※『さっさと、好きだと、言いやがれ』と同一主人公の後日譚
※審眼チャプター3『ピストル強盗』終盤、八神たちとの闘いと終えた直後(海藤と東がお酒を飲むシーン)の設定
息も、心も、差し出せよ
バイトを終え、シャルルへ向かうまでの道のりは地面が柔らかくなったような気さえする。足元がふわふわとして、それでいて軽い。今晩は東さんと一緒にどこか食事にでも行こうかと考える。少し前に美味しい焼き鳥屋さんを見つけたのでそこへ行っても良いかもしれない。そんなことを考えながらいつも通りの道を通ってシャルルへ向かう。地下へと続く階段をおり、出入口の押戸を開けた瞬間、妙な違和感を覚えた。
「……ん?」
思わず口から声がもれた。やかましいゲーム音や埃っぽい店内もいつも通りに見える。しかし鼻をつくのは泥のような、煙のような、鉄のような、不快感を覚えるにおいだった。奥からは東さんとは違う男性らしき低い話し声も聞こえるが、何を話しているかまでは聞き取れない。
なんとなく息と足音を殺しながらゆっくりと店の奥に歩を進めると、一人の男性が視界に入ってきた。男性は黒の短髪で体はとても大きく、派手な橙色のシャツを着ていた。片手にはお酒が入っているのであろうグラスを持っており、私の存在にはまだ気が付いていないようだった。
東さんの友人か何かだろうかと思いながら、ほんの少しだけ覗き込むようにしながら奥を見ると、東さんがカウンターに立っていた。私は彼の姿を見るなりに息をのみ、驚きから目を見開く。東さんの顔が血まみれだったからだ。
「ひ、東さん!?どうしたんですかその顔!」
思わず叫ぶと、東さんもシャツの男性も私の存在にやっと気が付いたようで、共にこちらを見る。東さんは私と目を合わせるなり「あ、」と小さく声を上げたが、すぐに気まずそうに目をそらした。東さんは鼻や口元どころか頭部にまで血が滲んでいるし、頬や目の上が赤く腫れあがっている。どこからどう見ても『ボコボコになるまで殴られた』という様子だった。
「おい東。誰だよこの子」
シャツの男性が東さんと私を交互に見ながら言う。東さんはと言うと「あー……」とか「えっと……」などと曖昧な言葉を繰り返していた。私と東さんの関係は、この際今はどうでもいい。それよりも彼の怪我の具合と、誰がこんなひどいことをしたのかが気になって仕方がなかった。
私は咄嗟にシャツの男性を見る。椅子に腰を下ろしたままの男性を私が見下ろす形になってはいたが、体の大きさと貫禄からか妙な威圧感がある。男性は私の顔を見た後に視線を下におろし足先まで見ると、再び目線を私の顔に戻した。その表情は何処か楽しそうで、とても優しい。見た目は明らかなヤクザっぽさが否めなかったが、人相から考えると悪そうな人には思えなかった。しかし人相だけでその人を判断するのも軽率かもしれない。
「もしかして、あなたが東さんを……?」
男性に威圧感を覚えつつも睨みつけながら言った。しかしその言葉をかき消すかのように、東さんは持っていたグラスをカウンターの上に置いて大きな音を立てる。思わず目線を送ると、東さんは眉間に深い皺を寄せて私を睨みつけていた。
「やめろ馬鹿。その人は俺の兄貴だ。お前だろうと失礼な口利くことは許さねぇぞ」
久しぶりに見る東さんの怖い顔に思わず口を閉じた。叱られたような気分になり顔を伏せ視線を落とすと、シャツの男性が座っていた椅子から腰を持ち上げ、私の前へ一歩出る。
「東、女の子にはもっと優しくしねぇとダメだろ?この子はお前を心配してんだよ」
近くで見た男性の体はより一層大きく見えた。私を気遣う言葉と声からは優しさが感じられて、先ほど男性の人相から『悪そうな人に思えない』と考えたが、それは間違っていなかったのかもしれない。東さんはというと、どこか気まずそうに首筋に手をあてていた。
シャツの男性は体の向きを変え、再び私を見る。変わらずに優しい微笑みを浮かべていたが、それが段々とニヤニヤとした厭らしい笑顔に変わってくるのが分かった。
「へぇ、お前、こういう子が好みだったんだな。昔っから女っ気なかったから知らなかったぜ」
その言葉に私は思わず東さんを見た。驚いたのであろう顔は目を見開き、動揺からか視線が泳いでいる。
「ちょ、ちょっと、兄貴。何言ってるんスか……」
東さんは何かを誤魔化すようにカウンターに置いていたグラスを手に取り、お酒を煽る。入っている氷がカラカラと音を鳴らした。
「なぁ、あんた、名前は?」
シャツの男性に呼びかけられ、東さんへ向けていた視線を男性に移す。身長差があるため私を見下ろしてはいるが、男性の表情は優しく、威圧感などはすでに感じられなくなっていた。何の躊躇いもなく「です」と名乗ると、男性は目を細め更に優しい笑顔を浮かべた。
「俺ぁ海藤ってモンだ。ちゃんよ、東の手当て、してやってくんねぇか?頼んだぜ」
海藤さんは持っていたグラスをカウンターの上に置き、そのまま真っすぐに出入口に向かっていった。背中はすぐに見えなくなり、店内にはゲーム機体の音がやかましく響き渡るのみとなる。東さんは気まずそうに黙り込んだままだった。
「東さん、こっち来てください」
