月じゃなくて僕を、

「月が綺麗だから、観覧車に乗りに行く」

 仕事終わり、事務所を出るなりにさんはまるで独り言のように言った。その突拍子もない内容にきっと僕の目は点になっていただろう。さんは僕の反応を待つこともせず大通りへ颯爽と歩いて行ってしまう。恐らくは観覧車のある浜北公園のエリアに行くためにタクシーでもつかまえる気なのだということが分かる。

「僕も一緒に行っていい?」

 その背中に問いかけると、さんは歩みをピタリと止め、こちらにゆっくりと振り返った。表情は笑っているようでも嫌がっているようにも見えない全くの無表情で、同じく感情の乗っていないように聞こえる平坦な声で「いいよ」とだけ返事をした。

 つかまえたタクシーで公園の方向へ向かっている最中、車内でさんは何も言葉を発せず、ただ窓の外を流れる夜の異人町を眺めているようだった。もしかしたら先ほど言っていた“綺麗な月”でも見ているのかもしれない。そう思い僕も少しだけ身を乗り出して窓越しに夜空を見上げてみたが、月には少し雲がかかっていて、尚且つ都会の空気のせいか霞み、特に美しいとも感じなかった。

 きっと、さんは何かがあったんだろう。彼女は毎日一生懸命に仕事をこなし、疲れや悩みを表に出さないように努めているようだが、僕や九十九君には分かっている。探偵という仕事は想像以上に大変だし、実際にその職業に就いてみて八神さんや海藤さんのすごさに感心することもある。

 車内で黙り込むさんと同じように僕も黙り込んでいると、タクシーはあっと言う間に観覧車のある遊園地まで僕たちを運んでくれた。平日の閉園間近だったためか園内にほとんど人はおらず、週末にはカップルが行列を作っているであろう観覧車乗り場にも人の姿は見当たらなかった。

 黙ったままのさんの後についていき、観覧車に乗り込む。向かい合わせの座席にそれぞれ腰を下ろすと、係の人が何かしらの案内を口にしながら扉を閉めた。機体はゆっくりと動き、空へ向かって登っていく。

さん、何かあった?」

 段々と小さくなっていく街を見下ろしながら問い掛けた。さんは「え?」と小さく声を上げながらこちらを見たようで、僕も同じように顔を上げさんの方を見る。その表情はまるで“どうしてわかったの?”とでも言いたげな顔だった。なんて分かりやすい人なのだろうと思わず吹き出しそうになる。

 出来るだけ優しい表情を意識しながら微笑みかけると、さんは「えっと」とか「あの」などという曖昧な言葉を発しながら口をもごもごとさせていた。

「この間、浮気調査を依頼してきたお客さんが居たでしょ?……覚えてる?」

 まだ言いにくいと考えているのか、さんは小さな声で話し始めた。「この間、浮気調査を依頼してきたお客さん」、が僕はすぐに頭に思い浮かんだ。確かまだ結婚したばかりの新婚さんで、お腹に赤ちゃんが居ると言っていた若い奥さんだ。

「うん。それで?」

 さんを真っすぐに見つめながら相槌を打つ。さんはまだ話すことに躊躇しているのか、合間に「その」という言葉を挟みながら、気まずさを感じているかのように自分の頬をさする。

「昨日、その人に調査結果を伝えたんだけどすごい泣かれちゃったの。当然っちゃあ当然なんだけどね……。なんか私ってすごい無力だなぁって。探偵として頑張って仕事をこなしてるつもりだけど、本当に依頼人の力になれてるのかなって、不安になっちゃった」

 段々と小さくなる声と、悲しそうに目を伏せたその表情を見ていたら、僕も同じように悲しい気持ちになった。

 僕にも覚えがある。探偵業を始めたばかりの頃は調査の結果に納得がいかなかった依頼人に罵声を浴びせられることもあった。会話が出来ないくらいに泣かれたこともあった。僕たちがしっかりと責任を持って依頼人のことだけを想い懸命に仕事をしたとしても、その結果に感謝をされないことなんて山ほどあった。

さん」

 名を呼ぶと、さんは伏せていた目線をこちらに向けた。眉は八の字になっているし、口角は下がっているし、いつもキラキラと輝いている目は暗く曇っている。僕が大好きなさんにはそんな顔をして欲しくない。ずっと僕の傍で笑っていて欲しい。そして彼女を笑わせる役目は、自分が良い。

