ネオンに溶ける - 1
サービス残業、もとい賃金の発生しないタダ働きを終え社外に出ると雨が降っていた。空からパラパラと落ちてくる雨粒は小さかったが、空模様を見る限りそのうちに大きく強い雨になるだろうと予想出来る。今朝見た天気予報は『夜遅くから雨。一部強く降る地域もありますが、明け方までにはやむでしょう』。予報は大当たり。私はわざと傘を持ってこなかった。雨が降ればこれを口実に“アイツ”に会えると確信していたから。
まだ濡れ切っていない道を小走りし、向かう先はシャルルという場末のゲーセンだ。夜遅い時間ではあるが店へ降りる階段がある通路には明かりがついている。そこを駆け降り、ガチャガチャの台を横目に店内への扉を押し開ける。中には客どころか従業員の姿すらもない。こんなんで良く経営出来てるな、なんて思いながらいつも通りに控室に続くドアをノックもせずに開ける。
徹は足を組んでソファに座り、煙草をふかしながらスマホをいじくっていた。扉を開ける音に気付き、私の顔を見るなりに驚いたような顔をする。
「!?テメェ……、ノックぐらいしろよ!」
その言葉に、何を今更という気持ちが湧く。
徹と私の付き合いは長く、一体いつからつるみはじめたのかなんてもう忘れてしまった。人を傷付けることを躊躇うくらいに気が弱くて優しい徹が極道の世界に足を踏み入れた時は心の底から驚き、心配した。徹が私の知らない世界に行ったまま戻ってこないような気がしていた。
その予感は的中し、ある日を境に徹は変わった。人を傷付けることを厭わなくなったし、私に対する言葉も少し乱暴になった。それでも私はそんな彼がずっと好きだった。
「雨、降ってきちゃった。ちょっと雨宿りさせて」
そう言うと、徹は指に挟んでいた煙草を灰皿に押し付け私を睨む。そしてソファから立ち上がり、奥にあるロッカーを開けて中から何かを取り出した。それはビニール傘で、所々が破けており柄の部分は少し汚れているように見える。
「客が忘れてったもんだ。これで帰れ」
徹はそう言って私の胸元にビニール傘を押し付ける。反射的に受け取ろうとしてしまったが、その傘が汚い物のように見えて手を引っ込めた。
「そんな誰のかも分かんない傘、使いたくないよ。なんか汚れてるし」
「うるせぇ。文句言うな。これしかねぇんだから仕方ねぇだろうが」
反論に反論が返ってくる。徹は私の腕を掴み、半ば無理矢理に傘を持たせた。そしてチッと小さく舌打ちをし、再びソファにどかりと腰を下ろす。テーブルに置かれた箱から煙草を取り出し流れるような仕草で火をつけた。嗅ぎ慣れた香りが鼻をかすめる。
ここ最近、徹は酷く冷たい。昔はこんなんじゃなかった。以前までの私たちは雑居ビルの屋上に集まって、夜の神室町の薄汚いネオンを見ながらお酒を飲んだ。夏にはアイスを、冬には肉まんをそれぞれ半分ずつ分けて食べた。今日はこんなことがあったとか明日はこんなことをしたいとか、どうでもいい話を続けながらずっと一緒に居た。
それなのに、最近の徹は常に私を遠ざけたがる。「寄り道してないで早く帰れ」だの「危ないから早く帰れ」だの、まるで母親のようなことを口にする。以前、天気が崩れ、雨宿りにとシャルルを訪れた際は雨がやむまで置いてくれた。だから私は雨が降れば徹と一緒に居ても良いと思ったのに、今ではその作戦も通じなくなってきたらしい。
「徹はそんなに私に、ここに居て欲しくないの?」
思っていたことを率直に口にする。天気予報によれば明け方までには雨は止む。それを徹が知っているかどうかはどうでもいいが、少しの間ここに居させてくれれば済む話だ。それなのに徹は意地でも私をここに置いておきたくないように見える。
泣きたいような気持ちをおさえ、徹を見た。目が合うなり徹はすぐに視線をそらし、フンと鼻で笑う。
「何度も言わせんな。……さっさと帰れよ」
例えばここで、私のいかにもな悲しそうな顔を見た徹が言葉を濁らせたり表情を曇らせたりしてくれたなら少しは気持ちも晴れるかもしれないのに、そんな様子は微塵もなかった。徹はこちらを見ることもせず、脚を組みふんぞり返っていた。
「はいはい……、わかったよ。帰ればいいんでしょ帰れば……」
