大好きな人に呪いをかけることにした。 - 8
煙草のにおいで目が覚めた。それは東さんが吸っている煙草のにおいとは違って、少し強いような、少し甘いような、そんな気がした。
薄っすらと目を開けてみる。目の前には硬く冷たい床があって、そこに自分の顔を押し付けていることに気が付いた。手は体の後ろに回され拘束されている。自分で確認することは出来ないけれど、感触からして結束バンドか何かだろう。脚は拘束されておらず自由なまま、私の体は床に打ち捨てられ放置されていた。芋虫のように身じろぎしてみる。硬い床が頬に擦れて痛い。
「おはよぉ。やっと目ぇ覚めた?」
男の声がした。少しでも呼吸がしやすいように首を横に捻る。視界に広がる男の姿。最悪の光景だった。口には火の点いた煙草が咥えられており、先ほどの煙草のにおいはこいつだったのだと気が付く。悪態の一つでもついてやりたいところだけれど、殴られたダメージがまだ残っているようで、体が上手く動かない。
「なぁ、ちょっと訊きたいんだけどさぁ……」
男は咥えていた煙草を指の間に挟むと、ポケットから私のスマホを取り出した。画面を操作している男を後目に、この状況をどう切り抜けようと考える。手は縛られているため使いものにならない。脚は自由だけれど立つ気力すらも残っていない。スマホは取り上げられているため外部と連絡を取ることも出来ない。あれこれ考えていると、男はこちらに顔を近付けて不気味に笑った。
「この東って奴、もしかして元松金組?」
目の前に見せつけられたのは、私のスマホに残る着信履歴だった。表示されている名は、東さん、東さん、東さん、と同じ名前がずっと続いている。
「お前のスマホの履歴、この東って奴のしかねえのな? 友達居ないんだねぇ、かーわいそぉ」
男は馬鹿にするように笑いながら、私の頬を軽く叩いた。その通りだよ、と思っても声は出ない。私には、スマホで連絡を取り合う友達どころか知り合いすらも居ない。私には東さんしか居ない。
「つかさ、俺たちこの東って奴も仲間にしようかなって思ったんだけど、どう? 毎日何回も通話するくらい仲が良いみてえだし、お前もその方が――」
「やめて!」
思わず叫び、自分の声で男の声を掻き消した。これ以上黙って聞いていることも、好き放題喋らせることもしたくなかった。この男の薄汚い声で東さんの名を、松金の名を発して欲しくなかった。
男は眉を歪ませると、歯を見せていやらしく笑う。喉の奥からヒヒ、という気色悪い笑い声が聞こえた気がした。
「東さんは、関係ない。私と東さんは、なんの関係もないの。だから彼を巻き込まないで。お願いだから」
男の顔面から気味の悪い笑顔が消え、今度は無表情になる。少しだけ開けた口の中で舌がゆっくりと動き、前歯を舐め上げていく。男はその場に立ち上がると、冷酷な目で私を見下ろした。次の瞬間、ごつごつしたスニーカーを履いた大きくて重い足が私の頭の上に落ちる。
「お前、相当甘やかされて育った感じ? 敬語がなってねえんだよなぁ敬語が。それが人にものを頼む態度かってんだよクソが」
足はまるで、硬い地面を踏み潰すかの如く、私の頭にぐりぐりと擦り付けられる。頬や鼻が床にあたり、削られるかのように痛んだ。血の味がして、呼吸がし辛い。
「お願いします……、なんでもします……、グループにも入ります、だから……、東さんを、巻き込まないでください」
だんだんと声が震え、小さくなっていくのが自分でも分かった。地面を舐めるようにただ頭を下げ続け懇願する。私のこんな姿を見たら、おじいちゃんは泣くだろうか。そうだとしても、やめるわけにはいかなかった。
頭の上にあった重さがなくなる。足が退けられたのだと気が付き顔を上げようとした瞬間、今度は大きな手が私の髪を思い切り鷲掴んだ。ぎりぎりと音を立てながら強く引っ張られると、自然と目線が高くなる。
「ざーんねんでしたぁ! もうとっくに巻き込んじゃってまぁーす!」
おどけたような声が耳に突き刺さる。男は掴んでいた手の力を抜くと、私の頭を再び地面に打ち付けた。
「その東って奴にはお前のスマホから電話しといてやったよ。すんげー剣幕で怒鳴られまくっちゃってさぁ、電話越しじゃどうにもできねえってのにガチ笑ったわ」
絶望した。また東さんに迷惑を掛けてしまった、と考える。いや違う。「また迷惑を掛けた」のではなく、私は、永遠に東さんに迷惑を掛け続けているんだ。
男の言った東さんの様子を想像してみる。私が攫われたことを知り、電話越しに怒鳴って怒り狂う東さんを思い浮かべると、こんな状況だというのに笑いがこみ上げた。きっと彼は『お嬢に指一本でも触れたらただじゃおかねえぞ!』とか言ったんだろう。きっと言っている、いや、言っていて欲しい。