「大丈夫だよ。さんが誰よりも依頼人のことを想ってること、僕も、九十九君もちゃんと分かってる」

 そう言うと、さんの瞳にほんの少し光が見えた気がした。もしかして先ほどまでは霞んで見えていた月が顔を出して、それが反射しただけなのかもしれないと思ったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 さんの気持ちを持って行ってしまった依頼人は、当然ながら自分の旦那さんを愛していたのだろう。愛していて、結婚して、家庭を作った。それが一瞬にして裏切られ、壊されたんだ。涙を流してしまうのも無理はない。しかし今回、さんや僕や九十九君がこなした仕事によって真実が明るみに出た。いつか知ることになるであろうその真実は隠されていた年月が長ければ長い程、知った時に感じるダメージは大きくなる。真実を知る権利は誰にでも平等だ。それは僕にも、さんにも、誰にもだ。邪魔なんかさせないし邪魔をする人は許さない。それが僕たち探偵の仕事なのだと、まるで自分に言い聞かせるかのように強く想う。

「これからもこういうことはきっとたくさんあると思うんだよね。でも僕が傍にいる。さんが頑張ってることを一番良く知ってる僕が、ずっと隣に居るから。だから、大丈夫だよ」

 僕は向かいに座るさんの手に自分の手を重ねて、握った。小さな手の甲は乾燥していてとても冷えている。さんは小さな声で「ありがと」とだけ言って弱く笑ったが、僕はその笑顔に物足りなさを感じた。僕の大好きなさんにはもっともっと眩しいくらいの笑顔で居てもらわないといけない。そうじゃないと、僕は安心できないから。

 握っていた手をほどき、僕は座席の背もたれによりかかる。そしてさんに向かって大きく両手を広げた。

「おいでよ」

 僕の行動にさんは目を丸くしたかと思うと、意図を察したのか顔を赤くしながら座席に座り直すかのように体をもぞもぞと動かす。

「い、いいよ。ほら……その、傾いちゃうから」

「大丈夫だって。いいからおいでってば。ほら」

「やめてよ、なんか、観覧車でそういうことするのベタすぎて恥ずかしいし」

「ええ?なにそれ。じゃあ僕がそっちに行く」

 埒が明かないと感じた僕はその場に立ち上がり、さんの隣に座り直す。身を寄せるようにしながら背中から腕を回し、小さな肩を抱き締めた。

「す、杉浦くん、ちょっと、あの」

 さんはまるで抵抗するかのような声を上げたが無視をし、腕の力を少しずつ強くしていく。さんの体は先ほど触れた手の甲と同じように冷えていて、ひどく柔らかい。覚えのある優しい香りに包まれて居心地の良さを感じる。

 ふと窓の外を見ると月が美しく光り輝いていた。先ほどここに来るまでに見た月は異人町が放つ光のせいなのか霞んで見えていたが、まるで別の物にすら感じてしまう。観覧車に乗って空に近付いたせいなのだろうか、なんて考えた。

「今日はもう月じゃなくて、僕だけを見てて」

 さんを抱き締めながら耳元で小さく呟いた。腕の中で「分かったから」と呆れ気味の返答が聞こえる。どうやらさんは未だに無駄な抵抗を続けているようで、僕の胸のあたりを小さく叩いていた。

 まったく仕方ないなぁと思い、抱きしめていた腕を緩めさんを解放する、というフェイントをかけながら、気の抜けたような顔のさんの口唇を塞ぐ。先ほど彼女が口にしていた「観覧車でそういうことするのベタすぎて恥ずかしい」という言葉を思い出した。

 すぐに口唇を離してさんの顔を見る。まるで何が起こったのか理解出来ていないかのようにただ目を丸くして僕を見ていた。

「あれ、もしかして、もう一回して欲しいって顔してる?」

「は!?し、してないよ!」

「嘘ばっかり。嘘つきはお仕置きしないとかな?」

 僕はそう言って笑って見せると、困惑した表情のさんに覆いかぶさるようにしながら再び口唇を塞いだ。

 さんには僕が居る。どこまで走っても着いてくる月のように、僕がずっとさんの傍に居る。そんなことを言ったら僕の腕の中に居る彼女は複雑な表情をしそうだけど、そんな顔すらも僕は好きだから、それでいいんだ。最上部まで到達した観覧車は段々と地上に近付き月は再び遠ざかっていくように見える。しかしその光は衰えないままに、僕たちを柔らかく照らしていた。


‎(‎2022‎.‎8‎.‎7‎‎‎)‎


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