ネオンに溶ける - 5
終わりの見えない仕事の山を目にすると定時退社は絶対に無理そうだなと感じ、私は休憩室でひとりコーヒーを飲んでいた。窓から見える夜の神室町はたったいま弱い雨が降り出したようで、道行く人々が傘を広げたり、鞄から折り畳み傘を出したりしている。
ああ雨か、などと心の中で呟いた。今朝の天気予報は確認しなかったが、別に雨が降っても降らなくともどちらでも良い。このまま小雨で終わるようならば少しくらい濡れて帰っても構わないだろう、なんて考えた。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。何かの通知だろうと思ったが、止むことなく震え続け、主張が激しくなる。誰かから電話がかかってきたのかもしれないと取り出すと、画面には見慣れた名前が浮かんでいた。
徹。ただ一つの漢字のみで登録されている名前。いま手の中にあるスマホは徹からの着信を知らせるために何度も何度も震えている。あいつからの連絡など珍しいことではない。しかしここ最近は避けられていたし、先日“あんなやりとり”をしたばかりだ。胸がざわつく感覚がして、思わず息を飲んだ。
「もしもし」
通話ボタンをタップし、なるべく冷静を装って応答する。徹は名乗ることもしないまま「いま、どこにいる?」とだけ口にした。なぜいきなり電話をかけて来て、そんなことを問われるのか理解出来なかった。まだ職場に居ると言うことを伝えると、間髪入れずに「何時に終わる?」という問いが飛んでくる。
「今日も残業だからまだもうちょっと……、てか急にどうしたの?なんでそんなこと聞くの?」
いきなり電話をかけてきて、いきなり訳の分からない質問ばかりされて混乱した。冷静を装おうとしていたことも忘れ、疑問を投げかける。
「児童公園で待ってる。終わったら来い」
私の質問に答えもせず、徹はただそれだけを吐き捨てるように言うと、すぐに電話を切った。「ちょっと待ってよ」と声を出したが、相手には届かなかっただろう。
私の仕事がいつ終わるかも分からないのに、それでも徹は待つのだろうか。昔から徹を知っている自分から言わせれば、あいつはきっと待つだろう。もう一度窓の外に目をやると、先ほどより少し雨が強くなっているように感じる。徹は傘を持っているのだろうかと心配になった。
私は持っていたコーヒーを近くにあったテーブルに置くと、休憩室を出た。会社の玄関に置きっぱなしになっている誰かの忘れ物のビニール傘を手に取り、外に飛び出す。脚は自然と児童公園の方へ向いていた。残った仕事の山なんて最早どうでも良かった。
小走りしながら傘を開くと、雨の音が強く聞こえる。途中、見知らぬ誰かとぶつかり、よろめいた。
「……っ痛ぇな!どこ見て歩いてんだよクソが!」
柄の悪い男性に大きな声で言われ、体が縮むような思いになる。しかしその人が言ったことはごもっともで、ちゃんと周りを見ずに走っていた私が全面的に悪い。ましてや傘などという凶器になり得そうな物を持っているならばなおさら気を付けるべきだ。
「すみません!」
叫んでから再び走り出す。後ろから男性の怒鳴り声がしたが聞かなかったふりをし、私は児童公園へと急いだ。そこまで強い雨ではないが少なくとも小雨とは言い難い。
数分走り、公園が視界に入り込む。うなだれるようにベンチに座り込む人影は傘をさしていなかった。徹だ。そう確信し、上がった息を無理矢理に整えながら近付く。降り続く雨から徹を守るように頭上に傘を差しだした。
「風邪……、引いちゃうよ」
それだけ呟くと、徹は座ったまま私を見上げる。いつもの見慣れた不機嫌そうな顔で、眉間の皺を深くした。
「お前……、なんで今日は傘持ってんだ。いつもは持ってねぇくせによ」
返答に困り、言葉に詰まる。この傘は会社に置き去りにされていた忘れ物をパクってきた、もとい借りて来たとはっきり言ってしまえば良いのだが、私はそれをする気にはなれなかった。そんなことよりも、伝えなければならないことがあると感じた。
「私がいつも傘を持ってなかったのは、……徹に、会いたかったからだよ」
今までに一切言うことのなかった自分の本当の気持ちを口にする。徹は眉を一瞬動かしただけで、表情をあまり変えなかった。
「私、もう昔みたいに徹と一緒に居られないって思ったら、徹に嫌われたって思ったら、悲しかったよ。だから待ってるって言ってくれて、嬉しくて……、仕事終わってないのに来ちゃった」
ハハ、と笑いを混ぜながらも、声が震えたのを自覚する。ずっと伝えたかった想いを言葉にしているだけなのに、なんだか別れの挨拶かのように感じてしまい、胸が苦しかった。
ふと、徹がベンチから立ち上がり、私は驚いて傘を手放す。空気の抵抗を受けてふわりと地面に落ちたビニール傘は、降り続く雨にうたれて内側が濡れていった。
「だから、嫌ってねぇって。……何度も言わせんな」
雨から身を護る術をなくした私の体が濡れていき、もうすでに濡れていた徹の体は再び雨を吸い込んでいく。徹の手が伸びて来て、私の頬に触れた。手のひらはひどく熱かった。
「一緒に居てやるよ。居てやるから、頼むから、……もうそんな顔、すんな」
そんな顔、とはどんな顔なのだろうと思う。悲しい顔だろうか、情けない顔だろうか。少なくとも良い表情ではないのだろうなと、まるで他人事のように感じる。
ずっと欲しかった「一緒に居てやる」という徹の言葉。私は徹に何と返答すれば良いのだろう。そんな風に考えた時、自分のすぐ近くに妙な気配を感じた。
「おいクソ女!!」
下品な言葉が汚い怒鳴り声で響き渡る。声のした方向を見ると見知らぬ男性が立っていた。顔を数秒間凝視してから私は「あ」と小さな声を上げる。それは先ほど公園に来る途中でぶつかった柄の悪い男性だった。
「やっと追い付いたぜ。さっき思いっきりぶつかられて骨折れちゃったんだよねぇ俺。責任取れよ?あ?」
男性がゆっくりとした足取りでこちらに近付いてくる。驚きと混乱で私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。確かに彼にぶつかってしまったのはどう考えても私が悪い。しかし大腕を振って歩いている姿を見る限りは骨折したようにはとても見えなかった。
何も返答出来ずに居ると、徹が前に出て、私をかばうように男性との間に立った。
「見て分かんねぇのか。いま取り込み中なんだよ。失せろ」
「んだテメェ。野郎に用はねぇな。そっちこそどけ」
男性はこちらとの距離を一気に詰めるように前に出ると、私に向かって手を伸ばして来た。腕を掴まれると感じとっさに身を縮めたが、徹が男性の腕を掴み、阻止する。そしてそのまま顔面に拳を一発お見舞いすると、男性の大きな体はまるではりぼての人形かのように吹っ飛んだ。
「この女に指一本でも触れてみろ!ただじゃ置かねぇぞ!」
叫ぶ徹の後ろ姿を見ながら、私は呑気にも昔のことを思い出していた。私たちがまだ若かったあの頃、同じように因縁を付けられ絡まれている私を徹は助けてくれた。「あの道はヤバい奴らが多いから一人で歩くな」とか「何かあったら俺を呼べ」とか、いつだって私を心配してくれていた。徹はいつだって私を想い、私を気遣い、私を守ってくれた。
たった今、やっと気が付いた。徹は私の好きな徹のままで、昔から何一つ変わってはいなかったのだと。