手紙に代えて -5
あれから数回ほど例のキャバレーにヘルプとして出勤した。仕事終わりの私を山井さんが迎えに来てくれたのはあの日ただ一度きりだった。別に避けられているわけではないとは思うし、私自身も避けているわけではない。しかし少なからず顔を合わせづらいとは思っていたため、むしろ丁度良かったのではないかと自分を納得させていた。
自分に似合うドレスを選ぶようにと山井さんに言われていたため、私はネットを使っていくつかのお店を見てみた。どのモデルさんもスタイルが良く、美しいドレスを着こなしている。まるでウエディングドレスかのようにレースをあしらったドレスや、肌を見せるためなのだろう各所に穴が開いたセクシーなドレスなど、様々なものがあった。
しかしそのどれもが自分に似合うとは思えない。画面の中には見切れないほどの沢山のドレスがあるというのに、自分が着こなせるような物があるとは思えなかった。私には山井さんが選んでくれたあの赤いドレスがある。それで良いのかもしれない。山井さんの心の片隅にはまだ母がおり、そのせいであの赤いドレスを選んでいたとしてもだ。私はそれで納得するべきなのだと思う。
しばらくすると体調を回復させたキャストたちは次々とキャバレーに復帰し、店は今まで通りに回るようになった。結局私は数回のヘルプ出勤を行っただけでお役御免となった。
キャバレーが今までと同じような状態に戻ると、私も同じように今まで通りの生活に戻った。やることと言えば生活用品を買いに走ったり、フロアのモップがけをしたり、山井さんの靴を磨いたりなどだ。基本的には相変わらず掃除ばかりで、山井さんが不在の際に部屋に入って片づけをすることもあった。
無駄に広い山井さんの部屋に入って掃除を始めるたびに、あの夜のことを思い出した。背中に触れた硬い指先の感触や、手のひらの冷たさや、私を見つめていた目。あの時の山井さんは一体何を考えていたのだろう。
山井さんの部屋に飾られている『MURDER OR BOOGIE』のポスターに視線を吸われる。自然と脚が止まり、ポスターをジッと見つめた。この映画はもう既に何回も見ている作品ではあるが、最後に見たのは一体いつだっただろうかと考える。
たとえばこれがブルーレイやサブスクなどではなく、映画館の大きなスクリーンで見ることが出来たらどんなに良いだろう。劇場の柔らかな椅子に腰をおろして、ポップコーンや飲み物を片手に大きな光と大きな音で映画を楽しむ。自分の隣の席には……、と、そこまで考えて思考が止まった。
今までの人生で恋をしてこなかったわけじゃない。しかし、好きになった人に近付いても私の素性や家族のことを知られると誰もが離れて行った。逆に私に近付いてくる男はほとんどが裏社会と繋がりがあるような碌でもない奴らばかりだった。
たった一度でいい。一度でいいから、好きな人と隣同士に座って映画を見てみたい。見終わった後はあのシーンが最高だっただの、いやあっちのシーンのほうが良かっただの、くだらないことを言い合ったりしたい。『MURDER OR BOOGIE』の良さについて語り合った私と山井さんのように。
「……え?」
無意識に声が出た。たったいま自分が何を考えていたのか分からなくなる。私は『好きな人』を想像するのと同時に山井さんのことを考えた。自分の口元を手で覆うと、肌に触れた部分にこれでもかという程の熱が伝わってくる。
もしかしたら私は山井さんのことが好きなのかもしれない。初めこそ私は、自分と同じように母に人生を壊された彼に親近感を覚えていた。自分と同じ傷を持っているであろう山井さんを見て、自分は一人じゃなかったんだと思いたかった。この想いが恋に変わってしまったとでも言うのだろうか。
きっと山井さんは私の母を恨み、憎んでいる。彼をそそのかし、騙し、殺しまでさせて逃げおおせた女の実の娘である私が山井さんに恋をするなんてそんな滑稽なことがあるだろうかと思う。私こそがこの世の誰よりも彼に恋をする資格なんてありはしないのに。
大きく息を吸い、吐き出す。それを何度も繰り返し火照った顔とざわつく心を落ち着かせようとした。これ以上ここに居るべきではないと思い『MURDER OR BOOGIE』のポスターを横目に山井さんの部屋を出た。
掃除用具を適当な場所に置き去りにすると、階段をおりて下の階へと向かう。シアタービルの階下には以前までは使用されていたのだろう劇場が併設されていた。壁はひび割れて崩れかけているし、扉は建付けが悪くほとんど壊れている。いくつかある劇場のうちの一つに入ると、中は外より何倍も埃っぽく思えた。何度か咳をしながら中ほどまで進み、舞台を正面から見る。
舞台には大きく美しい絵が飾られていた。顔の描かれた月と太陽が額を触れ合わせ、まるで恋人同士かのようにお互いを慈しむ表情を浮かべている。周囲には星の形をした飾りが施され、ネイビーの幕のお陰でまるで夜空のように見えた。
