大好きな人に呪いをかけることにした。 - 1

 二十歳はたちの誕生日。プレゼントを手にやってきた大好きな彼に、私は呪いをかけた。

「私の処女、貰ってくれない? 東さん」

 例えば、今日はこれから雨が降るみたいだねとか、明日は晴れると良いんだけどねとか、そういう何の変哲もない天気の話をするみたいに、その言葉を口にした。東さんは私を見つめたまま目を丸くして、表情も体も全てを固めていた。

 松金貢の孫として生きて来た二十年。まるで当然みたいに男の人とは縁のない人生だった。それは単に暴力団員の血縁者だからという理由だけじゃない。主な原因は東さんだ。私は東さんが好きだった。それは極道組織で良く聞かれる家族だからとかそういうのではなくて、そりゃあもう至って普通に、東さんに恋をしていただけ。

 物心つく頃から、東さんは松金組の構成員だった。昔は良く一緒に遊んでくれたし、いじめっ子から私を守ってくれたりもした。きっと、一番年齢が近いからと無理矢理に私のお世話係を押し付けられていたんだろう。まぁ年齢が近いと言っても十歳以上の差があるのだけど。

 いつだったか私がまだ子供だった頃、家で遊んで暴れまわっていたら、おじいちゃんが大事にしていたお猪口を割ってしまったことがあった。どうしよう、怒られる、怖い、とただ泣くだけの私に東さんは「俺も一緒に謝りますから」と言って、目線を合わせて頭を撫でてくれた。今思えば、あの頃からもう既に恋をしていたのかもしれない。まだ恋愛感情なんて存在も知らないだろう子供だったのに、我ながらませている。

 高校に上がる頃には、毎日のように組の車で送り迎えをしてくれた。東さんは優しいし、他の組員と比べれば見た目もそこまで怖くなかったけれど、それでもれっきとしたヤクザだ。そんなヤクザが毎日学校の前に車をつけているというその状況は、私から人々を遠ざけた。

 ――ああ、あのヤクザんちの子ね。

 ――こっわ。何されるか分かんないし近付かないほうが良くない?

 ――いや俺あの子はガチ無理だわ。ぶっちゃけヤクザとか笑えねーし。

 そんな言葉をどれだけ聞いたか分からない。彼氏どころか友達すらも居ない高校生活だったけれど、それで良かった。何故かと言えば、私は東さんが好きだったから。東さんさえそばに居てくれるのならそれで良いと思っていたからだ。

 そんな東さんは、ある日を境に変わってしまった。明るい色だったスーツは暗いグレーに変わり、細いフレームの眼鏡はサングラスになった。左耳にはピアスの穴を二つもあけて、眉間に皺を寄せた険しい表情ばかりするようになった。彼に何があったのだろうと心配になった。それでも本人に事情を訊くことなんか出来なかった。カタギのあなたには関係ありませんから、なんて突き放されてしまいそうな気がしたから。

 東さんが、私の知らない東さんになった。小規模な三次団体とは言え松金組は正真正銘の極道組織。そしてその組長は私のおじいちゃんで、東さんはその組に所属するヤクザ。こういう時がいつか必ず訪れる。それは分かっていたし、私の想いが報われることはないのだろうということもなんとなく分かっていた。


 二十歳はたちの誕生日。東さんは私の部屋に誕生日プレゼントを持ってやってきた。東さんはいつからか毎年のように私の誕生日を祝ってくれていた。プレゼントはいつもぬいぐるみで、私の部屋には東さんがくれたふわふわの友達が溢れていた。しかしこの年、プレゼントはぬいぐるみではなく綺麗なブランド物のハンカチだった。私ももう二十歳。そんな年齢の女に渡す物として、ぬいぐるみは不釣り合いと考えてくれたのかもしれない。

「お嬢。二十歳はたちの誕生日、おめでとうございます」

 東さんはそう言って、私にプレゼントをくれた。表情は笑顔だったけれど、その笑顔は昔とは少し違った。東さんの笑顔も、見た目も、私へのプレゼントも変わってしまった。もしかしたら私たちの関係も今日で変わってしまうのではないかと思った。

 何も言わずにプレゼントを受け取ると、東さんは「じゃあ」という挨拶もそこそこに部屋を出て行こうとしていた。私は手を伸ばし、ジャケットの裾を掴んで引く。東さんは不意を突かれたかのように、驚いた顔で私を見た。

「東さんに話があるの。そこに座って」

 東さんは初めこそ驚いていたけれど、表情はすぐにいつも通りに変わる。「はい」と短く返事をして、部屋の床に正座をした。私の部屋は畳張りだけれど、座布団どころかラグすらも敷かれていないそこはきっと冷たいし座り心地も悪いと思う。

