手紙に代えて -2
あの後、私は山井一派とやらが所有する大きなビルに連れて行かれた。『ELDORADO』というネオン看板が眩しいその建物はどうやらキャバレーのようで、小さな劇場もあった。しかし中はほこりまみれで所々が崩れており、とてもお客さんを呼べるような状態ではないように見えた。
良く分からない医療器具が並ぶ部屋に通されると、長い髭の生えた白衣の老人に顔の傷を見られた。はじめこそお腹を切り開かれ内臓でも取られるのかと思い恐怖していたが、その老人は本当に顔の傷の手当てをしただけだった。
殴られて出血していた部分に絆創膏を貼られる。処置が終わったのとほぼ同時に、ノックも声掛けもなしに部屋の扉が開かれた。現れたのは死神のような男……、もとい山井さんで、白衣の老人とアイコンタクトを取った。老人は何かを察したのか黙って部屋を出て行き、私と山井さんの二人きりとなる。
山井さんは丸椅子に座ったままの私を睨むように見下ろした。彼の顔を見上げる。山井さんは若そうに見えるが、確か殺しをしたのは二十歳そこそこの年齢だったはず。そうなると現在は恐らく五十代くらいだと予想出来た。
革靴の大きな足が音を立ててこちらに近付いてくる。山井さんは私の顎を掴むと口元の傷を見た。親指で乱暴に傷をいじられ、少し痛む。
「お前、名前は?」
ふいに問い掛けられ心臓が跳ねる。フルネームを口にしても良かったはずなのに何故か躊躇してしまい、ただ一言「です」とだけ返した。山井さんは苗字を口にしなかった私を問い詰めるようなことはせず、そのまま質問を続けた。
「なんであそこに居た?」
「クラブで飲んでて、男に絡まれて、バッグごと全部盗られて、それで……」
自分の行動とされたことを口に出してみると情けなさが増して行く。声が小さくなっていくのが自分でも良く分かった。頭が重くなったような気がして俯くと、山井さんの大きなため息が聞こえた。
「どんな重症かと思えばやられたのは顔だけか。手当てが終わったんならさっさと出ていけ。ここはお前みてえなカタギが居ていい場所じゃねえ」
「え」
すぐに顔を上げて山井さんを確認したが、彼は扉に手を掛け部屋から出て行こうとしている所だった。立ち上がって大股で駆け寄り、山井さんが羽織っているコートの裾を掴んで引っ張る。
「私を、ここに置いて貰えませんか」
口から咄嗟に出た言葉は自分でも予想外だった。しまったと思い口を手で押さえるも時すでに遅し。山井さんはただでさえ深かった眉間の皺を更にこれでもかと深くし、「あぁ?」と低い声で唸るように言う。
恐らく彼にとって、その表情と声は私を威嚇し牽制するものだったのだろう。私を怖がらせてこれ以上近付くなとでも言いたいのだろう。しかし私には屁でもなかった。裏社会の人間など小さな頃から腐るほど見てきている。私からしてみればヤクザよりも虫や蛇のほうが余程怖いくらいだった。
「私、身分証もお金も盗られちゃって、何もありません。ここを放り出されたらきっとまた襲われて、捨てられて、野垂れ死ぬだけです。お願いします。ここに置いてくれたら私、なんでもしますから」
そう言って山井さんの腕に縋りつく。触れた腕周りは思いのほか細く、人相や顔色の悪さも相まって酷く不健康そうに思えた。山井さんは私の手を振り払うと扉を開けて部屋を出て行ってしまう。負けじと追いかけ再び縋りついた。
「待ってってば!山井さん、あなた、可哀想な子犬を拾って、もう飼えないからってまた同じ場所に捨てに行くような人なんですか?一度拾ったんならちゃんと最後まで責任持ってくれても良いでしょ?」
山井さんの動きがピタリと止まった。私と彼の二人しか居ない廊下に沈黙が流れる。その瞬間、私は何故こんなにも必死になっているのだろうと思いながら自分の頭が冷えていくのを感じた。
「可哀想な子犬を拾って……、だあ?」
呟きながらこちらに振り返った山井さんと目が合う。文字通りに私を見下すような目だった。口元は笑いが抑えきれないとでも言いたげに口角が上がり切っており、口唇から小さな歯がちらりと覗いている。
「お前、自分のことをか弱い子犬とでも思ってんのか?汚ねぇ野良犬がいいとこだろ」
何も返せなかった。確かに私はそこまでひ弱ではないし、山井さんたちのような強面の人間に取り囲まれて取り乱さない女が子犬のわけがない。きっと私はここを追い出されても、それこそ野良犬のように何とかして生きて行くだろう。それは自分でも分かっていた。
私は、彼、山井さんのことをもっと知りたいと思った。母に惚れこみ、騙され、殺しまでしてしまった馬鹿な男がどんな人間なのか知りたかった。私がこの世に生まれてから約三十年近く、山井さんがどんな人生を歩んできたのかが知りたかった。私が母に人生を壊され苦しんで生きて来たのと同じように、彼も母に人生を壊され苦しんで生きて来たのだろうと思う。私は彼の傷を見て、その傷を舐めたかった。自分と同じくらいに苦しい人生を送ってきた人をこの目で確かめて、自分は一人じゃなかったのだと安心したかった。
もしも私が田端唯の実の娘だと知ったら山井さんはどうするだろうか。私を殺すだろうか。死への恐怖は当然ながらあるが、山井さんに殺されるのならばそれも仕方のないことなのかもしれない。彼にはその権利があると思うからだ。
「おい、……」
低く唸るような声が私の名を呼ぶ。家族も親しい友人もいらないと他人を遠ざけてきたため、名を呼ばれるのは久しぶりのような気がした。
「『なんでもする』、って言ったその言葉、忘れんじゃねえぞ」
山井さんはそう言って私に笑いかけた。笑いかけたと言っても優しい笑顔ではない。不気味で邪悪に満ちたそれは、やはり死神にしか見えなかった。