手紙に代えて -1

 母のことが心の底から死ぬほど大嫌いだった。『ヤクザの女』だった母は私が物心ついた頃から毎晩のように遊びまわり、湯水のように金を使っていた。片手では足りないほどの男と関係を持っていたため、私の父親はどこの誰かも分からない。自分の父親が誰であろうと最早どうでも良かった。私が母、田端唯の娘だということは紛れもない事実で、あの女と同じ血が流れている自分がどうしようもなく嫌いだった。

 私が二十代の後半に差し掛かった頃、母に認知症の疑いが出て来た。まだ五十代だった母には早すぎるだろうと思った。医師の話によれば『初老期認知症』と呼ばれるものらしく、そこまで珍しくもないのだという。

 娘である私の人生をないがしろにしてきた母は、自分が病気になって初めて私にすがった。そんな都合の良い話があるかと思った。母は男にたかって生きる女。父はどこの誰かもわからないがきっと裏社会の人間だろう。そんな私が今までどんな人生を送ってきたのか、母に分からないわけがない。私の人生は母にめちゃくちゃにされた。そんな私が一体どうして母を介護しようという気になれるというのか。

 私は母の手から逃れるため、住んでいた街を捨てた。日本のあちこちを転々としたが何処に行っても母に雇われた人間が私を追ってきた。もう日本に私の居場所はないのだなと思い、遂には海外へと逃れることにした。初めは台湾。次はフィリピン。まるで罪を犯した逃亡犯かのような生活を送り、最終的に行きついたのはハワイだった。

 ハワイを特別な場所だと認識している日本人は多いが、いざ住んでみればそれが甘い幻想なのだと思い知る。確かに海は美しいし食べ物は美味しい。しかし物価は高いしホームレスも多いし、犯罪率は日本に比べると格段に高い。平和ボケしている日本と比べること自体が間違っているような気もするが。

 様々な土地を転々としてきた私は、温暖な気候のハワイでのぼせ上がり油断をしていたのだと思う。たまたま行ったクラブで頭の悪そうな男に因縁をつけられ絡まれた。私が日本人だったせいもあるかもしれない。半ば無理矢理に店の裏に連れ込まれ、殴られ、身ぐるみを剝がされた。と言っても全裸にさせられたというわけではない。身分証も、パスポートも、決して少なくはない全財産も、全てが入った鞄を奪われた。

 口の中に広がる血の味を感じながら、これからどうするべきなのか考えた。壁に背を付けずるずると擦り付けるようにしながらその場にしゃがみこむ。常夏のハワイのはずなのにアスファルトの地面が妙に冷たかった。

「Hey, what's wrong?」

 どこからか英語を話す声が聞こえた。伏せていた顔を上げるとそこには白人男性がおり、まるでビー玉のように青く綺麗な瞳で私を見ていた。地面にへたり込む私と目線を合わせるようにしゃがみこみ、覗き込むようにしながら顔を近付けてくる。

「Are you okay?Let me help you...」

 男性はそう言って私の両方の肩にそれぞれ手を置く。その感触に私は直感した。この男は私を助けようとしているわけではないと。肩に置かれた手は肌を撫でるようにゆっくりと下へ降りて行き、私の二の腕を撫でた。そのままさりげなく服の中に入り込んでくる汚い手に、声を上げることも抵抗することも出来ない。

 いや違う。出来ないのではなく、する気が起きなかっただけだ。ろくでもない母の元で生きて来た二十数年間。その母から逃れ辿り着いた先で全てを奪われ、最終的には見知らぬ男の慰み者にされる。このまま首でも絞められ殺され、海にでも沈められるのが私にはお似合いの最期なのかもしれないと思った。

 何もかもを放棄して目を閉じた瞬間、温かいものが体にかかったような感触がした。相手の男の精液か何かだろうと思うも、私の体を弄っただけで射精するには随分と早いだろうと思う。閉じていた目を開いて自分の体を確認すると、ふりかかっていたのは精液などではなく血だった。

「え」

 思わず間抜けな声がもれる。よく見ると男は地面に突っ伏しており、頭から血を流して気を失っていた。この血は男の血だったのだと認識したその瞬間、暗闇から人の姿が現れる。ほとんど手入れなどされていないであろう黒く長い髪。常夏のハワイで分厚いスーツを身にまとい、肩にはコートのような物を羽織っている。目は虚ろで酷く不気味だった。手に持ったバールに血がついており、それで男を殴ったのだということが分かる。

