手紙に代えて -3

 あの日の夜から私は山井一派が所有するビル、通称シアタービルに寝泊まりするようになった。山井一派の一員になったわけではない。しかし『なんでもする』と言った以上はタダ飯食らいになるわけにはいかないし、山井さんがそれを許しはしないだろう。

 ヤクザの支配下に置かれた女がやらされる『仕事』と言えば、例えば酒の席に付き合わされたり、風俗に送られたり、それこそ売春させられたり、美人局の小道具にされたりなどが思い付くだろうか。どんな命令をされても動揺してはいけないと思い覚悟を決めていたのだが、私に命じられたのはシアタービルの最上階にあるキャバレーの清掃だった。

 最初の仕事がまさかの雑用だとは、と面食らっていると、同じように雑用係として掃除をしていたサングラスの彼に「ここは親父の特等席じゃけえ、ちゃあんと綺麗にせんといかん!」だとか「これは親父がいっつも使おてるグラスじゃけえ、割りよったらブチ殺すど!」だとか、あれこれ口を出されて疲弊した。

 恐らくこれはジャブ。最初だけは楽な仕事を振って油断させる作戦に違いない。そう思って身構えていたが、翌日もその翌日もそのまた翌日も掃除、掃除、掃除ばかりだった。『ここに置いて欲しい』と直談判したのは私だし、精神が擦り切れるようなひどい仕事をやらされるより掃除の方がずっといい。しかし山井さんが何を考えているのかが分からず心は乱れる一方だった。

 今日もいつもと同じように、モップと水をはったバケツを用意して広いフロアの拭き掃除を始める。はっきり言ってしまえばこのキャバレーは客入りが少ない。そのため汚れなどはほとんどなく、自分のしていることに意味があるのだろうかと考えてしまう。

 濡れたモップをフロアに下ろすと、ばしゃり、という水を含んだ耳障りな音が聞こえる。斜め前方に力を込めてモップを押し進めようとしたその瞬間、どこからか視線を感じた。

 なんとなく顔を上げて見た先に居たのは山井さんだった。座り心地の悪そうな古臭いソファにふんぞりかえって座り、ただ一点を見つめている。見つめているのは私だった。山井さんは私と目を合わせるなり片方の口角だけをゆっくりと持ち上げてニヤリと笑う。

「え、キモ……」

「おーい……、聞こえてんだよ」

 思わずこぼした言葉に間髪入れず反論される。山井さんはソファから立ち上がり大股でこちらに近付くと、私の首根っこをつかんでその場から歩き出した。何が起こったのか分からずにいたが反射的に抵抗し、その場に留まろうと足を踏ん張る。しかし男の力に敵うはずもなく、そのままずるずると引きずられて行った。

「え、ちょっと、あの、放してください。まだ掃除の途中なんですけど」

 そう言って抗おうとするも、山井さんは何も言わずに歩き続けた。フロアを出て階段をくだり下の階に向かう。いくつかの部屋を通り過ぎて行くと奥まった所に大きな両扉があることに気が付く。山井さんは迷いなく扉を開き、私の体を部屋の中へ放り込んだ。

 急に手を放されたためバランスを崩しそうになるも、なんとか踏ん張って耐える。何処に連れてこられたのかと思い周囲を見渡すと、まず最初に大きなソファが目に入った。そして同じくらいに大きなテーブルと、その奥には一段上にあがったお座敷のような形で畳張りの床がある。ハワイに畳は珍しいなと思っていると、すぐ近くにあった質素な木製の棚に物騒な銃火器が山ほど並べられていることに気付き、思わず「うわ」という声がもれた。

「ここを綺麗に掃除しろ。ゴミクズひとつ残すんじゃねえぞ」

 山井さんはそう言って、先ほど私を見ていた時と同じような不気味な笑顔を見せる。他と比べて豪勢に見える部屋を見る限り、ここは山井さんの私室なのだろう。床には高級そうな絨毯がひかれていて、モップではなく掃除機が必要かもしれない。果たして山井一派は掃除機を所有しているのだろうかとぼんやり思った。

 とりあえずはホウキを持ってきて、畳張りの床を掃くことにした。白いレースのテーブルクロスが敷かれた小さなちゃぶ台の上には灰皿が置かれており、山井さんの物だろうかと考える。畳の上に煙草の灰のようなものも落ちていたため、山井さんが煙草を吸っている姿を想像した。

 私が掃除をしている間、山井さんはソファに座っていた。スマホを見るでもなく、居眠りをするでもなく、酒を飲むでもなく、ただ座って一点だけを見つめている。見つめている一点というのは勿論私だ。

「あのー……、いつまでそこにいらっしゃるんですか……?」

 恐る恐る尋ねた。山井さんは浅く座っていた上半身を起こして前のめりになると、まるで私をからかうかのように首を傾げて笑う。

「おいおい……。ここは俺の部屋だろ?俺の部屋に俺が居て何が悪りぃ?」

 確かにその通りだと感じ何の反論も出来なくなる。初めて会った時も思ったことだが、山井さんとまともな会話をしようとすると疲れる。『ああ言えばこう言う』とでも表現すれば良いのだろうか。

 山井さんを気にしないように努めながら仕方なく掃除を再開する。畳の上をホウキで掃いたあと水で濡らした布で拭き上げる。フローリングの部分はキャバレーのフロアと同じようにモップで水拭きし、あとは細かい部分をハタキで掃除するだけとなった。

