずかと大股で近付くと、は慌てた様子で目を泳がせた。俺はチッと軽く舌打ちをした後、右の拳を目の前に差し出した。手の中にはの忘れ物が入っている。
「ほれ。これ持ってさっさと帰れや」
はまるで水でもすくうかのように両方の手を差し出した。そこにピアスの部品を置いてやると、宝物でも眺める子供かのような目でまじまじと手のひらの中を凝視している。小さな手だった。自分の手と比べると一回り二回り、下手すれば三回りくらいは小さい。親指ですら俺の小指よりもずっと細く見えた。
「あ、あの、昨日は、本当にごめんなさい」
幽霊のような白い手に視線を奪われていると、が唐突に頭を下げた。昨日のことはまだしっかりと記憶にある。しかし謝られる覚えはなかったため、が何を言いたいのかが分からなかった。思わず「あ?」と低く唸るような声が出た。
「昨日、自分からお兄さんのこと誘っといて途中で怖くなって拒否るとか、ほんと、浅い考えだったなって、お兄さんに言われて目が覚めたっていうか……、ほんと、その気にさせといて、申し訳ないことしたっていうか……、その、ごめんなさい……」
自分でも何を言うべきなのかがまとまっていないのか、の言葉はあちこちにとっ散らかる。言いたいことはなんとなく分かる。でもわざわざ謝るようなことでもないと感じた俺は、特に何も言わなかった。
「とりあえず、お兄さんに謝らないとって思って。あと何かお礼したいなって」
無反応の俺に焦ったのか、は腕に引っ掛けていた白いビニール袋を差し出した。店のロゴなどが書かれていないまっさらなそれはコンビニの袋とは少し違って見える。受け取り中を確認するとパック寿司が入っていた。稲荷ずしや海苔巻きしか入っていないタイプのパック寿司ではない。まぐろ、サーモン、いか、いくらなどが入っている、正真正銘の寿司。
「なんや……、お前、気ぃ利くやないか」
思わず口角が上がり、の目を見てゆっくり呟く。薄暗い玄関でも問題がないくらいにつやつやと光を反射している魚たちの姿に、腹の虫がぐぅ、と鳴いた。
袋の中には同じ内容のパック寿司が二つ入っていた。この女はちゃっかり自分の分まで買ってきたということだろう。抜け目のなさに呆れつつも、全ての寿司を独占して、ほなお前はさっさと帰れやと言えるほど俺は悪い人間じゃない。
ちゃぶ台に寿司を置き、向かい合って座る。うちには酒以外の飲み物がなかったが、は寿司のみならずペットボトルのお茶までも買って持ってきていた。もちろん二人分。この女は気が利くようだし顔もそれなりに整っている。せめて幽霊のようなほの暗い雰囲気さえなければ男が放っておかないだろうに、と勿体なさを感じてしまう。
「お兄さん、いつも出来合いの物ばかり食べてるの?」
一つ目の獲物、マグロを箸で掴んで一口で一気に食べた瞬間、に尋ねられた。俺は口をもごもごと動かし、マグロをこれでもかと噛み砕きながら「出来合い?」と訊き返す。
「コンビニのお弁当とか、スーパーのお惣菜とか、そういうやつ。自炊してないの?ってこと」
自炊なんかするわけないやろ、と口に出そうとしてやめた。言わなくとも伝わったような気がしたからだ。は寿司を食べながらきょろきょろと辺りを見回す。「あんま見んなや」と注意してもやめそうになかった。マグロの次はサーモンを口に運ぶ。
「せめて彼女とか奥さんとか居れば違いそうだけど、お兄さん、そういうの居なさそうだね」
「なんやお前、喧嘩売っとるんか」
「ち、違うよ。ただ、出来合いの物ばっかだと体壊しそうだなって心配しただけ」
は否定の気持ちを強調したいのか、箸を持っている右手とは反対の左手を大きく振る。どうせ俺が凄んだから焦っているだけであって、心配なんてこれっぽっちもしていないということは丸わかりだった。
「お前、さっき俺にお礼したい言うたやろ。ほんなら俺にメシ作れ」
空気が一瞬凍ったかのように思えた。目の前にいるの動きが止まったからだ。寿司を掴もうとする箸も、次にどれを食べようかと目移りしていた瞳も、全てが止まる。
「え……、いや、だから……、お礼にと思ってお寿司、買ってきたんだけど……」
「これは礼やなくて詫びやろ。ええからメシ作れ。俺もたまには人が作ったメシが食いたいんや。味噌汁とか生姜焼きとかサバの煮つけとか肉じゃがとか、そんくらいは作れるやろ」
と目が合う。ちゃぶ台の上にある魚たちに負けないくらいにつやつやとして妙になまめかしい口唇がゆっくりと動き「料理のチョイス渋……」と小さな声を吐き出した。
俺はただこの女を困らせてやりたかった。忘れ物を取りに戻ったことを後悔させてやりたかった。パック寿司を二つも買ってきたことを後悔させてやりたかった。俺に向かって「私を買ってくれる?」とぬかしたことを後悔させてやりたかった。大道寺には他人とあまり関わらないようにと念を押されている。しばらくしたらきっとのことも嗅ぎつけて忠告してくるだろう。『大道寺の人間が一般の女と関係を持つな』と。想像しただけで反吐が出る。
