※『手紙に代えて』の6話と7話の間にあたる番外編
スロウダンス
はいつも暇さえあれば例の劇場に居た。少し前までは何をするでもなく舞台の装飾を眺めていたようだったが、最近では座席に腰を下ろしてスマホで映画を見ていた。ボロボロに壊れた埃まみれで汚い劇場を映画館に見立てている。つまりはガキのごっこ遊びと一緒だ。
その日もが見当たらず、一応はシアタービル全体を探し回ってみた。自室としてあたえている一際狭い控室。いつも掃除しているキャバレーのフロア。老医師の居る治療部屋。そして最後は俺の部屋。その何処にもいないということはつまり今日も劇場に居るのだろう。
階段をおり下の階に向かうと、予想通りは劇場に居た。舞台から見て丁度真ん中あたりの座席に腰を下ろし、いつものようにスマホで映画を見ているようだった。特に気配や足音を消すこともなく近付き、隣の座席に腰を下ろす。は俺が来たことに気が付いたようだったが、画面から目を離すことはなかった。映画がラストシーンにでも差し掛かったのかもしれない。
の横顔を良く見ると頬に涙の筋が残っていた。目線の先にあるスマホを見ると見覚えのあるシーンが映し出されている。が見ていたのは『MURDER OR BOOGIE』だった。画面が暗転しエンドロールが流れ出す。
「あー、やっぱマダブギ最高」
はスマホの画面を消し、天井を仰ぎながら独り言のように呟いた。俺の部屋で『MURDER OR BOOGIE』についてと話した時のことを思い出す。確かこいつはクライマックスのシーンが好きで「見る度に泣いてしまう」とこぼしていた。頬に涙の痕があったのはそのせいなのだろう。
「マダブギって日本では結末が賛否両論なんですよ。胸糞映画とか言う人も居ますし」
俺はフンと鼻を鳴らす。嘲笑の意味を込めたつもりだった。『MURDER OR BOOGIE』のラストシーンは殺人鬼である主人公が歌を歌いながら恋人を殺し、その死体と共に誰もいない広いフロアでスローダンスを踊る。バックミュージックは恋人が生前に愛していた愛のバラードだ。主人公がゆっくりと動く度に死体から血が零れ落ちて床が赤く染まっていく。俺はそのシーンが好きだった。あの最高のシーンが賛否両論などおかしな話だ。賛否両論どころか『賛』しかないだろうと思ってしまう。
ふと気が付くと、が正面にある舞台をぼんやりと見ていた。そして何かを考え込むかのように口を尖らせた後「そうだ!」と大きな声を出しながら体の前でパンと両手を叩く。
「山井さん、マダブギごっこしましょうよ」
意味が分からず無意識に「あ?」と口から声が出た。はそんな俺に構うことなくスマホの画面に素早く指を滑らせて、何かしらの操作をしているようだった。すぐに聞き覚えのある曲が流れ出す。『MURDER OR BOOGIE』のラストシーンで流れているバラードだった。
はその場に立ち上がると、俺の手を取って引く。自然と同じように立ち上がると、抵抗する隙もないまま舞台に連れて行かれた。半ば無理矢理に両腕をナマエの腰の辺りへ持っていかれる。
「ほら、マダブギのラストでスローダンスを踊るシーンがあるでしょ?あそこ、やりましょうよ」
音楽に合わせてゆらゆらと体を揺らしながらが言う。その顔はあまりにも無邪気でまるで子供のようだった。踊るなんてまっぴらごめんだと思いつつも、楽しそうなを見ていると反対も抵抗も出来そうにない。
「じゃあ、私が主人公役で、山井さんが死体役ってことで」
「バカ野郎、逆だろ。俺が主人公でお前が死体だ」
「え、私、主人公が良いんですけど……」
「うるせえ。文句言うならやらねえぞ」
は不機嫌そうな顔で黙り込む。それ以上は何も反論してこなかったが、眉間に皺を寄せて口を尖らせた表情を見る限りは納得がいかないようだ。『MURDER OR BOOGIE』の主人公は男で、死体となるその恋人は女。俺が主人公役でが死体役なのは至極当然だろう。
二人しか居ない広い舞台と広い客席。そこにゆったりとした優しい曲だけが響き渡る。スローダンスはたかが音楽に合わせて微かに体を揺らすだけだ。『ダンス』と呼ぶにはあまりにも大げさすぎると思う。
バラードはいつ聴いても良い曲だ。しかしこの『ごっこ遊び』はいつまで続くのだろう。映画では主人公と既に死んでいる恋人の二人がスローダンスを踊っている途中でそのまま暗転しエンドロールになるが、現実世界にエンドロールなどという物は存在しない。
の腰の辺りにあてている手を妙に意識してしまう。はそこまで小柄なほうではないが、アメリカ人の女と比べれば標準的な日本人体型ではあるのだろう。例えば俺がの体を引き寄せて胸の中におさめてしまえば、簡単に隠れてしまいそうだった。
至近距離で目が合った。視線をそらそうとした瞬間、が軽く背伸びをしてこちらに顔を近付ける。口唇と口唇が触れ合うすんでの所で顔をそらし、それを避けた。
「……避けないでくださいよ」
はそう言ってからもう一度背伸びをし、顔を近付けて来る。俺は再び顔をそらして避ける。が負けじと顔を近付けてくる。俺は避ける。数回繰り返した後にはしびれを切らしたのか、こちらに腕を伸ばしてきて俺の顔を両手で掴んだ。避けることも逃げることも出来ず、そのまま口唇に噛みつかれる。俺の頬に触れていたの手がゆっくりと下に移動し、胸のあたりで止まった。
『MURDER OR BOOGIE』にキスシーンなどない。しかしきっと、恋人の死体と踊っていた主人公は画面が暗転したエンドロールの裏で、冷たくなった恋人にそれなりのことをひとつやふたつしていただろう。いま俺の腕の中にいるのように柔らかくはなかったかもしれない。あたたかくはなかったかもしれない。それでもきっと主人公の心は満たされていたと思う。
の腰にあてていた手に力を込め、自分のほうへ引き寄せる。触れ合っていただけの口唇が深くなり、の肩が微かに揺れたのが分かった。角度を変えて更に深く口唇を貪る。俺の胸に触れている手に力が込められ、まるで『離れて』と訴えるかのように押し返して来た。自分から仕掛けて来たくせに逃げようとするなんて馬鹿かこいつは。弱々しい抵抗など無駄なだけだ。今更逃がす気など微塵もありはしない。
口唇を解放し、の首筋に顔を埋めながら強く抱き締めた。骨が軋んでいるのではないかと錯覚するほどに力を込めたせいか、は声を上げなかった。
「死体は死体らしく大人しくしとくんだな」
そう囁いてからの顔を見ると、どこか悔しそうに俺を睨んでいた。
このまま一生エンドロールなんか流れなければ良い。そんな風に思ってもきっと叶わない。俺はいつかこの場所を発たなければならない日が来る。いつかと離れることになる。そう確信していた。ならばせめて今はなにもかも全てを忘れていたい。ただひたすらに貪りたい。この柔らかくてあたたかな死体を抱いて、眠りたい。
再び人を愛することなんて二度とないだろうと思っていた。あってたまるかとすら思っていた。それなのにこのざまだ。自分にとってはあまりにも皮肉すぎる愛のバラードは埃臭くて小汚い劇場に響き渡り、ひたすらに俺を攻撃し続ける。それでも、朝が来るまでずっと、許されるなら朝が来てもずっと、このままでいたいと思った。
(2024.2.26)