心にぬるい雨が降る - 5
口にして聞かせてやりたい気持ちはあるのに上手いこと言葉にならない。はそんな感じのいかにもな不満をアピールするように口角をひたすらに下げていた。うちに戻ってからしばらく経つと表情は変化し、不機嫌そうな仏頂面がしょぼくれた悲しそうな顔になった。夜になってもそれは変わらなかった。ただひたすらに部屋の隅っこで三角座りをしたまま動かず、小さな膝に自分の顎を乗せていた。
「おい。もう寝るで」
部屋の電気を消そうと天井から伸びる紐に手を掛ける。は何の反応も見せず、いつもの寝袋に潜り込む動作すらも見せなかった。返事くらいせぇやあほんだら。そう思ったが口には出さなかった。口に出して言ってしまえば、の表情が更に暗く悲しくなりそうな気がしたからだった。
「お兄さん」
紐を引っ張り電気が消える。部屋に暗闇がどんと落ちて来た瞬間、俺を呼ぶか細い声が聞こえた。アパートの外に立つ街灯の光が差し込んできて、の体の形だけがなんとなく分かる。三角座りをしていたがゆっくりとその場に立ち上がった。
「今日、一緒に寝てもいい?」
何も返せなかった。例えば『なにぬかしとんじゃ』だとか『さっさと寝ろや』だとか、いつもと何ら変わらない文句をすぐに口にすれば良かった。それが出来なかった。段々と目が慣れて来て、暗闇の中でもの表情がぼんやりと分かってくる。取って貼り付けたような無表情。
「……アホ抜かせ」
なんとなくの顔を見ていられなくなって、いつも通りの汚い言葉を吐きだしてから布団に潜り込んだ。むき出しになっている肌の部分に布団の冷たさが突き刺さる。はゆっくりとこちらに近付き、枕元に膝をついた。それこそ本当に幽霊のように。
「私さぁ……」
が話し出す。俺は無理矢理に目を閉じて眠ろうとした。
「親、いないんだ。きょうだいも。てか家族全員死んじゃった。だからずっと一人だった。十五歳の時から今までずーっと」
訊いてもいない身の上話が始まる。の情報は全て大道寺が調べ上げていたので当然ながら初めて聞く話じゃない。あの日、ノートパソコンを見ながら馬鹿丁寧に喋り続けていた管理者の女。もう顔の一部分すらも思い出せない。
「なんか今日の獅子丸を見てたら、色んなこと思い出しちゃったんだよね。死んだ家族のこととか、私を嫌ってた親戚の人たちのこととか。獅子丸に威嚇された時、やっぱり私はひとりぼっちがお似合いなんだなって、友達すらも作っちゃいけないんだなぁって思っちゃった」
――さんには身寄りもなければ親しい友人も居ないようですし
頭の中で管理者の女の声が蘇ってくる。にとってあの野良猫は友達だったらしい。動物が唯一の友達というのはどこぞの物語に出て来るお姫様のようだと感じた。俺の枕元に座り込んで自分の不幸な身の上話を、まるで幽霊のようにぽつりぽつりと話すがお姫様。そのあまりにも可笑しすぎる想像に笑ってしまいたくなる。
寝返りを打って、横になったままの顔を見上げる。変わらずに無表情だった。未だ冷え切ったままの布団から起き上がり、覗き込むようにしながら顔を近付けた。薄暗い部屋の中では距離感が掴めない。
「友達なら、俺がおるやないか」
何の面白味もない顔を変えてやりたくて言った。思惑通りは驚いたように目を丸くし、口をぽかんと間抜けに開けて俺の顔をまじまじと見る。
「お兄さんが、私の、友達?」
「なんや、不満なんか」
「名前も知らないのに?」
「名前がなくとも情はわくっちゅうたんはお前やろ」
胸を張るようにしながら言い、布団の上に胡坐をかく。するとの間抜けな表情が再び崩れた。一度ハ、と小さく息をこぼしたかと思うと、ふ、ふ、と小さく途切れるような笑い声が聞こえてきた。そういえばが声を上げて笑った姿を見たのはこれが初めてだったと気が付いた。
「私、お兄さんと友達なのは、嫌だなぁ」
独り言のようなぼやきに、思わず『なんでやねん』と口を挟みたくなってしまう。は一度自分の膝に視線を落とした。そして右へ、左へと眼球だけ動かす。何か言いにくいことを言おうとしているように見えた。
「お兄さんはさ……、私たちが初めて会った時のこと、覚えてる?」