 松金組は小さな組だし、おじいちゃんの支配力もきっとそこまでじゃない。そんな組長の孫である私にここまでかしこまった態度を取るのは、きっと東さんくらいだ。見た目はいかにもな極道らしい悪い顔に変わっても、私に対する態度は昔と何一つ変わっていない。そして同じように、私の気持ちも昔と何一つ変わっていなかった。

「私の処女、貰ってくれない? 東さん」

 別に、自分の体をぞんざいに扱うつもりはない。でも逆にそこまで大切に思っているわけでもない。ただ東さんに貰って欲しかった。私にはきっと恋愛は出来ない。東さん以外の人を好きになれる気がしない。どこぞの男に吐いて捨てることになるよりも、大好きな東さんに貰って欲しかった。ただ、それだけだった。

「何を……、言ってるんです?」

 東さんはただひたすらに驚き、うろたえている様子だった。眉間の皺はこれでもかという程に深くて、頬が引きつっている。床に正座をする東さんを見下ろしたまま、すぐ近くにあるベッドに腰を下ろした。スプリングが音を立て、枕元に置いていたぬいぐるみがわさわさと一斉に揺れる。全て、東さんからのプレゼントだ。

「私、もう二十歳はたちだし、処女、捨てておきたいんだよね。だから東さんに――」

「ちょっと、お嬢。もっと自分を大事にしてください。大体、俺にそんなこと出来るわけないでしょう。お嬢は、組長おやじの大切な人なんですよ」

 東さんは私の言葉の最後を自分の声で掻き潰した。我慢できなくなったのか、正座をしていた腰を少しだけ浮かせ、訴えかけるように私を見つめる。

 ――お嬢は組長おやじの大切な人。

 愛して止まない低い声が紡いだ言葉を、頭の中で繰り返す。東さんはいつもそう。二言目には、組長の孫だとか、組長の大切な人だとか、そればかり。そんなことはもう嫌という程分かっている。

 ベッドから降りて、東さんの目の前で同じように正座をする。膝の上に手を置いて、ただ彼の顔を見つめた。東さんは未だ動揺したようにうろたえている。暗いグレーのスーツ。優しい目元を隠すサングラス。左耳たぶを貫くピアス。深く刻まれた眉間の皺。そんな悪い顔になったのに、女の一人も抱けないの? と思ってしまう。極道に染まり切ったのならば、私みたいな女の一人や二人、組み敷いてしまえばいいのに。

「お願い、東さん」

 床に三つ指をついて、頭を下げた。自分の額に畳の感触がして、視界が暗くなる。ヒュ、と息を飲むような音がした。それは東さんの物で、彼がどんな表情で私を見下ろしているのかは、手に取るように分かった。

「やめてください、お嬢、頭を上げてください」

 東さんは私の肩を思い切り掴み、なんとか頭を上げさせようとした。それに抵抗しようとするも男の力に適うはずもなく、すぐに私の視界は明るくなり、目の前には東さんの顔があった。見たことがないくらいに悲しそうな表情をしていた。

「なんで、俺なんすか……」

 まるで呟くような弱々しい声を聞いて、息が止まりそうになる。彼をこんな表情にさせたのも、こんな声を出させたのも私なのだと思うと、死んでしまいたくなった。そんなに私を抱くのが嫌なのか。そんなに私が嫌なのか。東さんでなくて他の人に頼んだら良かったのか。私が他の男に抱かれれば良かったっていうのか。そこまで考えてから、そりゃそうだよね、と思ってしまった。自分の組の組長の孫を抱くなんて、そんなお役目、嫌に決まっている。

 なんで俺なのかって? そんなの東さんが好きだからに決まってるでしょ。そう口に出して言えたら良かったのに。でもそうしてしまったらきっと東さんは私を抱いてくれないと思った。彼が背負う重荷をさらに重くするわけにはいかない。これ以上重くしてしまったら、きっと彼は潰れてしまうだろうから。

「東さん、お願い。絶対に誰にも言わないし、お墓の下まで持っていく。だから、……お願い」

 睨むような強い目線を東さんに向けた。私の決意が固いことを察した東さんは、何もかもを諦めたかのように大きな溜息をつき、ジャケットを脱いだ。少し離れた場所にある椅子の背もたれ部分に脱いだジャケットを掛けると、腕のボタンを外しながらゆっくりとした足取りで私の元へ戻ってくる。

「座ってください」

 東さんはそう言って顎でベッドを示した。妙な雰囲気に飲まれ、私は何も返せないまま黙ってベッドに座った。先ほどと同じように枕元のぬいぐるみたちが揺れる。東さんもすぐ隣に同じように腰を下ろした。

「……抱き締めても、いいですか?」

 その言葉は意外に感じた。さっさと事を済ませるため、手っ取り早く服を脱がすとか、色々と端折って肌に触れてしまうとか、そういう流れを想像していた私は面食らう。思わず「え」と声を上げて東さんの顔見ると、先ほどの悲しそうな感情はすでになく、とても真剣な表情をしていた。