どうしようもない感情と共に涙が外に溢れ出る。それが頬を伝って口の中に入ると、血の味と混ざり合った。東さんに会いたいと強く思う。会って、顔を見て、また謝りたい。いつも迷惑ばかり掛けてごめんなさいと。この先もずっと彼に謝り続けたら、いつか、私は自分を許せるようになるだろうか。東さんのそばに居る自分を許すことが出来るだろうか。
「お嬢!」
どこからか私を呼ぶ声が聞こえた。ハッと息を飲んで地面に擦り付けていた顔を上げる。幻聴でも聞き間違いでもない。確かに聞こえた。私のことを未だに「お嬢」と呼ぶのは、この世に一人しかいない。
「東さん……?」
自分にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いたのと同時に、部屋の隅にあるドアが音を立てて開いた。そこから現れたのは見知らぬ男で、まるでスタントマンかのように転がり、地面に倒れ込む。よく見ると顔面が傷だらけで、所々に血が滲んでいた。その男を跨ぐようにしながら、一人の人物が部屋にゆっくりと入ってくる。暗いグレーのスーツ。優しい目元を隠すサングラス。左耳たぶを貫くピアス。深く刻まれた眉間の皺。間違いなく、東さんだった。
「よう。うちのお嬢、返してもらうぜ」
東さんは余裕しゃくしゃくに言って構えを取った。男は口を半開きにし「ガチ?」と小さく呟いている。東さんは敵の数と動きを確認するためか部屋を見渡した。この部屋には私と、東さんと、男しか居ない。地面に倒れ込んだままの私と東さんの目が合った。
「なんで来たの……?」
まるで独り言かのような問いに、本音など少しも混じってはいなかった。本当は東さんが助けに来てくれてとても嬉しかった。助けに来てくれるんじゃないかと心のどこかで思っていた。嬉しくて、それでいて不甲斐ない自分が情けなくて悔しくてたまらない、下口唇を噛み締めた時に初めて、自分の鼻の下辺りが濡れていたことに気が付く。鼻血だった。
「なぁに言ってるんですか、お嬢!」
東さんの声は明るかった。彼は口角を上げ、歯を見せて笑う。東さんのそんな表情を見るのは久しぶりのような気がした。
「あなたは今となっちゃ、俺だけのお嬢です。俺が助けないで誰が助けるって言うんです?」
「なにごちゃごちゃ言ってんだテメェ! 俺たちのアジトめちゃくちゃにしやがって!」
東さんの声を遮るように男が雄叫びを上げる。そのまま拳を振り上げて東さんに向かって走り出した。東さんは後退して男の拳をひらりと躱し、再び私の方を見て笑った。
「昔みたいに何でも言ってくださいよ! 俺ぁ、生涯かけてお嬢のことを守るって、決めたんですから!」
するり、するり、と軽やかな動きで男の攻撃を躱しながら、東さんは私に向かって叫んだ。まるで未来予知でもしているかのように、男の攻撃は一切東さんに当たる気配がない。何回か同じ動きをした後、今度は東さんのほうから攻撃を始めた。ジャブが男の顔面にヒットして、血が飛び散る。
「本当は組長とか関係ねえんです! 俺が、自分で、勝手に決めた! ずっとお嬢のそばに居るって!」
東さんが叫ぶ。膝蹴りが脇腹にめり込む音と、男のうめき声が聞こえた。床に散っていく血は、男のどの部分からこぼれた血なのかもはや分からない。衝撃で男は後ずさり、二人の間に距離が出来る。東さんは左脚を軸に踏み切り、男の顔面にハイキックをお見舞いした。大きな体がまるで人形のように吹っ飛び、床に転がる。
「誰がなんと言おうが、俺の気持ちは、一生、変わらねえから」
東さんは呟くように言った。それからはもう誰の声も、なんの音も聞こえなかった。部屋に響いているのは、少しだけ息の上がった東さんの呼吸音だけだった。血のにおいは部屋に飛び散ったものか、それとも私自身のものなのか、もうどちらでも良かった。私の視界に東さんの革靴が映り込む。血が飛んでいる優しくてあたたかい手が、私の手を拘束している結束バンドを取り外す。
東さんは私の顔を見るなり、眉間に皺を寄せた。先ほど男に頭を踏みつけられ顔を床に擦り付けてしまったため傷だらけだろうし、鼻血も出ていた。体だけではなく、顔までも酷い状態になっている私を見て、心苦しくなったのだろう。もっと早く助けていれば、なんて考えているのかもしれない。
「東さん」
かろうじて出る声で何とか名を呼んだ。唾液に血が混じって、不快極まりなかった。
「ずっと、私のこと守って。ずっと、私のそばにいて」
口唇の端のほうから、口の中に溜まる血液と共にずっと言えなかった本音がこぼれた。東さんは何と答えるだろうかとか、どんな風に思うだろうかとか、本音を伝えたら後悔するかもしれないとか、そんなことは考えていられなかった。ただ、この想いを彼に伝えなければと思った。
東さんは一瞬だけ驚いたように目を丸くした。その表情も次の瞬間には優しい笑顔に変わる。
「そんなの当たり前じゃないですか」
私は横になったまま、東さんの脚に、膝に、すがりついた。もう二度と離れたくないと、心から感じた。