覚えてるも何も、今の今まで何度も思い出している記憶だった。足元に絡みついてくる野良猫。『私を買えない?』と直談判してきた幽霊みたいな女。空き地からアパートまでの道のりに響き渡る二人分の足音。何も言わない俺にかまうことなくは続けて喋り出す。
「私、お金が欲しくて、お兄さんに体売ろうとしたでしょ?それで……、やっぱり直前で怖くなって逃げた」
「よう覚えとる。覚悟のないドアホでマヌケでクソッタレな女やなって思うたわ」
思いっ切りの悪口にもは言い返すこともせず、また同じようにふ、ふ、と小さく声を出して笑った。
「あのあと、ピアス忘れたって言ってここに来たでしょ?」
なよなよして頼りなかったの声に芯が通ってくる。布団の上にあったピアスの部品。外から入り込む太陽の光でキラキラと輝いて眩しかったそれ。今でも昨日のことのように思い出せる。
「ほんとはあんなピアスなんかどうでも良かったんだよね。そもそも壊れてたし安物だったし……、でも取りに来ちゃった。もう一度、お兄さんに会いたかったから」
の顔を見る。俺のことを真っすぐに見つめていた。弱々しい声でもなければ弱々しい笑い顔でもない。床に膝を擦るようにしながらゆっくりとこちらに近付いてくる。胡坐をかいている俺の太ももにの冷たい手が触れた。体重をかけるように力がこめられたのが分かる。
「私、今なら買われてもいいって思ってる、あなたに。買われてもいいっていうかお金もいらない。タダで良いから私のこと買ってよ」
口唇に柔らかいものが触れる。太ももにあった手が俺の胸元に伸びて来る。あの日と全く同じ、女独特の甘さに汗と体臭が混じった生々しくいやらしい匂いが鼻をくすぐる。
「私、お兄さんのこと好きみたい。だから『友達』じゃ、嫌だよ」
目はすっかり暗闇に慣れて、がどんな表情をしているのか良く分かった。からも俺がどんな顔をしているのか良く分かったと思う。どんな言葉をどんな風に返せばいいのか分からず、ただの頬に触れてから首に噛みついた。腹の奥のほうにある男の根っこの部分に力が入るような、そんな気がした。
心の中にぬるい雨が降る。女を抱いたあとの心境をそんな風に誰かが言っていた気がする。初めて聞いた時は思わず鼻をつまむ仕草をしたくなるほどにクサい台詞だと、じっとしていられず体を縮こませたくなるほどに酔っぱらった台詞だと思った。今ならなんとなく分かる。俺にとってはぬるい雨だ。砂が踊り土が溶けていく。湿度が上がり煙がたつ。俺の体中に小さな川が出来ていく。何もかもを洗い流すみたいに、ゆっくりと濡れていく。
重いまぶたを持ち上げる。ぼんやりする頭の中でいつの間にか朝が来たことだけが分かった。自分の体温により少しだけ温かくなった布団から上半身を持ち上げる。時刻を確認しようとどこかしらにあるだろうスマホを探すため視線を動かした時、の姿がないことに気が付いた。
「おい、」
布団に腰を下ろしたまま名前を呼ぶ。返事はない。溜息を吐き出しながらよっこらしょと重い体を持ち上げ辺りを見回した。台所、洗面所、風呂、便所。どこにもの姿はなかった。
は家の外に出る時にいつも行先を伝えない。俺が風呂に入ってる間に買い物に行ったり、俺がうとうとと昼寝をしている間に例の空き地に行って野良猫と遊んでいたりする。
「野良猫……?」
自分一人しかいない寒々しい部屋に独り言が響く。昨日クソガキにいじめられて怪我をしていた例の猫。人間への不信感を溜めに溜め込んだあいつはが差し伸べた手に爪と牙を向けて威嚇した。もしかしたらは諦めきれず、またあの猫を助けに行ったのではないか。
「はあーあ」
大きく息を吸ってすぐに吐き出す。ついでに自分の中にある良く分からないモヤモヤした気持ちを声に変えて外に出した。もうあの野良猫……、獅子丸は今までとは違う生き物になった。これから先は人の手を借りず、人の手に甘えず、人を信じずに生きて行くだろう。野良猫なんてものはそれなりにしぶといはずだ。
とりあえずのことを迎えに行って、もう一度説教でもしてやる必要があるかもしれない。適当な服を着て、玄関にあった適当な靴をつっかけ、部屋を出た。あまり天気は良くなく、雲の色はどんよりと暗い。
