ネオンに溶ける - 4
あの日からはシャルルに顔を出さなくなった。そして俺も天気予報を確認することをやめた。気持ちよく晴れようが鬱陶しい雨が降ろうが、がここに来ることはないと分かったからだった。
ベッドで無防備に寝ていたの姿を思い出す。髪はボサボサだし、胸元のボタンは外れて乱れているし、スカートはずり上がって太ももが見えていた。こんなみっともない姿は俺以外の男には見せられねぇな、なんて考えた。
“いつまでもあの頃みたいに仲良くなんか出来ない”。“幼馴染なんてものはどうでもいい”。これは俺の本心だ。幼馴染なんて関係はさっさと捨ててしまいたい。好きだと言って、抱き締めて、あいつを俺だけの物にしてしまいたい。でも、それをする勇気のない俺は臆病者のクソ野郎だ。
もうそろそろ電車が終わるという時間帯。俺は店のカウンターに寄りかかり、一人で酒を飲んでいた。外で飲んでも良いかと思ったが、一人になりたくて他の従業員も帰らせた。こんな時間ともなればシャルルのような場末のゲーセンには客は寄り付かない。一人になるには丁度良い場所だった。
そういえば、最後の客がビニール傘を持っていたことを思い出す。外は雨が降っているのか、なんて考えたが、今の俺には関係ない。濡れて帰れば良いから傘なんかいらない。が現れることなんかないから何の意味もない。そう考えながらシャルルの店内を見渡す。あいつが居ないここは酷く殺風景で、空気が澱んでいるような気さえした。
無意識に酒の入ったグラスを揺らすと、中の氷が小さな音を立てる。すると出入口付近の方から建付けの悪い扉が開く音がした。手元のグラスに落としていた目線を上げる。もしかして、という小さな期待のような物が胸に湧きあがった。
しかし、そこに立っていたのは俺が期待していた人物ではなく、海藤の兄貴だった。いつものように歯を見せて笑いながら片手を上げ「よぉ」と挨拶をする。それに応えることもなく黙り込む俺に、兄貴は顔を近付けて言った。
「東、てめぇ、ちゃんが来たって思ったんだろ?悪かったな俺で」
兄貴は相変わらずのニヤニヤ顔だった。恐らく俺をからかいたい気持ちがこもっているんだろう。しかしそれに乗る気にはなれず、目を伏せる。視界にグラスが入り込んで、兄貴の分の酒も用意すべきだなと考えた。
「……おい、なんだよ。ちゃんを待ってるんじゃねぇのか?」
何も言い返さない俺を不審に思ったのか、兄貴はにやけた顔を崩し、眉間に小さな皺を浮かべた。
「いえ……、待ってません。つか……、もうアイツはここには来ないと思います」
「なんだ。喧嘩でもしたのか」
「まぁ……、そんなもんです」
適当に言葉を濁した俺を深く問い詰めることもなく、兄貴は「フーン」とだけ口にする。この人が優しい人だということを俺は知っている。俺やのことに興味がないのではなく、これ以上は踏み込むべきではないと線を引いているんだろう。恐らく意図的にではなく、無意識に。
兄貴は「まぁ喧嘩するほど仲が良いとか言うしなぁ」などと言いながら笑っている。俺はもう一杯分の酒を用意しようと兄貴に背を向け、控室に続くドアノブに手をかけた。
「なぁ、東。お前、ちゃんのことどう思ってる?」
妙に低く、真剣に聞こえる声色だった。俺の体はその場で固まり、まるで金縛りに合ったかのように指一本すら動かせなくなる。質問の意図が分からずに混乱したが、なんてことはない。深く考えずに“アイツはただの幼馴染です”。そうたった一言答えれば良いだけの話だ。
「アイツは、……」
「ちょっと待て。“ただの幼馴染”なんつーつまんねぇ答えはナシだ。……惚れてんだろ?」
兄貴は返答を予想していたように言葉を遮る。俺はそれ以上何も言えなくなった。ドアノブにかけていた手をゆっくりと下ろし、兄貴の方向へと振り返る。
「もいい歳です。俺なんかに構ってないで、カタギの男と幸せになった方が良い。誰だってそう思うに決まってます」
