俺じゃなくて月を、

『お月見してるんでいつものとこに来てください お酒とかおつまみとかお願いします』

 終電はとっくに終わってしまった深夜。バックヤードのソファでうたた寝していた俺のスマホが受信したメッセージがそれだった。送り主は。一応は丁寧な言葉でこちらに敬意をはらっているように見えるが、俺に酒とつまみを買ってこいと言う時点でそんなのはポーズでしかない。

「……チッ」

 小さく舌打ちをしてからその場に立ち上がる。無視をしたり断る理由を考えたりすることもせず、すぐにあの女の所へ行こうとしている自分は正真正銘の阿呆なんだろう。恐らくはこれが“惚れた弱み”とでもいうやつなのか。

 『いつものとこ』というのは、俺とがよくたむろしているバッティングセンターの屋上のことだった。あそこは管理がずさんなのか特に施錠などはされておらず、誰でも簡単に裏手から屋上に出ることが出来る。しかし俺たち以外の人間が居た所を見たことがなかった。

 シャルルからそこまでの距離もないバッティングセンターに向かう途中で、酒とつまみを調達するためにPOPPOに寄った。は確か甘ったるいチューハイとポテトチップスが好きだったはずだと記憶していたためそれらをカゴに放り込み、自分の分も適当に購入する。

 いつものようにバッティングセンターの裏手から屋上に上がると、中央にが腰を下ろしていて、ぼんやりと夜空を見上げていた。声を掛ける前に俺も同じように夜空を見上げてみると、神室町のネオンに負けないくらいに光り輝く月が浮かんでいる。周囲に星のような光は見えず、飛行機のライトらしき物が点滅しながら真っ黒な空を流れていった。



 その名を呼ぶとはこちらに振り返り、無邪気に笑った。俺は足早に近づくと先ほどPOPPOで買った物が入っているビニール袋を差し出す。

「てめぇ、俺をパシリに使うなんていい度胸だな」

「パシリだなんて人聞きの悪い!月が綺麗だったから東さんと一緒に見たいなって思っただけですよ」

 良く言う。そんなことを思いながら軽く舌打ちをし、の隣に腰を下ろす。は受け取った袋の中に手を突っ込み、ゴソゴソと中身を確認しているようだった。あの甘ったるいチューハイを取り出し、迷わずにプルタブを引く。

 俺は月を再び見上げた。ネオンは相変わらず下品に光り輝いているし、聞きたくもない街の喧騒は強引にでも耳に入ってくるし、野球ボールがバットにぶつかる気持ちのいい音がその合間に挟まる。そんな訳の分からない神室町という街を、眩しい程に光り輝く月が見下ろしているように思えた。

 ふと気が付くと隣から妙な視線を感じた。がこちらを見つめていて、意図せずとも思いきり目が合ってしまう。

「なんだよ」

 思わず問いかけた。ぶっきらぼうな声のトーンと言葉になってしまったことに少しだけ後悔しつつも、眉間に皺が寄ってしまい、を半ば睨むように見る。しかしはひるむことなく見慣れた笑顔を浮かべた。

「東さん、月が綺麗ですね」

 そう口にしたは妙に嬉しそうだった。目を細くして微笑み、もはや恍惚と言ってもいいのではないかと思う程にうっとりした表情で俺を見る。なんだか妙な気分になってきて、俺はから無理矢理に目線を外し「急にどうした」とだけ呟いた。

「え?あれ?もしかして、これ知らないんですか?」

 は微笑みを崩し、今度は目を丸くして俺を見た。言葉の意味が分からなかった俺は何も口にしないまま眉間に皺を寄せ続ける。するとは俺の前に人差し指を出しながら、何処か自慢げな顔をした。

「月が綺麗ですね、っていうのは、愛の告白なんですよ?」

 俺にはの言っていることが理解出来なかった。この女は何かと突拍子もない言動をする。そして俺はそれに振り回され、惑わされる。そんなことにはもうとっくの昔に慣れていたため、今回もまた“いつものことか”という思いで溜息をついた。

「はぁ……?月が綺麗なことが、どう告白に繋がんだ」

「夏目漱石が奥ゆかしい日本人向けに『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したらしいです」

「ああそうかよ……。そりゃ結構なことだな」

 夏目漱石なんて教科書くらいでしか見たことがないし、どんな偉業を成し遂げた人間なのかも知らない。俺にとってはどうでもいい存在だ。そう考えながら近くにあったビニール袋に手を突っ込み、自分用にと買ったビールの缶を取り出した。

 プルタブに指をかけ引くと、プシュッ、という音が聞こえた。その時にやっと気が付く。「月が綺麗ですね」の意味が愛の告白なのだとしたら、が口にした「東さん、月が綺麗ですね」という言葉は、……。

「東さん」

 そこまで考えた所で名を呼ばれる。ゆっくりとの方向に目線を送ると、優しい笑顔をこちらに向けていた。思わず見とれてしまいそうになるほどに綺麗な顔だった。

「……月が、綺麗ですね?」

 は囁くように言うと、ほんの少し首を傾けながら上目遣いでこちらを見てきた。こいつ分かってやってやがる。そう思いながら、そのあざとさと自分の浅はかさに段々と腹が立ってくるのが分かった。俺は手に持っていたビール缶をあおり、中の液体を半ば無理矢理に流し込む。

「ちょっと東さん?聞いてます?」

「うるせぇなてめぇは。黙って月見てろ」

 こちらを見てばかりの名前の顎を掴み、無理矢理に正面を向かせる。は小さな溜息をつくと、軽く口を尖らせながら月を見上げた。

「私は月じゃなくて、東さんを見てたいんだけどなぁ……」

 わざとらしく、まるで独り言のようにが呟く。この女は本当に計算高くて、あざとくて、生意気で、厄介だ。そう思うのに離れられないのは、俺がに心底惚れてしまっているからなんだろう。



 俺の中で何かが弾ける。呼びかけにが反応するよりも早く、先ほどと同じようにの顎を掴み、今度は自分の方向へ引き寄せると強引に口唇を塞いだ。甘ったるいチューハイの味が口の中に広がって、鼻へ抜けていく。

 下品に光り輝くネオン。聞きたくもない街の喧騒。野球ボールがバットにぶつかる気持ちのいい音。男と女が愛を語らい確かめ合うにはどう考えても不向きなシチュエーションだ。月は呆れたような眼差しで、不格好な俺達を見下ろすように光り輝いていた。


‎(2022‎.‎8‎.‎8‎)‎


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