手紙に代えて -6

 目の奥がずっしりと重く、まぶたを持ち上げるのが億劫だった。なんとか目を開いて周囲を見る。窓がないシアタービル内ではいま現在が夜なのか昼なのかさえも分かりにくい。

 そういえば、と思いながら隣を見るとそこに山井さんの姿はなかった。私がうっかり眠ってしまった間に自室にでも帰ってしまったのだろう。私の体には彼のコートがかかっていた。起こしてくれれば良かったのにと思うも、それをしなかったのは山井さんなりの気遣いかもしれない。眠りに落ちる直前に話していたことも、なにかしら幸せな気分になるような夢も、何一つぼんやりとして思い出せる気がしなかった。

 ひとまずは山井さんにコートを返すべきだろうと考えた。彼はいつもこの灰色のコートを肩にかけているが、身に着けている時ですら常時寒がっている。これがなければ凍えてしまうかもしれない。

 劇場の出入り口である両扉を開けて外に出ると、すぐ近くの階段を登った。迷いなく山井さんの自室に向かうもそこに当の本人の姿はなかった。次に最上階にあるキャバレーに向かう。しかしそこにも山井さんは居らず、すぐ傍にいた一派のメンバーに訊いても誰も山井さんの姿は見ていないと話した。

 コートを片手に一体どこに居るのだろうと考える。山井さんの自室。最上階のキャバレー。あと思い付く場所と言えば医療機器やベッドがある治療部屋だろうか。私が初めてこのシアタービルを訪れた際に、顔の怪我を見て貰うために通されたあの部屋だ。

 治療部屋の前まで行き、扉を軽くノックした。しかし中からは何の反応も返ってこない。恐る恐る扉を開いて中を覗き込むと、常駐しているはずの白衣を着た老人の姿が見当たらなかった。留守にしているのだろうかと思い部屋に入ったその瞬間、死角になった場所に設置されたソファに誰かが座っていることに気が付いた。山井さんだった。

「あ、こんな所に居たんですか。探しましたよ」

 山井さんはソファに体を預けるようにぐったりとしている。私の声掛けにも一切反応しなかったため、疲れているのだろうかと感じた。

「あの、コートありがとうございました。すみません、ついうとうとしてしまって」

 コートを両手で持って差し出す。しかし山井さんはそれを受け取ろうとしなかったため、私は黙ってソファの上にコートを置いた。先ほどからどうしたのだろうと思うも何の検討もつかない。山井さんは黙り込んだまま私のほうを見ることもなく、ただ目の前にあるテーブルの上だけを見ているようだった。

 山井さんの目線の先を追い、私もテーブルの上を見る。そこには何かしらの荷物が乱雑に置かれていた。見る限り身分証やパスポートなどで、近くには財布などもあり、それが仕舞われていたのであろう鞄も同じように置かれていた。

 小さく息を飲んだ。テーブルの上にあるものの全てに見覚えがあったからだ。見覚えのある身分証。見覚えのあるパスポート。見覚えのある財布。そして見覚えのある鞄。それらは全て私の物だった。山井さんが初めて会ったあの夜、酒に酔った際に見知らぬ男たちに絡まれ、奪われた私の全財産だ。

 盗まれた、もとい奪われた物が自分の元へ帰ってくるとはまるで予想していなかった。山井さんが何かしらのツテを使い取り返してくれたのだろう。彼にお礼を言うべきだと思うも口唇が重く、つっかえたように声が出なくなった。

 身分証やパスポートには私のフルネーム、『田端』とはっきり書いてある。すぐ近くに記載されている私の生年月日は山井さんが日本を出て田端組が解体された後だ。ほんの少しの計算をすれば辻褄が合い、私が田端唯の実の娘だと分かるかもしれない。ついに私の正体がばれた。そう思った。

 山井さんの顔を見る。喜怒哀楽のどの感情も見えない無表情だった。ゆっくりと目線をこちらに向けたその顔は、笑ってくれるわけでも睨んでくるわけでもない。ただ虚ろな目で私を見ていた。