に目をやる。イクラの軍艦巻きを美味そうに食べていた。うっとりとした表情はあまりにも呑気だ。目を細めながら口を動かす様子には、この世に存在する汚物の全てをまるで知らないというような純粋さを感じた。それはさっきまで俺の布団に転がっていたピアスの部品のように、あまりにも眩しい。
俺はイカに箸を伸ばし、一口で食らいつく。弾力のあるそれは、先程のマグロやサーモンのように口のなかで上手く噛み砕かれてはくれなかった。
「女性を連れ込んでいますね?我ら大道寺が提供した居住に」
俺は知っている。今の言い方は『トーチホウ』というやつだ。違和感があるほどに小綺麗な見た目をした管理者の女は、明らかに冷たい目線をこちらに向けた。きっとこいつは『めちゃくちゃ美人なのに話しかけんなオーラが出すぎてて無理』と言われるようなタイプだ。
大道寺が用意した俺の根城は駅の北口方向にあるが、この街にある支部は駅の南口方向にある。急な呼び出しで来てみれば、案の定に関してのお説教のようだった。いま目の前に居る管理者の女は俺たちのように体を張るエージェントではなく、データ管理などが主の内勤エージェントなのだろう。作られたような綺麗さを貼り付けた顔を眺めていると、女は呆れたようにハァと溜息をつき、手元にあるノートパソコンをいじくりだした。
「彼女のことはこちらで調べさせて頂きました。さん。東京生まれ東京育ちの都会っ子です。それなりに裕福な家庭で育ったようですね」
訊いてもいないというのに女は勝手に喋り出した。こいつは自分のやることなすことを全て正しいと信じて疑わない性格のようだ。そして同時にの『東京生まれ東京育ち』という情報がひっかかる。都会っ子がどうしてこんな地方都市に居るのか不思議に思った。
「さんが十五歳の時、ご家族全員で乗っていた航空機が大きな事故に合われてます。乗客五二〇名のうち、生存者は八名。そのうちの一名がさんです。さんのご両親、ごきょうだいは全員お亡くなりになってます」
十五歳という単語が耳につく。俺は十五歳の頃に親に捨てられ、殴り合い殺し合いの毎日を強制された。も俺とまったく同じ年の頃に独りになったのか。偶然とは言え、考えると胸がざわついた。
「その後はあまりよい生活を送られていません。ご親戚の家に引き取られたものの厄介者扱いを受けていたようで、ほとんどがネグレクト状態だったようです。なんでお前だけ生き残ったんだとか、お前みたいな死神がうちにいたら全員が不幸になるだとか、そんなことを言われ続けて、居場所がなかったんでしょう。十八歳の時にご親戚の家を飛び出しています」
ネグレクトという単語の意味がなんだったか思い出せない。しかし良い意味ではないということだけは分かる。大人なんぞそんなもんやわ。声に出さずに心の中だけで独り言を呟く。の親戚とやらはたいして愛着もない小娘を育てるのが面倒だったんだろう。さっさと出て行って欲しいとでも考えていたのかもしれない。
「それからあちこちの都市を転々として、今の今までその日暮らし……。この街に辿り着いたのも最近のようです。しかしこのご時世、安定した仕事を探すのに苦労してらっしゃるんでしょう」
俺が無反応なことを気にする様子もなく、女はべらべらと喋り続けた。気の強そうな高めの声が癪に障る。無意識に顔を歪めそうになった時、女がノートパソコンの画面ではなく、俺の顔をジッと見ていることに気が付いた。
「さんを傍に置いておくことは、あなたが名前と素性を明かさない限りは問題はないだろうと上は判断しています。さんには身寄りもなければ親しい友人も居ないようですし、万が一のことがあったとしても彼女を捜索したりする存在はないだろうと……」
「万が一?」
思わず割って入る。『万が一』とはどういう意味なのか。女は話を遮られたことが不満なのか、眉間に小さく皺を寄せ頬をひきつらせた。不機嫌そうな表情をしても妙な小綺麗さはなくならない。
「そんなこと言わなくとも分かるでしょう?どうかお気を付けください。彼女が消えるようなことがあるとしたら十中八九、あなたに責任があると思って頂いて結構ですので」
女は嫌味っぽく言葉を吐きだすと、乱暴にノートパソコンを閉じる。コンクリ張りの殺風景な部屋に乾いた音が響き渡った。話は終わりというアピールなのだろう。冷たい目線と不機嫌そうな表情は俺の顔を見つめ続けている。
「ハッ……、んなもん知らんわ。あんな女どうなろうと、知ったこっちゃない」
独り言のような呟きと同時に女が席を立つ。手には先ほどのノートパソコンを抱えていた。座っていた椅子を馬鹿丁寧に元の位置に戻すと、こちらに振り返ることもせずに部屋を出て行く。自分以外誰も居なくなった静かな部屋で、チッと小さく舌打ちをした。