心にぬるい雨が降る - 4
奇妙だった関係は更に奇妙になった。予想通りは例のキャバクラをクビになったらしく、名前も素性も分からない俺の部屋に転がり込んでくる形で一緒に住み始めた。勢いで言った『俺んとこ来い』が現実になってしまい、初めこそ面食らった。しかし今ではどうでも良くなった。
俺とは男女の関係ではない。はしょぼい寝袋を持参していて、同じ布団で寝たことは一度もなかった。お互いに薄着の姿を見ても何か言うわけでもなく、目で追うようなこともない。まるで男女関係を超えた先にある家族のようだった。
それでも男は女体を求める生き物だと思う。俺は男では女。風呂から上がったばかりの火照った肌はどうしてもそそる感じがあったし、投げ出された白い素足は眩しくてつい触れてみたいという気にもなる。その度に俺は、が初めてここへ来た時の首筋あたりの匂いを思い出した。女独特の甘さに汗と体臭が混じった生々しく卑猥な匂い。腹の奥のほうにある男の根っこの部分に力が入るような、そんな匂い。
俺がよこしまな目で見ていることをは知らない。愛だの恋だのそんな背筋が寒くなるようなロマンチックなものじゃない。生殖本能だの子孫を残すだのそんな大層な言葉がくっ付いているようなものでもない。これはただのどうしようもない性欲。尚且つ『情』なんかでは決してない。
「それ、何の動物?」
風呂に入るため服を脱いで半裸になった時、背中に視線が突き刺さってすぐに質問が飛んできた。振り返るとが、それこそ穴が空きそうなほどの熱い視線でジッとこちらを見つめている。上半身をメインに刻まれている彫り物は腕にまで及んでいるが、背中の唐獅子を本格的に見られたのは初めてだったかもしれない。
「唐獅子や」
「カラジシ……?」
は唐獅子にピンと来ていないようだった。分かりやすく伝わるように「ライオンや」と付け足すと、は「なるほど」と声を上げ手を軽く叩く。『カラジシ』という音の響きを聞いただけでは『獅子』という漢字が思い浮かばなかったらしい。
「そういえば、あの空き地にいた野良猫、覚えてる?」
急に話題を変えられ、思わず「あ?」と声がもれた。『あの空き地』というのは俺とが初めて会った空き地のことだろう。黄緑色の貧相な雑草があちこちに生えていてとても暗い雰囲気だった。そして『野良猫』というのは俺の脚にしがみ付いてズボンを傷だらけにしたにゃんころのことだ。
「あの子もライオンみたいだよね。茶色の毛がふさふさで、ライオンのタテガミみたいなの。私じつは、あの子に『ししまる』って名前付けてんだ。ライオンの獅子で、獅子丸。かわいいでしょ」
獅子丸。自分の名前に似たその響きに肌がぴりりと痛んだ。は呑気に目を細めながら「最近見ないんだよね」だとか「会いたいなぁ獅子丸に」などと呟いている。確かにあの野良猫はふさふさとした長く茶色い毛をまとっていて、まるで小さなライオンだった。が『獅子丸』と口にするたびに落ち着かない気分になる。
「野良に名前なんかつけるもんやない。情がわいて離れとうなくなるで」
獅子丸という呼び方をやめさせるように言う。情という物は厄介だ。これがあれば人は強くもなるし同時に弱くもなる。そもそもこのアパートはペット禁止のはずで、もし万が一が野良猫を連れ込んだとしても飼うことは出来ない。
俺の思惑通り、は野良猫の話題を口の中に仕舞い込むようにして黙る。フーンと鼻で大きく息を吐いた。表情は少し呆れているようにも見えた。
「だからお兄さんは、いつまで経っても私に名前、教えてくれないんだね。私がお兄さんに情を感じないように?」
予想外の言葉が飛んできて俺の左頬を殴る。何かしらの反論をしようと口を開いても言葉が出てこなかった。
「名前を教えられない事情があるってことは分かってる。だから、とりあえず教えたくなったらでいいんだけどさ。私はそれまで、待つし」
は一歩前に出てこちらに近付いた。向かい合っているため、俺の背中にある唐獅子は見えていない。細く白い指が伸びて来て、心臓の少し上の辺りにある牡丹の花に触れた。指先は冷たく固く荒れていて、生きている人間の物とは思えなかった。
「でも私は、名前なんかなくたって一緒に居れば情くらいわくものだと思ってるよ。少なくとも私は、お兄さんに情を感じてるから」
鈍く光る瞳が俺を見上げた。柔らかそうな口唇が目につく。思わず口にしそうになった。『誘っとるんか、俺を』と。
今すぐにでも腕を掴んで引き寄せて抱き締めたいと思った。手のひらに収まってしまいそうなほどに小さな顎を掴んで口唇を塞いでやりたいと思った。舌を挿し込んで息が出来なくなるほどに口の中を弄んでやりたいと思った。そうしたらは必死に俺の腕にしがみ付くだろう。そんな姿になったを見たい。俺の腕の中で骨抜きにされてぐったりした姿が見たい。頬を染めて色っぽく吐息をこぼす姿が見たい。この感情は俺の良く知る『性欲』とは質が違うように思えた。
「アホか……」
溜息半分で独り言のように呟き、の手を振り払って背中を向けた。背負っている唐獅子でを睨みつけるようにしながら脱衣所へ向かう。ドアを思い切り閉めると大きな音が響き渡った。
