ネオンに溶ける - 2
シャルルは地下にあるため、雨が降り出したかどうかなんて分からない。の言葉を疑うわけではないが、一応スマホのアプリで天気予報を確認した。表示されていたのは雨のマークで、その下には『明け方から朝までには止むでしょう』と書いてある。
雨は地面に落ち、行き場をなくして側溝や低い地面に向かって流れ出す。俺はその音が好きではなかった。あの日の記憶が呼び起こされるからだ。下水の流れる音。鼻をつくすえたにおい。汚れた地面に飛び散った真っ赤な血液。湿度の高い不快な空気が体にまとわり付く感覚と、赤鼻の死に顔がいつまでも俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
そんな雨の音が不快に思わなくなった理由は、にあった。いつだったか天気が崩れたある日、はシャルルを訪ねてきて「雨が止むまでここに居させて」と言った。追い返す理由もなかったため文字通り雨が止むまで一緒に居たが、それ以来、天気が崩れるたびにはシャルルに来るようになった。
はっきり言ってしまえば嬉しかった。理由なくに会えることも、の顔を見て声を聞けることも嬉しかった。雨が降りそうな薄暗い空を見ると、今日もあいつは来るだろうかと考えるようになった。いつの間にか雨の音も心地良く思えるようにすらなっていたが、すぐにそんな考えが間違っていると自覚する。
俺の手と拳銃を一緒に握った羽村のカシラの指が引き金をひいたあの日から、俺は“悪い顔”になった。言うなれば“本物の極道”になったのだと思っていた。そんな俺とは一緒に居るべきじゃない。俺とあいつの住む世界は変わった。きっともう昔のようには戻れない。
俺は、に惚れていた。カタギの道を抜け、松金組の人間になるずっとずっと前から、俺はあいつが好きだった。
ぼんやりと目を開くと、いつもの控室が視界に広がった。海藤の兄貴とが出て行った後、いつのまにかソファに座ったまま居眠りをしていたようだ。悪い夢を見ていたような気もするが何も思い出せない。
時刻を確認するととっくに日付は変わっており、深夜の時間帯だった。自分の体を酷使している自覚はないが、こんな所で眠っても疲れなど取れないということは明白だ。ちゃんと家に帰って休むべきだろうと思い、俺はソファから重い体を持ち上げた。汗をかいていたのか、なんとなく背中に不快感を覚える。
その時、テーブルに置きっぱなしのスマホが震え、低い音を立て始めた。画面には発信者の名前である『海藤の兄貴』という表示があり、すぐに電話に出る。
「どうしたんですか、兄貴」
相手が何か言うよりも先に名を呼び、兄貴は「おぅ、東」などと軽く挨拶を返してくる。向こう側から誰かの話し声とお洒落で優雅なBGMが聞こえ、きっと兄貴はまたあの“テンダー”というバーに居るのだろうと予想した。
「なぁ、お前ちょっとテンダーまで来れねぇか?」
予想通り兄貴はテンダーに居るようだった。そういえば、先ほど兄貴についていったはどうしたのだろうかと考える。聞こえてくる背景の音にそれらしき声や雰囲気は感じられない。
「はどうしたんです?もう帰ったんですか?」
問いかけると、兄貴は「あー」と言葉を濁す。その声になんとなく嫌な予感がした。
「まぁまぁ、いーから来いって。今すぐだぞ!じゃあな」
兄貴の声が聞こえ、何か言葉を返す隙もなく通話が切れる。俺は小さく溜息をつきながら、よれていたジャケットの襟を正し、シャルルを後にした。外は傘をさすまでもないくらいの弱い小雨が降っていて、そのままテンダーまでの道を小走りする。天気予報で言っていた“明け方”まではまだ時間があるが、もうそろそろ雨は止むだろうと予想した。
テンダーに到着すると、ドアを開け店内に入る。そこまで広くはない店の奥に進むと、カウンター席に兄貴の背中が見えた。
「おぅ、東。思ったより早かったな」
兄貴はそう言ってこちらに振り返る。既に何杯飲んだかは知らないが、酒に強い兄貴は顔色一つ変えていなかった。そして兄貴の隣の席には人影が一つ。背中を丸め、カウンターに突っ伏しているその姿は顔が見えなかったが、俺にはすぐに分かった。だ。ここへ来る前に感じた“嫌な予感”が的中し、大きく溜息をつく。
「兄貴……、にあんまり飲ませないでくださいよ。コイツ、そこまで酒が強いわけじゃないんすよ」
「馬鹿野郎。俺が女に無理矢理飲ますわけねぇだろ。すきっ腹で飲んだせいか一、二杯ですぐ潰れちまったんだよ」
兄貴は酒に強い。はそんな兄貴に付き合って酔いつぶれたのだと思ったが、どうやらそうではないようだった。顔を伏せ、微動だにしないの小さな背中を見る。