「知ってたよ」

 気を抜いたら聞き逃してしまいそうなほどに小さく、低い声で山井さんは言った。耳を疑い、思わず眉間に皺が寄る。

「お前が姐さんの娘だってことは分かってた。下のモンに興信所で働いてたって奴が居てなぁ、お前がここに来た次の日には調べさせてたんだよ」

 どういうことなのかが理解出来なかった。初めて出会い、この場所で怪我の治療をしてもらったあの日こそ山井さんは何も知らなかったものの、その後すぐには私が田端唯の娘だという事実を知らされていたということになる。初めてキャバレーのフロアをモップがけした日から、今の今までずっとだ。

「なんで……、今まで泳がせていたんですか……?私は、あなたのことを知ってて……」

 『私はあなたのことを知っていた上で取り入ろうとした』と口にしようとして留まった。私を見つめていた山井さんの目が微かに細められ、どこか私ではない遠くを見つめるような目をする。なんの感情もないと思っていた彼の顔に、わずかな『悲しみ』が見て取れた。

「さあ……、なんでだろうなぁ……」

 今までのことが走馬灯のようによみがえってくる。もしかすると山井さんは私越しに過去の母を見ていたのかもしれない。穴が開きそうなほどに私を見つめていたのも、見下しながらも笑いかけてくれたのも、赤のドレスを選んでくれたのも、仕事を終えた私を迎えに来てくれたのも、背中に優しく触れたのも、肩を貸して眠らせてくれたのも、大事なコートをかけてくれたのも全部、私が田端唯の娘だととっくに気付いていたから。山井さんは私に母の面影を見ていたのではないだろうか。山井さんが見ていたのは私ではなく、母なのではないだろうか。

 山井さんが好きだと自覚した瞬間に、山井さんが見ていたのは私ではなかったことを思い知る。これはきっと罰だ。ずっと素性を隠してきた罰。母の娘として産まれてきてしまったことへの罰。母にそそのかされ騙され人殺しまでした山井さんに恋をしてしまった私への罰だ。

 ずっと重かったはずの目の奥が、今度は今までに経験したことがないくらいに熱くなっていく。視界が歪み、眼球の表面に溜まった涙が外へと零れ落ちるその前に、私は治療部屋を飛び出した。私を呼び止めるような声などは一切聞こえてこなかった。

 階段を駆け下りシアタービルを出る。外は暗く、現在の時刻は分からなかったが恐らくは深夜だろうと予想する。周囲にある店はやっと営業を始めた所という雰囲気だった。ナイトストリートを駆け抜け、あと少しでハーバーストリートに出るという所で一度立ち止まった。

 ほんの少ししか走っていないのに息が切れてしまったのは気持ちが動揺しているせいなのだろう。なんとか呼吸を落ち着かせようと肩でゆっくりと息をした。咄嗟に飛び出してきてしまったが行く当てなどどこにもない。ただあの場には居られなかった。戻ることも出来ないだろう。山井さんとはもう二度と会えない。

 シアタービルを出る際に既に流れ出していた涙が頬を濡らしている。その上から更に涙が伝っていくのが分かった。とめどなく流れて行くそれに抵抗する気さえも起きない。

 その時だった。背後から聞き慣れない音が響く。ドス、ドス、ドス。大きな何かが早急に近づいてくるように聞こえた。そう、それはまるで体の大きな動物が大股で走っている足音のような。音のした方向へ振り返ると、黒い長髪と黒い服の死神のような男が恐ろしい形相でこちらに向かって来るのが見える。山井さんだった。

「……え!?」

 目の前の光景に混乱し、思わず大きな声で叫んだ。そんな私に構うことなく山井さんは猛スピードでこちらに向かって走ってくる。追い付かれぬように私も走り出した。

!逃げるんじゃねえ!止まれ!」

 山井さんの大きな声が道路に響き渡る。止まれと言われて止まってたまるかと思い、負けじと走りながら反論した。

「い、い、嫌です!てかなんで追ってくるんですか!?来ないでよ!」

「お前が逃げるからだろバカ野郎!逃げるモンを追いかけんのは野生の狩猟本能なんだよ!」

「は、はぁ!?山井さんは野生動物じゃないでしょ!来ないでってば!」

「うるせえ!止まらねえと殺すぞ!」

 追い付かれぬように走り続け、信号無視で無理矢理にハーバーストリートを渡り、船着き場がある倉庫が立ち並ぶエリアへと入り込む。目の前には海があり逃げ場がない。しまったと思い方向を変えるため一瞬だけ立ち止まったその時、山井さんが私の首根っこを掴んでその場に引き倒した。

