許してよ馬鹿 - 1

 私は今からおよそ6年前、心から大好きだった恋人にふられた。

「他に、好きな女が出来た」

 徹の言葉にそこまで驚きはしなかった。何故なら予感がしていたからだ。最近はそっけなかったり電話に出なかったり、私と別れたがっているという予感を心の何処かで感じていた。感じつつも気付かないふりをしていた。私は彼、東徹という人が本当に心から大好きで、この世の誰よりも大切に想っていた。ずっと一緒に居たいと思っていた。しかしどうやらそれは一方通行の想いだったのだと思い知った。

「……そっか」

 ただそれだけを返すと、徹は何も言わず、私の顔を見ることすらもせずに去って行った。あっという間に小さくなっていく徹の背中をただ呆然と見つめた。泣き喚いて縋って捨てないでと叫べたらどんなに良かっただろう。徹を困らせたくなかった私は何も出来なかった。

 徹が言った『好きな女』というのはどんな人なのだろう。私とは比べ物にならないくらいに可愛くて、美人で、明るくて、素敵な人なのかもしれない。そんなことを考えていたら今更すぎるタイミングで涙が溢れてきた。

 私と付き合っていた頃の徹はまだ駆け出しのヤクザだった。組では下っ端で、毎日のように組長さんの靴を磨かされていたらしい。細いフレームの眼鏡がとても良く似合っており、たまに眉を八の字にする癖があった。あまり極道らしい見た目ではなかったが、性格も同じく極道らしくないとても優しい人だった。何故こんな心根の良い人がヤクザなんかやっているのだろうと何度も思うくらいの人だった。そんな優しい徹のことだから、もしも私が『二番目の女でも良いからそばにいさせて』なんて言っても決して了承なんかしてくれなかっただろう。

 徹と別れて……、というよりもふられて、私は長年住んでいた神室町から離れた。横浜で転職に成功して職場の近くに引っ越したが、仕事や住む場所を変えても私は何一つ変われないままだ。あれから6年ほどの月日が経っているにも関わらず、私はまだ徹のことを好きなままで、徹を忘れることが出来ずにいる。

 いま住んでいる伊勢佐木異人町は良い街だ。伊勢佐木ロードは賑わっているし、駅の北口方面に行けば海が見える公園があって自然豊かだ。繁華街から離れた場所や怪しげな路地に入ると、いわゆる反社会的な人たちを見掛ける部分は神室町に少し似ているかもしれない。道の角を曲がる時に前からばったり徹と出くわしそうな気分になれるこの街が私は好きだった。東京から離れたこんな場所で徹に会えることなどないと分かっていても。

 ある日の休日。街で買い物をして歩き疲れた私は浜北公園のベンチで海を眺めながら休憩をしていた。制服やスーツたちが目の前を行き交う中、ふとカップルらしき男女二人組が目につく。なんとなく徹のことを思い出した。

 徹にふられてからの約6年間、彼を思い出さなかった日はないと言っても過言ではないかもしれない。未練がましいにも程があると自分でも思うし、他の人と恋に落ちて付き合ったらこの想いを断ち切れるかもしれないと考えたこともある。しかし何をしても徹のことを忘れることは出来なかった。

 徹はいま何をしているのだろう。あの頃言っていた『好きな女』と一緒にいるのだろうか。まだ海藤の兄貴とやらの舎弟をやっているのだろうか。組での地位を得ることは出来たのだろうか。元気で、楽しく、幸せに生きているだろうか。自分をふった相手にこんなことを考えるのはあまりにもお人好しすぎるのかもしれない。

 その時、上着のポケットに入れっぱなしにしていたスマホが震えた。徹のことを考えていたため、まさか6年ぶりに連絡が?などと思うもそんなことはあり得ない。何故なら私の番号はあの頃と違うため、徹が私に連絡を取る手段などないからだ。自分で自分を嘲笑しながらスマホを取り出すと、そもそも着信などではなく単なるメッセージ受信による通知だった。