振り返ったのに、兄貴の顔が真っすぐ見れなかった。この人と目を合わせてしまったら、みっともない醜態をさらすだけの情けない俺を見透かされてしまうような気がしたからだ。
兄貴は先程と同じように「フーン」と口にする。俺の本心に踏み込もうとしている癖に、その口ぶりは冷ややかだった。
「じゃあお前は、ちゃんが自分以外の誰のもんになったとしても文句ひとつねぇってことだな?その誰かに傷付けられたとしても、何をされたとしても、お前には口を出す権利も手を出す権利もねぇってこった」
「やめて下さい!」
思わず兄貴の言葉を遮り、カウンターを強く叩いた。大きな声と大きな音が店内に響き渡り、自分の手が痺れ、痛み出す。
「が、俺以外の男のもんになるなんて嫌に決まってんでしょう!俺以外の男に傷付けられんのも、触られんのも、耐えられるわけねぇ!」
口から飛び出した本音はもう止まりそうになかった。誰にも言わず、心の奥底に仕舞っていた自分の気持ちが溢れ出す。言葉は水と同じで一度外に零れてしまえば器に戻すことは出来ない。我に返り小さく息を飲んだその時、目の前にある海藤の兄貴の顔は嬉しそうに笑っていた。
「お前の本音が聞けて安心したぜ、東」
その時にやっと俺は、鎌をかけられていたことに気が付いた。自分の中にため込んでいた気持ちを吐き出したことにより、すっきりした感覚と虚無のような感覚とが混ざり合う。黙り込み呆然としていると、兄貴は首元をかきながら呆れ気味な表情をした。
「お前よ、ちゃんに気ぃ遣いすぎなんじゃねぇのか。まずは自分の気持ちを一番大事にしろよ。不器用にもほどがあるぞ」
兄貴の言葉に相変わらず何も言い返せなかった。そんな俺を可笑しく思ったのか兄貴はフッと小さく笑い、こちらに背を向けて歩き出す。向かったのは出入口で、そのまま帰ろうとしていることが分かった。言いたいことだけ好き放題に言って気がすんだら帰る。その様子に兄貴らしさを感じた。
「東」
俺が立っているカウンターから見えるか見えないかの所で兄貴が立ち止まり、名を呼ぶ。返事の代わりに顔を上げその方向を見たが、兄貴は振り返らずこちらに背を向けたままだった。
「お前、ちゃんと言えよ。ちゃんに好きだって」
兄貴は店から出て行った。扉の閉まる音と階段を上る音が微かに聞こえる。自分以外誰も居なくなった店の中で俺は一人「はい」と小さく返事をした。
ポケットからスマホを取り出し、連絡先を呼び出す。画面には『』という文字が映し出されていた。発信ボタンをタップすると、ワンコール、ツーコールと何回か呼び出し音が鳴り、俺の心音とシンクロする。電話の向こう側から「もしもし」という声が聞こえた。
「いま、どこにいる?」
名乗らないままそれだけを口にした。俺からの着信であると言うことはあちらの電話に表示されているはずなので分かるだろう。は呆れた声で「は?」と吐息交じりの声を出した。
「どこって……、まだ職場だけど」
「何時に終わる?」
「今日も残業だからまだもうちょっと……、てか急にどうしたの?なんでそんなこと聞くの?」
の声からは不機嫌さが感じられた。恐らく仕事で疲れ切っているというのに俺からの急な着信に困惑したのだろう。昔ならまだしも、最近の俺がの仕事終わりの時間を気にすることなどないため、戸惑うのは無理もない。
「児童公園で待ってる。終わったら来い」
の職場から一番近い公園を指定し、そのまま電話を切る。最後の方、が何かを言った気がしたが聞こえなかったふりをした。の仕事が何時に終わるか分からない。そもそもが来るかどうかも分からない。それでも俺は行かなければいけないと感じた。俺にはいま、に伝えなければならないことがある。
よれていたジャケットの襟を正しながら、シャルルを飛び出す。空を見上げて天気を確認する余裕なんかない。公園までの道を小走りすると、頬に湿った空気がまとわりついた。