ほんの数分歩くと例の空き地に到着する。予想通りはそこに居た。は空き地の中央ではなく端の辺りで立ち尽くしている。そういえば昨日、電話で呼び出された時もほとんど同じ状況だった。どうせまた怯えて威嚇する猫を捕まえようと隅にでも追い込んだのだろう。
「おい、。なぁに勝手に出とんじゃ。せめて起こせや」
黄緑色の貧相な雑草を膝でかき分けながら近付く。は返事をすることも、こちらに振り返ることすらもしなかった。なんや無視かいな。そんな文句でも口にしようとの肩に触れて力を込めた瞬間だった。足元に何かが落ちている。猫だった。
「獅子丸、死んじゃった」
震えてもいない。涙が混じってもいない。ただのか細い声が耳に届く。地面に横たわる猫はまるで剥製かのように動かない。当たり前のように息もしていない。茶色くふさふさしたライオンのタテガミのような毛だけが、静かに風に揺れている。車にでも轢かれたのだろうということは体を見れば良く分かった。通行人の邪魔とでも思われたのか、誰かしらが道路からこの場所に移動させたのかもしれない。
「やっぱり私に関わるとみんな死ぬんだよね。昔からそう。お父さんもお母さんもみんな死んだ。獅子丸も死んだ。たぶん私、死神なんだと思う」
――ご親戚の家に引き取られたものの厄介者扱いを受けていたようで
――なんでお前だけ生き残ったんだとか、お前みたいな死神がうちにいたら全員が不幸になるだとか
――居場所がなかったんでしょう
頭の中に管理者の女の言葉が再生された。少しだけ低い位置にあるの顔を上から覗き込む。泣いてはいないようだったが、目が死んでいた。
「そのうちお兄さんも死ぬかも。でもそれだけは嫌だ。お兄さんには死んでほしくない。だから、」
「だからサヨナラしようってか?」
そこから先の言葉は簡単に予想出来た。遮るように割って入ると、は振り向いて俺の顔を見た。泣いてはいなかったが、泣きそうな顔ではあった。
「俺と一緒んなれや、」
何の考えもなく、ただ思ったことを率直に口にした。は俺の言葉が理解出来ないのか表情を変えない。空から何かが落ちてくる。雨だった。
「着るモンも食うモンも仕事も居場所も、全部俺がお前にくれたる。だから俺のもんになれ。大道寺のやつらは俺が黙らしたる。誰にも文句なんか言わせへんし、なんだったら全員ブチ殺したる。関わると死ぬやと?笑わすなドアホ。お前みたいなちっさくて細っこくてヘボい死神なんぞ、いくらでも飼いならしたるわ」
早口でまくしたてるように言う。大道寺の名前を出してしまったことも何もかもどうでも良かった。の両肩に手を置いて覗き込むように顔を見る。雨が一粒、二粒と落ちて来て、の額にかかる。俺の頬にかかる。冷たい。
「俺の名前は獅子堂や。獅子堂康生」
全てが変わってしまったあの日。俺は大道寺に取り込まれた。今まで自分を表していた獅子堂康生という名前を消され、全く違う名前で呼ばれた。獅子堂という、クソッタレな渡世の親に与えて貰った名前。あの日消された名前。本当に捨てることになったどうしようもない名前。
「お前を拾って助けてやる男の名前や。お前はこの先の人生、俺なしじゃ生きられんようになる。今後一生ついて回る名前を、よう覚えとくんやな」
はジッと俺だけを見ていた。ただ、泣きそうだった表情はいつの間にか消えていて、無表情な顔がそこにある。ぽつりぽつりと粒で落ちてくるだけだった雨も段々と線になり、の髪や服が濡れていく。
「黙っとらんと……、なんとか言えや、」
粒から線にはなったものの、雨はまだ弱い。は何かを噛み締めるように一度口を閉じてから、「獅子堂さん」と俺の名前を呼んだ。弱々しい雨よりもずっと弱々しい声だった。
「これからもそばにいて。これから一生、死ぬまで、ずっと」
の頬が濡れている。これは涙ではなく雨だ。小さな顔に手を伸ばし親指でごしごしと擦る。力が強すぎて痛かったのか、は不満そうに眉間に皺を寄せた。
「一生そばにいてとか、それこそプロポーズやないか」
細く頼りない肩に置いていた手に力を込めて引き寄せ、抱き締める。俺にとってはぬるい雨だ。砂が踊り土が溶けていく。湿度が上がり煙がたつ。俺の体中に小さな川が出来ていく。何もかもを洗い流すみたいにゆっくりと濡れていく。俺の腕の温度と雨の間での体は、甘いため息を吐き出したくなるほどにぬるくなっていた。