ちゃん、今夜ヒマ?』

 画面には簡素なメッセージが表示されている。送り主は会社の先輩だった。思わずハァと盛大な溜息をつく。先輩が送ってくるメッセージはいつも短い。どうせなら要件まで一気に送って来て欲しいとずうずうしくも感じてしまう。

『すみません。用事があります』

 同じく簡素なメッセージを返信し、もうこれ以上のやり取りはしないという決意を込めてスマホをポケットに押し込んだ。

 短く切りそろえられた清潔感のある黒髪に、高そうで綺麗なスーツを嫌味なく着こなす先輩の姿を頭に思い浮かべた。先輩は仕事が出来る上に誰もが認めるくらいの男前で、女性社員からの人気も高い。

 そんな彼だが、恐らく私に気がある。仕事中に何かと理由をつけては話しかけて来るし、頻繁に仕事終わりの時間が被って食事に誘われたりするし、コーヒーやらチョコやらの差し入れを貰うことも多い。初めは自惚れが過ぎるだろうと考えていたが、同僚に「あの先輩って絶対のこと狙ってるよね」と言われ、挙句の果てに今まで私にしてきた行為は他の人にはしていないということを知り、自惚れではないのかもしれないと思い始めた。

 悪い人ではないということは分かっている。先輩と恋に落ちて恋人同士になれたらきっと幸せなんだろう。しかし私は誰ともそういう関係になりたくはない。どうせ誰と付き合ったって徹のことを忘れられないのだという諦めがあるからだ。もう6年もずっと徹が好きなのだから今更他の人を好きになれる気がしなかった。私はこれからずっと恋愛が出来ないまま死んでいくのかもしれない。別にそれでも良い。私は徹との想い出があればそれで良かった。

 ポケットに押し込んだスマホが再び震える。きっと先輩から返信が来たんだ。気付かなかったふりをしてベンチから立ち上がる。さっさと家に帰りお風呂にでも入ってあたたまろう。冷たい風を頬に受けながら考えた。

 そういえば今日の晩御飯はどうしよう。伊勢佐木ロードで何かしらをテイクアウトして家で食べようか、などと考えながら通り慣れた道を歩く。夜にジャンクフードを食べるのは控えた方が良いのだろうがハンバーガーとポテトは魅力的だし、洋食屋のオムライス弁当も捨てがたい。

 空腹からお腹が鳴りそうなのを堪えながら歩いていると、見慣れないお店が目に入り立ち止まった。正面に両開きのガラス扉があり、店の前にはカプセルトイの機械が並んでいる。恐らくはゲームセンターかおもちゃ屋のどちらかだろう。こんな場所にこんな店があっただろうかと記憶を巡らせるもいまいちはっきりしない。出入口のドアや外壁は新品かのように美しかったため、この場所で開店したばかりなのかもしれないと感じた。

「ゲームコーナー……、シャルル……?」

 看板に書かれた店の名前らしきものを声に出して読み上げる。随分と洒落た店名だなと思っていると、ガラス扉に『新店舗開店!スタッフ募集!』と大きく書かれたアルバイト募集の張り紙があることに気が付いた。『クレーンゲームの景品補充』『店内清掃』などの業務内容が記載されており、一番最後に『ゲームコーナー シャルル 異人町店』とある。

 私は普段ゲームはしないしゲームセンターに縁もない。見たこともない新しい店が出来ていることに興味を引かれたものの、恐らく今後この店に行くことはないだろうと思い、そのまま店の前を通り過ぎようとした。その時、正面のガラス扉を押し開けて店内から複数人の男性グループが出て来た。

「クッソ、ガチでクソゲーじゃねアレ!?全然勝てねえの!」

 中央に居た体の大きな男性が叫ぶように言い、店の外に置いてあるカプセルトイの機械を蹴り飛ばした。機械は大きな音を立てて地面に倒れ込み、中に入っているカプセルが跳ねる。男性の周囲に居た仲間らしき人たちが「物に当たるなよ」「落ち着けって」などとなだめたもののその表情は半笑いで機械を元に戻そうとする人はおらず、全員が足早にその場から去って行った。