悲しい気持ちと悔しい気持ちが入り混じって胸が苦しくなる。これ以上ここに居たくないと感じ、ドアノブに手をかけ思いきり開く。控室の外に出ると後ろ手で扉を閉めようとした、その瞬間だった。
「待て。……送る」
徹は昔と同じような優しい声で言い、扉に足を引っかけ閉まるのを阻止する。
徹はずるい。私の知らない世界に飛び込んで勝手に変わってしまったかと思えば、昔の面影を見せてくる。置き去りにした私を突き放したかと思えば、反対に優しくしたりする。その「送る」という、何の変哲もない言葉に混乱した。
「一人で帰れるから大丈夫だよ……。てか、どっかで飲んで帰ろうと思ってたし」
「馬鹿野郎。送ってやるからまっすぐ帰れ。もう遅いし一人じゃ危ねぇ」
いつも通りの母親かのような言い草に、私は反抗期の娘かの如く「はぁ?」と声を上げた。徹の足が引っかかったままの扉を無理矢理に閉めようとドアノブを掴み、強く引く。しかしそれを阻止するために徹は足に力を入れているようで、扉は閉まらなかった。
「オイ、痛ぇだろ。やめろ」
「そっちこそやめてよね。冷たくするのか優しくするのか、どっちかにしてよ」
反論し合い、睨み合い、お互いの力により扉がギギギ、という不快な音を出し始める。この物理的な押し問答を続ければあと数秒後に扉は壊れるだろうと容易に予想できる。しかし私には譲る気などさらさらないし、徹も同じ気持ちのようだった。
「何やってんだ?お前ら」
正に一触即発というような空気を一つの低い声が引き裂く。声のした方向に視線を送ると見覚えのある人物が立っており、呆れたような表情を浮かべていた。
「か、海藤さん?」
思わず名を呼ぶ。海藤さんは呆れた表情を変えて今度は笑顔を浮かべたかと思うと、挨拶代わりと言うように片手を上げた。
「おう、ちゃん」
急に現れた海藤さんに混乱しつつ、その人懐っこい笑顔に「どうも」などという適当な返事をする。掴んでいたドアノブから手を放すと、控室から徹が顔を出し目を丸くしていた。徹には今の状況が理解出来ていないんだろう。間抜けな顔で私と海藤さんを交互に見ている。
「給料が入ったんで、東と飲みにでも行こうと思ってよ」
恐らく私の顔にも徹の顔にも「なぜあなたがここに?」と書いてあったのだろう。疑問を察した海藤さんはこちらが何かを問いかけるよりも前にここに来た理由を口にした。
「丁度良い。ちゃんも一緒にどうだ?おごってやるよ」
「え!やった!行きます行きます!」
願ってもない誘いの言葉に無意識に体が跳ねた。もちろん海藤さんと一緒にお酒を飲むということ自体嬉しいに決まっている。しかし何より雨が止むまで徹と一緒に居れることが嬉しかった。シャルルに留まることは出来なくとも、海藤さんと一緒ならば徹も拒否しないだろう。
「すみません。俺は……、遠慮します」
……などという私の単純で軽率で安易な考えを徹の低い声が打ち砕いた。海藤さんは大きく顔をしかめたかと思うと「なんだよノリ悪ぃなぁ」とぼやく。
恐らく海藤さんは、徹が誘いを断った理由を深く考えていない。明日早いとか体調が優れないとか、何かしらの訳があるのかもしれないと考えているんだろう。しかし私には分かる。徹が誘いを断った理由、いや、その“原因”は私にある。きっと徹は私を避けた。私が居るから誘いに乗らなかったんだ。
徹は私の知らない世界に飛び込んで、いつの間にか変わった。昔のように一緒に居ることを拒んで、私を突き放した。たまに見せる昔の面影や優しい顔があったとしても、きっともう以前のような関係には戻れないんだろう。
「じゃ、行くか、ちゃん」
気が付くと海藤さんは店内出入口の扉に向かって歩いていた。その背中を追い掛けようと一歩踏み出した瞬間に視線を感じ、振り返る。徹がこちらをジッと見つめていた。
「兄貴の傍から離れんじゃねぇぞ、」
目が合うなり徹は低い声で言う。その表情はいつも通りの不機嫌そうな顔で、深い皺が眉間に刻まれている。私のことを邪険に扱うくせに、私のことを突き放してばかりいるくせに、どうしていつも最後の最後で私の心配をするような言葉を口にするのだろうと甚だ疑問だった。
「……分かってるよ」
たった一言を吐き捨てるように言った。そのまま徹の表情を確認することもなく店内を小走りで抜け、階段を駆け上る。海藤さんの背中越しに見える外の世界は大きな雨粒が降り注いでいた。