「あーあー……、俺らのシマで好き勝手やっちゃうバカが居るなんてよぉ……。俺たちの名もまだまだ知られてねえんだなぁ……」

 長髪の男はけだるそうに独り言を呟いた。バールを大きく振るい、付着した血液を弾き飛ばしながらこちらを見下ろす。私にはその男が死神に見えた。黒く長い髪に黒いスーツ。手に持ったバールは死神の大鎌のように思える。

 私は日本で嫌と言う程に裏社会の人間を見てきた。そんな碌でもない脳味噌が告げている。いま目の前に居る死神のようなこの男は極道なのだと。今までに出会って来たどのヤクザとも違う、異様な雰囲気を醸し出していた。恐怖なのか驚きなのか何なのかも分からない感情が私を支配し、男から目がそらせなくなる。

 何も言わずに地面にへたり込んだままの私を不思議に思ったのか、男は私と目線を合わせるようにしゃがみこむ。顔を覗き込みながら、まるで何かを馬鹿にするかのようにフンと鼻で笑った。

「なんだぁ?アンタも俺を知らねえって?」

 その言葉通りに私は彼を知らなかった。もしかしたらハワイでは知る人ぞ知る有名人なのかもしれない。しかしハワイに来てまだ一週間も経っていない私に分かるはずがなかった。

 すると死神のような男の背後から人影が飛び出して来た。リーゼントのような髪型。細いフレームのサングラス。派手な柄のシャツ。その男はいかにもなコテコテのヤクザで、いま自分が居る場所が何処の国であるのか分からなくなるどころか、最早目の前の光景が夢なのではないかと錯覚しかける。

「こん人はわしらの親父!山井豊さんじゃけえ!よぉ覚えとけ!」

 サングラスの男は何故か自慢げに叫ぶと、ふんぞりかえるように胸を張り、鼻からフンと大きく息を吐いた。山井と呼ばれた死神のような男は「デケエ声で勝手に自己紹介すんじゃねえよバカ野郎」と言ってサングラスの男を制する。

 山井豊。その名が私の耳に入り脳へと到達した瞬間、何かしらの障害物に引っ掛かるかのような感覚を覚えた。私は山井豊という名を知っている。しかし一体いつ、どこで知ったのだろう。頭の中をかき回して記憶を探る。

 いつだったか、浴びるほど酒を飲んで酔っ払った母が自慢げに話していたのを聞いた。「アタシが若い頃、男がアタシを取り合って殺しまでしちゃったんだから」と。母は自分に惚れこんでいた組の若衆をそそのかし組長を殺させた。そして最終的に彼に暴行の容疑を被せて、自分は罪を逃れた。

 母からしてみれば自分がいかに男にちやほやされていたのかという話をしたかったのだろう。武勇伝を私に聞かせるような気持ちだったのかもしれない。酔いからさめた母は過去の告白を私にしたことを覚えていなかった。

 母に惚れ、そそのかされ、騙され、全ての罪を背負った男の名は山井豊。そしていま私の目の前に居る死神のような男も山井豊。私は山井豊の顔を知らないしただの同姓同名かもしれない。それでも私は何故か確信があった。目の前にいる彼こそが、その山井豊なのだと。

「あー……、クソ、寒ぃな……」

 肩を震わせながら独り言を呟いた彼の顔をまじまじと見る。こんなにも温かい気候だというのに寒いだなんて、何を言っているのだろうと思ってしまう。

 この人が私の母に騙されて殺しまでしてしまった馬鹿な男。当時から今まで約三十年近く、母を責めるわけでもなければ、はめられたのだと誰かに弁明することもなく逃げ隠れて生きて来たのだろう。虚ろで、不気味で、それでいて恐ろしい形相は、色恋に絆されて馬鹿なことをするような人にはとても思えなかった。

「へぇ……、随分と肝が据わってんだなぁ、アンタ」

 先ほど白人男性に襲われた際も声を上げなかったし、たったいま強面の男たちに囲まれて取り乱すこともない私を見て思ったのだろう。山井という男はいやらしい笑顔を浮かべながらそう言って、私の顎を掴んだ。まるで何かを品定めするかのような目をこちらに向ける。

 私は母に人生を壊された。母の子に生まれたその時点で壊れていたようなものだろう。同じように母に人生を壊されたこの山井豊という男に強い親近感を覚えた。碌でもない世界からさらに碌でもない世界へと私を連れ去ってくれる死神のようだ。そう思った。