 いま目の前で倒れているカプセルトイの機械は私が倒したわけじゃない。私はこの店があることをたった今知ったばかりだし、私には何の関係もない。しかし、倒されたままの可哀想な機械を見ているとそのまま立ち去ることがなんとなくはばかられる。他に目撃者も居ないようなので私が直すしかないのだろうと思い、機械に両手を添えて起こそうとした。

「え、重っ……」

 思わず本音が声に出る。カプセルトイの機械という物は意外と重量があるのだなと感じた。中に入っているカプセルの量が多いせいなのかもしれない。息を止めるようにしながらふんばって一気に力を込めると機械はゆっくりと起き上がり、なんとか起こすことが出来た。

 自分で始めたことではあるものの、まったく何で私がこんなことしなくちゃならないんだと感じてしまう。フゥと安堵の溜息をもらしたその時、出入口のガラス扉が開閉するかすかな音が聞こえる。音の方向に視線を送るよりも早く、私の頭上に影が落ちた。

「おい。なにしてんだ」

 低く唸るような声に恐怖を感じた。見上げた先に居たのは一人の男性で、ストライプの入ったグレーのスーツに派手な柄のシャツを着た姿はどう見ても反社会的な雰囲気が漂っていた。サングラスをしていたため表情は読み取りづらい。しかし深く刻まれた眉間の皺のお陰で彼がどんな感情を持って私を見ているのかは何となく予想出来た。

「あ、いや!違うんです!私じゃなくて、さっき変な人がこの機械蹴っ飛ばしてて、それで……」

 サングラスの彼と目が合い、言葉を途中で止めた。薄い色の付いたレンズ越しに見える目に見覚えがあった。見覚えがあるというよりも、忘れたくても忘れられない目だった。

「……徹?」

 細いフレームの眼鏡でもないし、眉は八の字でもない。スーツの色も違うし纏う空気こそ違うものの、目の前に居るのは間違いなく徹だった。6年ぶりに見る姿に息が止まりそうになる。どうしてこんな所に徹が居るのだろう。そう考えていると、ただでさえ深かった彼の眉間の皺が更に深くなり、チッという小さな舌打ちが聞こえた。

 徹はこちらに背を向けるとそのまま何も言わずに店の中へと戻っていった。思わず追いかけ、私も同じように店の中に入る。

「あ、ちょっと、待って!」

 声が聞こえていないのか、徹は立ち止まることも振り返ることもせず店のバックヤードに続いているのであろう扉の奥へと消えて行った。カウンターに居た店員が、徹が入った扉と私とを交互に見て「どうかなさいましたか?」と言いながら不審者を見るような目をこちらに向ける。居心地の悪さを感じた私は、店員に軽く会釈をして店から飛び出した。

 見慣れた異人町を小走りで抜けながら考える。間違いない。あれは確かに徹だった。切れ長の鋭い目、大きく丸い耳朶、固く結ばれた口先。そしていま思えばあの低く唸るような声も徹だった。6年も忘れられずに居たんだ。間違えるはずなんかない。

 しかし徹は私を覚えていないようだった。その事実に気付いた時、まるでみぞおちを拳で殴られたように苦しく、上手く呼吸が出来なくなるような感覚に陥った。思わず立ち止まって大きく深呼吸をする。

 ふった相手のことなど覚えていなくても不思議ではない。そんなことは頭では分かっていても心が受け入れたくなかった。私が6年間徹を忘れられなかったように、徹も忘れないでいて欲しかったなどと贅沢なことは言わない。せめて徹もこの6年の間に一度でも私のことを思い出してくれていたら良いなんて、記憶の片隅に私を置いておいてくれたら良いなんて考えていた。馬鹿だ。そんなことあるはずないというのに。