客席横の階段を降り、なんとなく真ん中あたりの座席に腰を下ろす。このビルはボロボロに壊れていて一見は廃墟かと思ってしまうほどだ。階下にこんなにも美しい劇場があるとは知らなかったため、感動にも似た溜息が口からこぼれる。外に出てハワイの海や夜の街を楽しむのも良いが、照明の光で照らされたまるで夜空のようなこの劇場で十分なのではないかと思ってしまう。
背後から扉の開く音が聞こえた。同時に人の気配を感じて振り返ると、山井さんがこちらにゆっくりと近付いて来ていた。久しぶりに二人きりで顔を合わせるという状況に心臓が少しずつ早くなっていくのが分かる。何と声を掛ければ良いか分からずに黙っていると、山井さんはゆっくりと私の隣に腰を下ろした。
「どこに居るかと思えば……。こんな所で油売ってねえで働け」
その口ぶりから察するに山井さんは私を探していたのだろうかと感じた。金もなければ仕事もない私がここから逃げ出す理由などないというのに。なんとなく笑いがこみ上げ弱く息を吐くと、山井さんはそれを不快に思ったのかこちらを睨むように見た。その鋭い視線すらも今の私には怖いと思えなかった。
「すごく綺麗な劇場ですね。こういうロマンチックな所で、好きな人と好きな映画とか見れたら最高なんだけどなぁ」
後半はほとんどが独り言だった。一度でいいから好きな人と隣同士に座って映画を見てみたい。それは私の夢だった。見終わった後はあのシーンが最高だっただの、いやあっちのシーンのほうが良かっただの、くだらないことを言い合ったりしたい。『MURDER OR BOOGIE』の良さについて語り合った私と山井さんのように。
隣に居る山井さんに目をやる。私の視線に気付いた山井さんは気だるそうな表情をこちらに向けた。何見てんだよとでも言いたげに見えた。
「いま私の隣に居るのが、もっとこう……、王子様みたいな人だったら良かったのになぁ……」
意地悪なことを口にしてみる。山井さんは呆れたように目を横から上に動かしてアイローリングをして見せた。そしてすぐに目を細めながら表情を歪ませたため、予想通りの反応に妙な嬉しさがこみ上げる。
「へぇー……、そりゃ悪かったなぁ。王子様みたいじゃなくてよ」
王子様みたいな人が良いなんて嘘に決まっている。王子様みたいな人よりも山井さんが良かった。私の隣に居てくれるのは山井さんでなければ嫌だった。しかしそれを口にするべきではないということも分かっている。口にせずとも、ただ隣に彼が居てくれるだけで私には十分だった。胸のあたりがぽかぽかと温かくなるような感覚がする。私とは反対に山井さんの体は冷え切ったままで、同じように温かな気持ちにはなってくれないんだろう。
なんとなくまぶたが重く感じる。ここ最近はほとんど昼夜逆転の生活を送っている一派の人たちに合わせていたため、慢性的な睡眠不足だった。目を開けているのがつらくなり、何度も瞬きを繰り返してしまう。
視界がぼんやりとしてきて、何かに寄りかかるように顔を伏せた。ああこれはなんだろうと考えるも頭が上手く働かない。覚えのあるにおい。灰色のコートの感触。ああこれは多分、山井さんの肩だ。
「王子様、みたいな人がいい、なんて、嘘、ですよ」
じわじわと睡魔が迫ってくる中で、自分でも良く分からない言葉を口にした。額を山井さんの肩に擦りつける。いま居る場所は現実の世界なのか、それとも夢の中なのか、それすらも分からない。ただ隣に居る彼の肩の感触と気配だけが確かなことだった。
「私、あなたが好きです、山井さん」
なんとか形を保っていた何かがふわふわと崩れて形をなくしていく。まるでどこか深い所へ落ちて行くかのように、私は意識を手放した。あたたかく、幸せな気分でいっぱいだった。母の子として産まれてからの三十年近く、こんな風に眠れたのは初めてではないだろうかとすら思う。
夢の中で私は誰かと映画を見た。大好きな『MURDER OR BOOGIE』だ。一番見やすい真ん中の席を陣取って、大きなスクリーンに釘付けになる。上映後、私が「恋人が主人公を止めに入って説得するシーンが最高でしたね」と言うと、相手が「狂った主人公が歌いながら最後の殺しをするシーンのほうが最高だろ」と反論する。ああでもないこうでもないと議論するも、最終的に「MURDER OR BOOGIEは最高」という結論に落ち着いてお互いに顔を見合わせて笑う。
私は赤いドレスを着て、相手は真っ黒なジャケットを着ていた。顔は良く見えなかった。山井さんだったらいいのにと思う。私の隣に居るのも、私と一緒に映画を見てくれるのも、山井さんであればいいのにと心の底から思った。
もしかしたら私は山井さんのことが好きなのかもしれないと考えたが、それは違う。『かもしれない』ではなく、私は山井さんのことが好きだ。この世に生を受けてからずっと母を恨み憎んでいた私が、生まれて初めて母を羨ましいと思った。生まれて初めて母になりたいとすら思った。山井さんが人を殺めるほど愛おしく想い、恋焦がれた、私の母に。