大好きな人に呪いをかけることにした。 - 2
松金貢は、私の全てだった。
幼くして両親を亡くした私を二つ返事で引き取ると申し出てくれたのも、親戚の中ではおじいちゃんだけだった。私が極道に対してそこまで悪い印象を持っていないのも、おじいちゃんの影響が大きかったと思う。
おじいちゃんは優しかった。私がおじいちゃんの大事なお猪口を割ってしまい、東さんと一緒に謝りに行った時だってそうだ。おじいちゃんは私の頭を撫でて「お前さんに怪我がなくて良かったよ」と言って笑ってくれた。私はおじいちゃんが笑った時に出来る顔の皺が大好きだった。
そんなおじいちゃんが、銃で撃たれて死んだ。お腹に三発も受けて、血をたくさん流して、死んだ。きっと痛かっただろう。苦しかっただろう。無念だっただろう。私には想像も出来ないくらい、悲しかっただろうと思う。松金組は極道組織だ。いつかこんな日が来るかもしれないと予想していた。予想してはいたけれど、いざそれが現実として目の前に立ちふさがると、脚も、思考も、全てが止まってしまうのだなと思い知った。
おじいちゃんのお葬式は東城会の本部で行われた。静かで、ただひたすらに広いだけの会場に参列者はほとんど居らず、とても寂しげだった。「三次団体の組長の葬式なんかこんなもんだよ」。参列者の誰かがひっそりと話しているのが聞こえた。
良く見ると、参列者の中にはター坊と、おじいちゃんとは長年の友人である源田さんの姿があった。二人はおじいちゃんの遺影を見てから、俯くように自分の足元に目線を移し、ただ静かに席に座っていた。私が参列していることには気付いていたと思う。それでも声をかけてくることはなかった。特にター坊の方は、昔からなんとなくそっけない所がある。孫である私よりもお金をかけて可愛がられたという自覚があるんだろう。別に私は何も気にしていない。それでも、彼が私に後ろめたさを感じてそんな態度になってしまうのも分かる気がした。
家に戻ると、ただでさえ静かな部屋が更に静かだった。寂しく、まるで温度が幾らか下がったのではないかと錯覚するほどに寒々しい。おじいちゃんは私が帰るといつも玄関で「よぉ、おかえり」と出迎えてくれた。何処に行っていたのかとか、誰と一緒に居たのかとか、そんな詮索をされたことは一度もない。ただ少し離れた場所から、いつも優しく見守ってくれるような、そんな存在だった。
私が東さんに恋をしていたことを、おじいちゃんは気付いていたと思う。見たい映画があるからと誘った時も「東と見に行きゃいいだろ」と言ったり、神室町で何か面白い催し物がある時は「俺は良いから東と行ってこい」としょっちゅう口にしていた。それでも積極的に私と東さんをくっつけようとしたりはしなかった。そんなことをしたら私が嫌がるということを分かっていたんだろう。
脚は自然とおじいちゃんの自室に向かっていた。ふすまを開けると覚えのあるにおいが漂ってくる。中に入り歩を進めると小さなローテーブルの上に灰皿があり、吸い殻がいくつか残っていた。ここもそのうち整理しなければならない。そう考えると憂鬱で、ハァと大きく溜息をつく。
ふと、部屋の一番奥の目立つ場所にある棚が目についた。つやつやとした高そうな樹で作られた立派な棚は、一部分がガラスをはめ込んだ扉のようになっている。そのガラスの向こう側に、見覚えのある、手のひらに収まる程度の小さな箱があった。
「これって……」
思わず独り言を呟く。それはおじいちゃんのお気に入りのお猪口が入っていた箱だ。私がまだ子供だった頃、家で遊んで暴れまわっていたら、このお猪口を割ってしまったことがあった。間違いない。忘れるわけなんかない。ガラスの扉を開けて恐る恐る取り出す。箱の中には真っ二つに割れたお猪口が入っていた。
いま目の前にあるお猪口のように、私の心も真っ二つに割れた。申し訳ないという気持ちが胸に溢れても、それを伝える相手はもうここには居ない。ごめんなさいも、ありがとうも、もう言えない。
「ここに居たんですか、お嬢」
背後から声が聞こえた。振り返ったそこには東さんが立っていて、優しい目が私を見つめていた。少し離れているけれど私には分かる。サングラスで見えにくいけれど私には分かる。東さんがどんな表情をしているかなんて、手に取るように分かってしまう。
東さんは部屋に入り、後ろ手でふすまを閉める。ぱたん、という小さな音と共に、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