 返事をするよりも先に、東さんの腕がこちらに伸びて来た。大きく固い感触の手のひらが背中を這い、その熱に心臓が縮まったような気がした。ぎゅう、と力が込められ自然と体が反ると、首元のあたりに東さんの顔が埋められる。肌に熱い息がかかり、煙草と整髪料のにおいが鼻をかすめた。

 顔どころか体全体がカッと熱くなり、心臓の音がどんどんと早く鳴っていくのが分かる。自分の心臓の音に混じって、東さんの心臓の音も聞こえてきた。まるでシンクロするかのように音が重なり、そのどちらともが早く鳴る。体が動かなくなった。

 東さんも私と同じように緊張しているのだろうかと思ったけれど、きっと意味が違う。私は、ずっと好きだった人に抱き締めて貰えているという胸の高鳴り。そして東さんは、組長の孫を抱かなければならないという恐れ。一瞬でも気持ちが通じ合ったのかと感じてしまった自分に呆れた。

「痛かったらすぐに言ってください。声が出せなかったら、殴ってくれても良いです。お嬢が少しでも嫌だと思ったら、すぐに止めますから」

 耳元で低い囁きが聞こえる。嫌だなんて思うわけない。ずっと好きだった人に抱いて貰えるんだから。別に痛くたって構わない。東さんがくれる痛みなんだから。思っていることは何一つ口に出来ず、返事をしようにも上手く声が出てこなくて、ただ東さんの腕のなかで頷くことしか出来なかった。

 ベビーピンクのウサギ、キャラメルブラウンのネコ、ラベンダーのユニコーン。毎年のように彼が贈ってくれていた可愛いぬいぐるみたちが、私を見ていた。最低だ、悪魔みたいな女、地獄に堕ちろ、そんな言葉を口々に言いながら、冷ややかな目で、死んだような目で、私を見ていた。

 生まれて初めてのセックスは、聞いていたものとは少し違っていた。体が股から裂けるかと思ったとか、シーツが血まみれになったとか、色々な話を聞いていたけれど、そのどれとも違っていた。体が裂けるほどの痛みはなかったし、血もほんの少ししか出なかった。東さんが気を遣って、ゆっくりと十分に慣らしてくれたお陰かもしれない。気持ち良いかどうかは良く分からなかった。

 ただ、好きな人に抱かれているというだけで、泣きたくなるくらいに幸せな気持ちになった。幸福感で涙が溢れそうになるなんて生まれて初めての経験だった。少し硬くて熱い肌の感触、浅く荒い息遣い、私を呼ぶ小さな声、何もかもに気持ちが満たされていくのが分かる。

 東さんは本当に優しかった。その手つきはまるで腫れ物に触れるかのようで、指先が微かに震えていたような気さえした。恥ずかしさと圧迫感に息が浅くなる。酸素を求め必死に呼吸をしながら真上に居る東さんを見上げた時、目が合った。奥歯を噛みしめて、眉間にこれでもかというほどに皺を寄せていた。何故だろう。私よりもよっぽど余裕がなく見えたし、私よりも苦しそうに見えた。

「お嬢、痛く、ないですか」

 浅い呼吸の合間に東さんの声が聞こえる。大丈夫だから続けて、と言いたかったけれど声が出ず、頷くことしか出来なかった。すると東さんはフ、と小さく息を吐いて笑って見せた。その笑顔は、私に昔の彼を思い出させた。

 手を伸ばす。少し髭の残る顎に触れ、指先を頬の方まで伸ばすと、口唇にキスをした。東さんは心底驚いたような顔をしていた。そしてその表情はすぐに崩れ、酷く悲しそうな物に変わった。

 東さんの体の力が抜けて、私の上へと倒れ込んだ。その衝撃と揺れで、枕元にあるぬいぐるみの何体かがぽとぽとと床に落ちる。私のこめかみの辺りに口唇が触れた気がした。東さんは最後の最後まで、口唇にキスはしてくれなかった。

 東さんにとって私は、組長の孫娘。それ以上でもそれ以下でもない。だから私は、この世で一番愛してやまない彼の優しさに付け込んで、『想い出』を手に入れた。東さんにこの身を捧げたという『想い出』を。私にとっては『想い出』でも、東さんにとっては『呪い』。我ながら最低だと思う。きっと私は地獄に堕ちる。

 これで、東さんを諦められると思った。自分は変われると思った。そう信じる他なかった。世間知らずのお嬢から、何も知らない生娘から、そして、極道に不毛な片想いをしている愚かな自分から。

 おじいちゃんの訃報を聞いたのは、それから数カ月後のことだった。