「ちゃん、疲れてたんじゃねぇか。なんか色々悩んでるみたいだったしよ。お前、ちゃんと付き合い長いんだろ?悩み聞いてやるなり、慰めるなりしてやれよ」
その言葉の通り、ここ最近のは仕事ばかりしている印象がある。夜の神室町は女一人で歩くには危険すぎるため、顔を見るたびに「早く帰れ」と言っているが、この女はそれを聞いた試しがない。たいして給料も良くない仕事だ。何をそんなに必死になっているのか理解出来ないし、そのことで疲れや悩みが増えているのならば間抜けすぎるだろう。
「とりあえずお前、ちゃんを連れて帰って介抱しろ。このままにしとくわけには行かねぇだろ」
グラスに残る酒を口に運びながら兄貴が言う。俺はその言葉に思わず「は?」という声を上げてしまった。
「お、俺がですか!?」
「当ったり前だ。俺よりもお前が傍に居てやる方が良いに決まってんだろ」
兄貴のその言葉は誤解を生む発言だと感じる。抗議をしようとしたが、余計にからかわれるだけのような気がして、やめた。
「わかりました」とだけ呟いて今日一番の大きなため息をつく。俺たちが話している間もカウンターに突っ伏したまま微動だにしないの肩に手を置き、軽く体を揺らす。
「おい、起きろ」
声をかけるも返事はない。俺は小さく舌打ちをすると、その体を無理矢理に起こし、おぶる。背中に広がる柔らかな感覚を気にしないようにしながら、兄貴に軽く挨拶をしてテンダーを出た。雨は既に止んでいた。
背中のに気を遣いながらゆっくりと歩いた。繁華街を抜け自宅アパートの方面に向かうと、まるで別世界かのように人の気配が少なくなる。夜の店が立ち並ぶ通りの喧騒が遠くに聞こえ、の呼吸音が耳に強く響くような気がしてくる。俺は先程よりも余計にゆっくり、慎重に歩いた。
酒に酔潰れたり、眠ってしまったを俺の家まで運ぶことなんて今までに何回もしたことがある。こうして体を密着させることだってなんてことはない。なんてことはないはずなのに、どうにも胸がざわついて仕方がなかった。
「とおる……」
耳元で名を呼ばれ、心臓が口から飛び出るのではないかと思うほどに跳ね上がる。一瞬寝言か何かかと思ったが、どうやらは俺の背中の上で目を覚ましたようだった。しかしその声色を聞く限りは半分起きていて、半分眠っているというような感じに思える。
俺はの呼びかけに返事もせず、平然を装いながら誰も居ない暗い道を歩き続けた。
「ねぇ、徹は私のこと、もうきらいなの?」
意味のなかった弱々しい呼びかけが、まるで子供のような問いに変わる。何故急にそんなことを聞くのかと思いながらも、先ほどと同じように返事をしなかった。
「むかしみたいにさぁ、お酒飲んだり、遊びに行ったりしようよ。ずっと一緒に居ようよ。ねぇ、だめ?」
は呂律が回らないのか、途切れ途切れに言った。「嫌いなわけねぇだろ」「一緒に居てぇよ」「だめなわけあるかよ」。頭の中に言葉がこだまする。その想いは一つも声にならなかった。いま言ったところではきっと明日には忘れてしまうだろう。
自宅アパートにつき、扉を解錠して中に入る。背中におぶっていたを玄関に下ろすと、脚を掴んで強引に靴を脱がせた。薄暗い中での脚を見ながら、こいつはこんなに細かっただろうか、などと考える。
の背中と膝裏に手を差し込むと、体を横抱きにして持ち上げた。そのまま部屋の奥まで進み、自分がいつも使っているベッドの上にゆっくりと下ろす。すると自分の首にの腕が伸びて来て絡みついた。は俺に抱き着くかのように身を寄せ、腕を放そうとしなかった。
「おい、テメェ……、寝ぼけてんじゃねぇ」
体を引きはがそうとするも、妙に力が強い。の長い爪が俺の首に食い込み、微かな痛みを感じた
「おい、痛ぇって。放せよ」
そう言うと、と目が合った。部屋の灯りはつけておらず薄暗いものの、至近距離のせいか薄く開かれたの瞳が良く見える。首にかけられていた手が俺の頬に移動してそのまま引き寄せられると、口唇と口唇が僅かに触れ合った。避けることも、抵抗することもできなかった。
呆然としていると、はいつの間にか俺から手を放し、気持ちの良さそうな顔で小さな寝息を立てていた。何が起きたのかやっと理解が追い付き、今更に心臓がうるさく鳴り始める。
「この……、酔っ払いが」
動揺している自分が悔しくて、何かに言い訳するように吐き捨てる。酒のせいかほんのりと赤い顔で眠っているは、明日の朝になればついさっき俺とキスをしたことなんてすっかり忘れてしまうんだろう。
体から力が抜け、ベッドサイドにへたり込むと目を閉じる。雨は既に止んで静かなはずなのに、鬱陶しいほどの心音が耳について一睡も出来なかった。