 壁にいくつか貼られているポスターが目に入る。古い映画のポスターだろうか。タイトルも写っている役者も分からない。『極道たちの夜』や『仁義の帝國』など、タイトルから察するに極道ものの作品が多いようだ。山井さんの趣味かもしれない。いくつかあるポスターをぼんやりと眺めていると、その中に『MURDER OR BOOGIE』と大きく書かれた物に目がとまった。

「……あ!」

 思わず大きな声を出してしまう。山井さんはそれに驚きもせず、気だるそうな表情で私を見ていた。

「これってマダブギですよね?うわー、海外版のポスター初めて見ました」

 『MURDER OR BOOGIE』。邦題は『マーダー・オア・ブギー』。通称『マダブギ』は私がまだ学生だった頃に公開された映画だ。はじめはアメリカの小さな映画館でのみ公開するはずが口コミで人気が広がり、国内のみならず日本などの国外でも公開され高く評価された。私は映画館でこの作品を見ることは叶わなかったが、サブスクなどのサービスを利用して何回も見ている映画だった。

「山井さんもこの映画好きなんですか?クライマックスのシーン最高ですよね。恋人が主人公を止めに入って説得するシーン!見る度にめちゃくちゃ泣いちゃう」

「バカ野郎。最高なのはその後だ。狂った主人公が歌いながら最後の殺しをするシーンがあってこそ、恋人との関係性が際立つんだろ」

 期待する言葉が返ってこず、次に言おうとしていた言葉を飲み込んだ。この人とはまともな会話など出来ないのだということを思い出し、これ見よがしにハァと大きな溜息をつく。

 再び『MURDER OR BOOGIE』のポスターに目をやる。海外版ポスターは日本版に比べてシンプルでかつ、かっこよかった。右下に小さくONLY IN THEATERSと書いてあるため、かなり初期に使用されたポスターなのだろう。

「映画館で見たかったなぁ、これ。私ん家の近くの劇場では上映しなかったんですよね……」

 嘘だった。私がこの映画を見に行かなかったのは『近くの劇場では上映しなかった』せいではない。母のせいだった。まだ母の管理下にあった私はまともなお小遣いも貰えず、映画を見に行くどころか友達と遊ぶことすらも出来なかった。家にも学校にも外の世界にも居場所はなかった。

 背後に気配を感じる。振り返るとそこには山井さんが居て、いつの間にかソファから私の近くまで移動したようだった。私の背中越しに『MURDER OR BOOGIE』のポスターを眺めている。

 例えば、山井さんが殺しをしないまま母の傍に居続けたとしたらどうなっていただろう。『MURDER OR BOOGIE』のみならず、色々な映画を二人で見に行くこともあったのだろうか。母は何を思って山井さんをそそのかし、騙し、殺しまでさせたのだろう。この体には母と同じ血が流れているというのに、考えても考えても分からない。



 重く暗い思考を山井さんの声が引き裂く。振り返らず前だけを見たまま「はい」と返事をすると、背後から低い声が落ちて来た。

「お前、日本のどこに住んでた?」

 心臓が跳ねる。恐らく先ほどの『MURDER OR BOOGIEの上映が近くの劇場では行われなかった』という言葉から、私の住んでいた地域が何処だったのか疑問に思ったのだろう。

 私が住んでいたのは東京都新宿区の神室町。そこは極道が蔓延る街であり、山井さんが所属していた田端組があった場所だ。いまここで正直に答えたとしても私が田端唯の実の娘だということがばれる可能性は低いと思われる。しかし何故か口唇が重く、声が出しにくいと感じてしまった。

 黙り込む私を不審に思ったのか、山井さんは何も言わないままポスターが貼られている壁に手をついた。逃げ場がなくなり、背中に圧を感じる。

「私が住んでいたのは、新宿の、……神室町です」

 口にしてすぐ後に『新宿』までで止めておいても良かったのかもしれないと考えたが、もう既に遅かった。壁についていた山井さんの腕が離れていくのが見える。

「へぇー……。道理でヤクザにビビらねぇ女だなと思ってた。そういうことか」

 まるで突き放すかのような冷たい声だった。振り返って山井さんの顔を確認する。朝からずっと私を見ていたいやらしい笑顔は消え、ナイフのように鋭い視線が私の体を突き刺した。

「ここはハワイだ。日本の、神室町なんかとは何もかもが違う。せいぜい気をつけろよ、野良犬」

 それだけを吐き捨てるように言うと、山井さんは部屋を出て行った。両扉が閉まる際の大きな音が部屋に響き渡る。体の力が抜けてしまい、壁に背を付け寄りかかってからそのままずるずると擦り付けるかのように尻もちをついた。

 山井さんの冷たい目と鋭い視線。あれは何だったのだろう。まさか私が田端唯の血縁者だと気が付いたのだろうか。私と母はあまり似ていないし、過去に神室町に住んでいたというだけでそこまでばれてしまうとは考えにくい。私が生まれた頃には田端組は解体されていたため、関係者だと疑われる線も薄いだろう。

 もしかすると山井さんは神室町にトラウマを覚えているのかもしれない。もう忘れたいと思っている過去にいつまでも捕らわれ続けているのかもしれない。だとするならばやはり、私が田端唯の娘だと分かればここを追い出されることは明白だ。きっと彼は私の傷を舐めてくれはしない。

 私は山井さんに親近感を覚えているだけだ。同情する部分は多くあれど、それ以外の情などは存在しない。それなのに何故か、山井さんに素性がばれて先ほどよりもずっと冷たく鋭い目で心を貫かれるのだと想像しただけで、どうしてか胸が痛くてたまらなくなった。