「お嬢、昨日からまともに食ってないでしょう。何なら食えそうですか? 俺が用意しますから」
東さんに言われて初めて気が付く。そういえば、おじいちゃんの訃報を聞いてからほとんど食事をしていない。
「うん……。そうだね」
とりあえず相槌程度の返事をする。お腹は空いていないけれど、何かしらを食べるべきということは分かっている。東さんが作るご飯は何だって美味しいから、きっと食べられるはずだ。オムライスがいいかな、炒飯がいいかな、麺類ならパスタかな、お蕎麦かな。そういえばおじいちゃんもお蕎麦が好きだったな。
手に持ったままの箱に目線を落とす。真っ二つに割れたお猪口が、これでもかと恨めしそうに私を見上げていた。
「東さん、これ、覚えてる? 私が割っちゃったやつ。東さんも一緒に謝りに行ってくれたよね」
よく見えるように箱を前へ軽く差し出す。東さんは覗き込むようにして箱の中身を見ると、何かに気付いたようにハッと息を飲んだ。そしてお猪口を見ていた目を私の方へ向ける。
「おじいちゃんはこのお猪口、今でも捨てずに取っておくほど気に入ってたんだね。ほんと、悪いことしちゃったな……」
悲しみと、後悔と、自己嫌悪で涙が溢れた。そんな自分を東さんの目から隠したくて俯いてみるけれど、流れ出る涙の量が増えただけで、ただの悪あがきに過ぎなかった。
「それは違いますよ」
東さんの声が聞こえた瞬間、私の頬に硬くて熱い何かが触れた。東さんの手だった。顔を持ち上げられ、再び目が合う。涙でぼやけ切った視界の真ん中に大好きな東さんの顔があった。
「きっと組長は、お嬢が正直に謝ってくれたことが嬉しかったんです。だから、それが捨てらんなかったんじゃないですか」
目の奥底から溢れる涙が溜まっていき、頬を伝って外にこぼれる。私に触れている東さんの手の甲に、涙の川が出来ていく。
おじいちゃんのお猪口を割った時、怒られることが怖かった。怒鳴られて、叩かれて、この家から出て行けと言われるんじゃないかと怖かった。また独りになるのだと考えただけで、怖くてたまらなかった。
でも、正直に謝れたのは東さんが居たからだ。ただ泣くだけの私に東さんが「俺も一緒に謝りますから」と言って頭を撫でてくれた。彼が居たから、私は正直に謝ることが出来た。東さんが居てくれたから。
「ごめん」
謝罪の言葉を口にして、ただひたすらに泣いた。いまさら謝ったっておじいちゃんはもういない。いまさら泣いたっておじいちゃんは帰ってこない。それでも今の自分にはそうすることしか出来なかった。
視界が暗くなり影が落ちていることに気が付く。この感触、この空気、このにおいには覚えがある。数か月前、抱き締められた時と同じ。
大きく固い感触の手のひらが背中を這い、その熱に心臓が縮まったような気がした。ぎゅう、と力が込められ自然と体が反ると、首元のあたりに東さんの顔が埋められる。肌に熱い息がかかり、煙草と整髪料のにおいが鼻をかすめた。何もかもが、あの日と同じだった。
「俺は、組長の代わりにはなれません。けど……、いつもお嬢のそばに居ます。俺が、ずっと、そばに居て、あなたを守りますから」
耳元で囁かれる低い声。鼓膜も、内臓も、細胞も、心も、私の全てを震わせる、大好きな声だ。分かっている。例えおじいちゃんが死んだとしても、東さんにとって私が組長の孫娘だという事実に変わりはない。そばに居るとか、守るとか、その言葉に言葉以上の意味なんかない。
――ありがとう、東さん。
口にしたはずのお礼の言葉は、ちゃんと声に出ていただろうか。東さんに届いていただろうか。もう何も分からなかった。
私を構成するちっぽけな世界から、大切な人が一人消えた。そして組長を失った松金組が崩れていくのに、それほど時間はかからなかったように思う。トップを失った組織はこんなにも不安定になってしまうものなのかと、他人事のように感じた。いや、実際他人事ではあるのだろうけれど。
松金組員のみんなはその流れに抵抗し、若いケンゴさんを筆頭に組を立て直そうとしていた。しかし、彼らにとどめを刺したのは大元である東城会だった。関東の東城会と関西の近江連合の解散。この出来事は松金組どころか、その他の組のほとんどの極道たちを散り散りにした。新しい組織を探す者。半グレに成り下がる者。社会復帰する者。生活保護を受ける者。様々な人がいる中で、東さんはゲームセンターシャルルの店長という立場に納まった。