男は女体を求める生き物だ。しかし俺の中にはそんな常識でも説明できない何かがある。俺は女体を求めているんじゃない。を求めているんだと、たった今思い知った。
風呂から上がると部屋にの姿がなかった。濡れた髪をタオルで拭きながら辺りを見回してみるが、書置きのメモなども見当たらない。ついさっきの出来事を思い出してまた妙な気分になった。顔を合わせづらいとまで感じていたため、この状況はラッキーなのかもしれない。
きっとは晩飯の買い出しついでに、例の野良猫がいる空き地にでも遊びに行ったんだろう。空き地に遊びに行く、という今時の小学生にすら使わないようなフレーズに無意識に口角が上がる。
ビールでも飲もうかと冷蔵庫を開いた瞬間、どこからか低く唸るような音が響いて来た。耳馴染みのあるそれは着信を知らせるスマホのバイブで、音を頼りに視線を動かす。ちゃぶ台の上に置きっぱなしにしていた俺のスマホが震えていた。
どうせまた大道寺の誰かだろうと思いながらスマホを手に取り画面を覗き込む。そこには『』と大きな文字が表示されていた。そういえばにも番号を知らせてたな、と今更ながらに思い出す。一日のほとんどを一緒に過ごしていたため電話をするのは初めてだった。
「お兄さん、ちょっと来て。例の空き地。手伝って欲しいの」
通話ボタンに触れたのと同時にスマホの向こう側から声が聞こえ、そのまま切れた。思わず「あ?」と低く凄んでみるものの、いら立ちをぶつける相手はいない。
息をめいっぱいに吸って肺を膨らませたあと、これでもかという程に大きな溜息として外に吐き出す。持っていたタオルを力強く頭に擦り付け、出来るだけ濡れた髪の水分を取り除く。ぼさぼさになった頭のまま部屋を出た。
電話の向こう側のは少し焦っているような声に聞こえた。そもそも用件を伝えてこちらの反応も待たずに切られたので本当に焦っているんだろう。安売りされているおひとり様ひとつまでの卵を一緒に並んで買って欲しいだとか、特売をやっていて買いすぎたから荷物持ちをしてほしいとか、どうせその程度のことに違いない。そんなことを考えながらが指定した空き地までの道のりを歩く。距離はさほどでもない。
到着した空き地は以前と全く同じままだった。黄緑色の貧相な雑草があちこちに生えていて、まだ夕方だというのに夜のようにどんよりと暗い雰囲気が漂っている。まるでそこだけ雲がかかっているようだ。は空き地の中央ではなく端の辺りでしゃがみ込んでいた。生い茂る雑草がの小さな背中を半分ほど隠してしまっている。
「おい。なんやいきなり呼び付けてガチャ切りしおって」
だらだらと文句をこぼしつつに近付く。その瞬間、どこからか「シャー!」という大きな音が聞こえた。それは動物が敵に対して威嚇をするための声。しゃがみこんだの視線の先には猫がいる。ふさふさとした長く茶色い毛をまとっていて、まるで小さなライオンのようなそいつ。例の野良猫だった。
猫は真っ黒な瞳をぎょろつかせながらを睨みつけていた。背中の毛はまるで静電気でも起きているかのように毛羽だっており、尻尾は今までにないくらいに太い。よく見るとあちこちに傷のような物が見えた。
「子供が、三人くらいで寄ってたかっていじめてたの。すぐに止めたんだけど、間に合わなくていっぱい怪我しちゃって」
は両手を広げながらゆっくりと近付き、猫の体に触れようとする。しかし全身全霊でそれを拒否するように「フシャー!」という大きな唸り声が空き地に響く。
「怪我の手当てしたいんだけど、怯えちゃって言うこと聞いてくれなくて。お兄さんも捕まえるの手伝っ……」
「やめえや」
最後まで聞く気が起きず遮るように割って入る。は話を中断させられたことと俺の言い分に不満を持ったのか、「は?」と口にしながらその場に立ち上がり俺を睨んだ。眉間に皺を寄せて、どういうこと?という単語をこれでもかと顔に塗りたくったような表情をしている。
「そいつはもう誰も信じへん。人間なんかみぃんな同じや思うとる目や。手負いの獣ほど面倒臭くて厄介なもんはないで」
手負いの獣。そう呼ぶには野良猫はあまりにも小さかったが、体を大きく見せながら威嚇をする姿は正に獣だ。は納得がいっていないようだった。下口唇を噛み締め、何かを決意したかのような顔を浮かべたかと思うと、俺に背を向けた。そしてもう一度しゃがみこんで両手を広げると、今度は半ば無理矢理に猫に近付いていく。
「!」
猫の威嚇の唸り声よりも何倍も大きな声で名を呼んだ。は凍り付いたかのように動かなくなる。相変わらずに細く白い腕を掴んで、自分の方へ引き寄せた。
「やめえ言うとるやろ。帰るで」
無理矢理にの手を引いて歩き出しながら、俺は昔のことを思い出していた。昔と言ってもそんなに前の話じゃない。俺とが初めて会った時のことだ。記憶が確かならば、あの時もこうして俺がの腕を無理矢理に取って、引きずるようにして歩いたような気がする。
――私のことは?かえない?
今から自分の体を売ろうとしている女の表情は、まるで魂を根っこから引き抜かれたかのように暗かった。
振り返っての顔を見る。まだ納得がいっていないようで、口をへの字に曲げて不満であることをアピールしていた。俺には猫もいらん。女もいらん。傍に置いておくのはだけで充分だと、そう思った。