大好きな人に呪いをかけることにした。 - 7

 寒々しい部屋に朝日が射し込む。私の世界に何が起きようとも必ず朝は訪れるけれど、あたたかな日の光でもこの部屋の冷たさは変わらないままだ。いつも通りの時間に起きて、冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の姿はいつもと変わらないように見えた。視線を顔から少し下に向けると、首に大きな痕が濃く残っているのが見えた。昨日、第三公園で半グレのグループに誘って来た奴の手の痕だ。

 背筋が冷たくなる。鳥肌が立ったような気がして脚の力が抜けた。洗面台に手を付いて鏡から目をそらすように俯く。首に食い込む指の感触。気道が狭められて呼吸が上手く出来なくなる感覚。生まれて初めて死を感じた。嫌なことを思い出し恐怖が蘇る。しばらく神室町には行けないかもしれない。行ったら、あの時のことを思い出してしまいそうだった。

 とは言え、神室町にはもう行くこともない。というより行けないだろうと思い直す。だってあそこは、もう私が居て良い場所じゃななくなってしまった。何とか自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。溜息なのか深呼吸なのか分からなかった。

 洗面所を出てキッチンへと向かう。今日からもう、東さんはここへ来ない。晩ご飯は何かしら自分で用意しようと思いながら冷蔵庫を開ける。中には東さんが良く使っていた調味料のいくつかと、二人で良く一緒に飲んだお茶しか入っていなかった。一先ずは近くにあるスーパーにでも買い出しに行こうか、と思いながら冷蔵庫を閉める。中の冷気が吹き出されるようにして私の体にかかった。寒い。もうずっとずっと、この部屋は寒すぎる。

 ふと、戸棚に引っ掛けてあるエプロンが目についた。一人暮らしを始める際に必要になるかと思い、自分で自分に買った物だ。エプロンはアイボリーの生地に花や葉などの植物のイラストが敷き詰められており、紐の部分は薄いピンク色。誰がどう見ても可愛らしい雰囲気のそれを、東さんが身に着けているのを見るのはいつだって可笑しかった。違和感があって、可愛らしくて、それでいて愛おしくてたまらなかった。いつものジャケットを脱いで、派手な柄のシャツの上から可愛らしいエプロンを着けて、私に食事を作ってくれた。キッチンに立つ後ろ姿が好きでたまらなかった。

 エプロンから無理矢理に目をそらして、ベッドルームへ向かった。何も考えないようにしながら身支度を整え、財布だけ持って家を出る。ここには東さんとの想い出が詰まりすぎている。この寂しさに慣れるまでにはもう少しかかりそうだなと思いながら、玄関のドアを思い切り閉めて施錠した。

 私の家のすぐ近くにあるスーパーは、東さんと一緒に利用したことが何回もある。そのためどこにどの食材が売っているかはなんとなく把握していた。今日の晩ご飯は、はちみつを入れた生姜焼きにもう一度チャレンジしてみようか、と考える。家に居ようと外に居ようと、常に東さんのことを考えてしまう自分に呆れる。

 生姜焼きを作るのであれば、調味料は家に揃っている。あと必要なのは豚肉と、付け合わせに使うキャベツとトマトくらいだ。これからは自分で食事を作らなければいけないから、何か他に必要そうな物があれば買って行くべきかもしれない。卵、食パン、おにぎりに使う海苔、サラダを作る時のきゅうりなど、いくつかの食材も合わせて購入した。

 店を出て、通り慣れた道を歩く。この道は東さんとよく一緒に歩いた。夏はアイスを買って一緒に食べたり、冬にはたい焼きを買って一緒に食べたりして家まで帰った。おじいちゃんとだって、他の誰とだって出来なかったことを、東さんは一緒にしてくれた。昨日の夜からずっと東さんのことばかり考えている気がする。いや、きっと昨日の夜どころではない。その前からずっとだ。

 自分の足元ばかりを見て歩いていたため、なんとなく前を向こうと目線を上げる。すると、路肩に見覚えのある白いバンが停まっていることに気が付いた。つい昨日、私をグループに誘ってきた半グレらしき男が乗っていた車に良く似ている。ひゅう、と喉が鳴った。周囲に人の姿は見当たらない。

 白いバンなんていくらでも街に溢れている。似ていると感じたのもきっと気のせい。自分に言い聞かせるように心の中で呟き、バンの目の前を足早に通り過ぎようとした。その時、車の影から一人の人物が飛び出してくる。大きく手を広げ、私の行く手を阻むかのように立ち塞がった。足と共に、呼吸までもが止まったかのようだった。長く濃いまつ毛に縁どられた大きな瞳。露出度の高い服からすらりと伸びた手足。光を受けてキラキラと輝いている長いネイル。間違いない。あの女だった。

 まずい。咄嗟に体を捻って踵を返し、来た道を戻ろうと振り返った。それと同時に私の体のすべてに暗い影が落ちる。壁かのように誰かが目の前に立ちふさがっていた。背後を取られていたことに今更気が付いても、もう遅い。

「こないだはどーも」

 気味の悪い猫なで声が聞こえたのとほとんど同時に、自分の体の中心部分に強い衝撃を受けた。内臓が口から飛び出そうな感覚になり、呼吸が上手く出来ない。手に持っていたビニール袋を地面に落としながら、口元を押さえてうずくまった。気分が悪い。脚に力が入らない。それでも頭はハッキリしていて、みぞおちを殴られたのだとすぐに分かった。

「おら、誰かに見られるまえにさっさと乗せちまえ。連れてくぞ」

 聞き覚えのある男の声が聞こえた。ハッキリとしていたはずの頭がぐるぐるとしてくる。酸素が足りない、と体が危険信号を出していた。それでも上手く呼吸が出来なかった。

――一度裏の世界に足突っ込んだやつは、そのしがらみから逃げらんねえ。

 昔、誰かが言っていたのを聞いた気がする。

 極道という裏社会に脚を踏み入れた人間は、極道を辞めたとしてもそのしがらみと一生を共にしなければならないと。私もそうなのだろうか。私はヤクザでもなんでもない。それでも組長の孫娘として、極道の血から逃れることは出来ないのかもしれない。おじいちゃんが死んで松金組がなくなって東城会が解散して街から極道が消えても、私は生きていかなくてはいけない。東さんがそばに居なくても、生きていかなくては。