私はそう言って、近くにある青いベンチを顎で示す。東さんはいつものように眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔をした。
「あ?……なんでだよ」
「手当てするんですよ。早く、座って下さい」
東さんはカウンターから出てきそうになかったため、私は近付き強引に腕を取る。そこから体を引っ張り出し、ベンチへ無理矢理に座らせた。東さんにかかれば抗うことなど造作もないことだろうと思ったが、彼は何も言わず、抵抗もせず、ただ私の言うことを素直に聞いた。
私は控室の奥にあるロッカーから備え付けの救急箱を取り出した。今までこれが活躍する場面などはほとんどなかったのだろう。入っていた消毒液や塗り薬などは使用期限が切れている。とりあえず自前のハンカチを濡らし、東さんの顔についている血を拭きとることにした。傷を確認した後、救急箱に入っていたまだ使えそうな絆創膏や包帯を使って手当てすれば良いだろう。
東さんはこちらを真っすぐに見てくれなかった。しかしそっぽを向かれていては手当てがしにくくてしかたない。私は東さんの顎を掴むと無理矢理にこちらを向かせ、半ば乱暴に顔の血を拭いた。沁みるのか、時折眉間の皺が深くなる。
「なんでこんなことになったのか、教えてくれないんですか?」
小さく呟くと、東さんの目が私の方へ向いた。至近距離で目が合いつつも高揚はしなかった。顎を掴んで顔を自分の方へ向けさせるこの行為は、まるで私が東さんに無理矢理にキスをせがんでいるように見えるだろう。
「話してやるよ。……そのうちな」
そう言った東さんの表情は、言うなればすっきりしているというような、晴れやかなものに見えた。心の中にあった不安や取っ掛かりが解消されたかのような、言葉に言い表せないような呪縛から解放されたかのような、そんな顔だ。東さんのそんな表情を見るのは初めてだったので、私まで良い気分になってくる。先ほどの海藤さんという兄貴分の人と何があったのかは分からないが、今は東さんが無事ならばそれで良いのかもしれない。
顔の血をある程度拭きとった後、絆創膏を貼って処置を終えた。目線を東さんの顔から首元に移すと、ジャケットの襟部分にもたくさんの血が飛び散っていることに気が付く。胸倉を掴むかのように両手で襟を持ち、血のシミを心の中で数える。
「あーあ、これクリーニング出さなきゃですよ、まったくもう……」
「なぁ、」
「はい?てかこれ、ちゃんと落ちるのかなぁ。クリーニング代ってどれくらいかかるんだろ……」
「好きだ」
いち、に、さん、と心の中で数える声を止める。襟を手に取ったまま東さんの顔を見ると、真っすぐにこちらを見つめていた。
「いま……、なんて、言いました?」
声が震えたことを自覚する。東さんは私から目をそらさぬまま、眉間の皺もそのままに、フンと小さく鼻を鳴らした。しかしその表情は今までにないくらいにひどく優しく、高揚などしなかったはずの心が沸き立ち、うるさいくらいに胸が高鳴った。
「お前が好きだっつったんだよ」
東さんの『好きだ』という言葉を聞き逃したわけじゃない。確かに私の耳に届いていた。それでももう一度彼の口から言って欲しくて聞き返した。こんな時東さんだったら、“一度しか言わねぇ”なんて意地悪を言って、もう一度言うことなど絶対にしてくれないだろうと思っていたのに。それなのに、東さんはもう一度『好きだ』と言った。私を好きだ、と。
手に取っていた襟を鷲掴み、思い切り引き寄せると東さんの口唇に噛みついた。煙草のにおいと血の味が混ざり合って、口のなかに不快感が広がる。なんて不味いキスなのだろうと思っていると、伸びて来た東さんの手が私の耳の辺りに当てられ、頭ごと掴むようにして引き寄せられる。キスがより深くなり、においと味も強くなった。
「もっと……、もっと言ってください」
以前言われた通りに鼻で必死に酸素を取り込みつつ、口唇の隙間から声を出す。東さんの顔が私の首元に埋められ、耳に口唇が近付いてくる気配を感じた。
「好きだ、」
低い声の囁きが耳のすぐ近くで聞こえる。その言葉、その声が私の全てを奪っていった。『好きだ』という言葉と、東さん自身を求める。頭がおかしくなりそうだった。
「もっと」
ただその言葉を繰り返すだけの私に、東さんはチッと小さく舌打ちした後、独り言のように「欲張りな女だなテメェは」と呟いた。顔を上げ目を合わせると、拭き取り切れなかったいくつかの血と、赤く腫れた頬が目につく。
「この先嫌だっつっても一生、絶対に、死んでも、放してやらねぇからな。覚悟しとけ」
東さんはそう言って、再び口唇を重ねた。熱い舌が隙間を割ってねじ込まれ、吐息交じりのくぐもった声がもれる。東さんは恐らく口の中を深く切っていたのだろう。先ほどよりもずっと濃い血の味が口の中に広がり、それがお互いを行き来した。
“私も好きです”そう返そうと思ったが、東さんの言葉と声とキスが、私から呼吸と理性を取り上げる。舌の上に長く残る卑猥な血の味と、彼が口にした愛の言葉を、私は一生忘れないのだろう。
(2022.12.16)