 頭を打たないようにとかろうじて受け身は取ったものの、腕やひじのあたりをアスファルトの地面に擦ってしまい軽い痛みが走る。気が付くと山井さんは仰向けに倒れ込む私の体の上に跨るようにしながらこちらを見下ろしていた。お互いにハァハァと肩で息をしている。

「お前……、速すぎんだよ……、この、野良犬女……」

 山井さんの言葉に、初めてシアタービルに連れて行かれた時のことを思い出す。山井一派に置いて貰えないかと頼み込んだ時、彼は私のことを『汚ねぇ野良犬がいいとこだ』と言った。

 確かに私は可愛くてひ弱な子犬とは違う。例えば守ってあげたくなるような、支えてあげたくなるような存在でもない。男が居ないと生きて行けないような女にはなりたくないと考えていたからだ。その考えを私に植え付けた要因は母。私はこの世に生を受けてから今までずっと、母に捕らわれ続けたままだ。

「山井さんは、まだ、母に恋をしているんですか……」

 問いかけると、山井さんはどこか苦しそうに表情を歪めた。見ていられなくなり、自分の目元を両手で覆う。手のひらが涙で濡れて行くのが分かった。

「私に優しくしてくれたのは、私に母を重ねていたからなんじゃないですか」

 私は母に捕らわれ続けている。人生も、生き方も、考え方も、好きな人でさえもだ。私は母が羨ましい。山井さんに愛された母が羨ましい。こんなにも母に嫉妬したことなど今までになかった。近くにある海からの波の音と、同時に山井さんの荒い呼吸音が聞こえる。自ら覆い隠した視界は私にそれ以上の情報をくれはしなかった。

「山井さん、私……」

 あなたが好きです。そう口にしようとした瞬間、山井さんが私の胸倉を掴んだ。強い力で上半身が持ち上げられ、目元を覆っていた手が自然と外れる。涙でぼやけた視界いっぱいに山井さんの顔があった。

「俺も随分と舐められたもんだな」

 低い声が耳に届く。山井さんの顔は見たことがないくらいに怖かった。掴まれた胸倉にさらに力が込められ、私たちの顔が近付く。

「お前と姐さんは似ても似つかねえ。顔も、性格も、全部な。お前は誰だ?山井一派のだろ。親が誰だろうとどうでもいい」

 『山井一派の』。愛おしい声がその言葉を紡ぎ、様々な感情が入り乱れ涙がこぼれた。私は母の娘だ。この体には母と同じ血が流れており、それは変えようのない事実。母への羨ましいという感情も嫉妬心も消えることはない。それでも山井さんは私を私として見てくれていたのだとたったいま気が付いた。私は『』。それ以上でもそれ以下でもないと。

 山井さんの大きな手が胸倉から外され離れて行く。すると今度は腕が私の背中に回り、優しく体を支えてくれた。

「二度と俺から逃げようなんて思うな。分かったらさっさと返事しろ。ハイかイエスか……、どっちかしか認めねえからな」

 返事をすることもなく、山井さんの首に腕を回してその体へ抱き着いた。喉仏のあたりに私の体が当たったのか「う」という低く唸るような声が聞こえる。

「私、あなたが好きです山井さん」

 素直な想いを言葉にして告げると、山井さんは私の背中に手を置いてそこを軽く撫でる。優しい手つきはあの夜の出来事を思い出させた。ドレスのファスナーをおろした冷たい指先が背中に触れたあの瞬間、私はすでに恋に落ちていたのかもしれない。

「俺が好きだってのはもう聞いた。返事しろっつったんだよバカ野郎」

 間髪入れずに「はい」と返事をしてから、さらにきつく抱き着いた。山井さんの『もう聞いた』という言葉から、劇場で口にした言葉は夢ではなく現実だったということに気が付く。今更ながら夢でなくて良かったと心から思った。

「おい、離れろ。お前は体温低すぎだ。抱き心地が悪りぃんだよ」

 山井さんは撫でていた私の背中を、今度はぽんぽんと音を立てて優しく叩く。体温が低いという自覚はないが、夜の時間帯はそれなりに冷えるため仕方がないだろうとも思う。そもそも厚着をしてコートまで羽織って冷たすぎる手で私に触れている山井さんにだけは言われたくはない。『抱き心地が悪い』と言った山井さんとは反対に、私は彼の冷たい体が愛おしくてたまらなかった。