私は組長の孫ですらなくなった、ただの女だ。おじいちゃんと一緒に住んでいた広い家はとっくの昔に引き払った。今は単身者向けのマンションに引っ越し、残されたお金とアルバイトで細々と生活している。
バイト先からの帰り道。通り慣れた道を曲がり、赤く光る天下一通りのゲートをくぐる。本来であればここを通る必要などはないけれど、バイトの帰り道にはわざと神室町を突っ切るようにしていた。何故かと問われたら、理由は上手く説明出来ないと思う。私は神室町が好きだった。海藤さんや、ター坊や、源田さんに会える時もあるし、ここはおじいちゃんが生きていた街だから。
見慣れた店の看板と何度も擦れ違う。行き交う人々の中に極道らしき人は見当たらない。少し前までは街中に溢れていたヤクザも、今では半グレのようなチンピラのような、良く分からない柄の悪い人たちに変わってしまった。極道の居ない神室町は空気が変わった。更に治安が悪くなったような、腑抜けてしまったような、そんな気がした。
泰平通りを真っ直ぐ進み、ミレニアムタワーのたもとを抜け、細い路地に入る。もう少し先まで脚を伸ばせば松金組の事務所があったビルがある。そしてその更に先には、東さんが居るであろうシャルルがある。頭の中に彼の顔が浮かんだ。
その時、ポケットに入れっぱなしだったスマホが震えた。取り出して画面を見ると、相手の電話番号と共に名前が大きく表示されている。『東さん』。名前を見ただけで口角が上がってしまい、恥ずかしい気持ちになって口元を抑えた。2コール、3コールと待ってから、応答ボタンをタップする。
「お嬢。俺です。東です」
こちらが何か言う隙もなく声が聞こえた。着信の相手が誰であるかは画面に表示されているというのに、東さんはいつも必ず名乗る。無理矢理に下げた口角が再び上がりそうになって、下口唇を噛んだ。
「そろそろお嬢のバイトが終わる頃かと思って。今夜、そっちに行きます。何か食いたいものとかありますか?」
何も言わない私に構うことなく東さんは続けて言った。
おじいちゃんが死んで、松金組がバラバラになった今、私はもはやお嬢ですらない。それなのに東さんは未だに私のお世話係を続けてくれている。時間が遅くなってしまった時の送り迎えをしてくれたり、私の家に来て食事を作ってくれたりする。私のことを今でも「お嬢」と呼ぶ唯一の存在だ。
「東さんのご飯ならなんでも食べるよ」
東さんは手先が器用で、料理がとても上手だ。小さな頃から甘やかされて育った私には作れないメニューを、レシピも見ずに軽々と作ってしまったりする。それは言葉通り「東さんのご飯ならなんでも食べる」くらいにとても美味しい物ばかりだった。
電話の向こう側に居る東さんは、私の言葉を聞くなり少しだけ唸る。
「またそんなこと言って……、この間、肉野菜炒めを出したら生姜焼きが良かったとか言ったじゃないすか」
「違うよ。そんなこと言ってない。東さんが作る生姜焼きも良いよねって言ったの」
「……じゃあ、今日は生姜焼きにしますか?」
「うん。東さんの生姜焼き食べたい。キャベツとトマトも、いっぱい食べたい」
そう言うと、フ、という小さな笑い声が聞こえた。同じ街、恐らくシャルルに居るであろう東さんの笑顔がいとも簡単に想像出来てしまう。
じゃあ、という挨拶もそこそこに通話を切断しようとした時だった。スマホを耳から離した瞬間、東さんが「あ、お嬢!」と私を呼ぶ。何か伝え忘れたことでもあったのかと思い、急いでスマホに耳を傾けた。
「今日も神室町を通るんですか? 気を付けてくださいよ。最近また、物騒な奴らが増えてますから」
その気遣いに胸の奥が狭くなる。もうとっくに神室町に居るよ。それもあなたが居るシャルルのすぐ近くに居るよ。そう思ったけれど口には出さなかった。
「うん。分かってる。大丈夫だよ。ありがとう」
そう言って、今度こそ通話を切断した。画面には『通話終了』の文字が表示され、すぐに暗くなる。まるで私の心とシンクロしているかのような動きに笑いがこぼれた。この笑いは喜びでも楽しみでもない。自分への嘲笑だ。
私は彼に呪いをかけた。ほんの出来心だったその呪いはおじいちゃんの死によって濃く、深いものとなった。それに対する罪悪感と、自分に対する嫌悪感で消えてしまいたくなる時がある。今夜も私の家に東さんがやってくる。それは楽しみのようで、生きがいのようで、それでいて私の首を締め続ける縄のようだった。