灰の街の腑抜けども - 2

「お前が今よりもっと良い女になったらな」

 『ヤクザの女』にして欲しいと言った時、大夢の返答はそれだった。私には『良い女』という言葉の意味もその基準も何もかもが分からなかった。その日から大夢にとっての『良い女』になるということが私の生きる目標になった。

 夜の街で働き生きるようになってから分かったことがある。この世界はお金が全てだ。見知らぬ男に笑顔を振りまいて酌をして媚を売って金を得る。お金さえあれば私は『良い女』になって『ヤクザの女』になれる。それだけを考えて生きてきたが、本当は違った。私は『ヤクザの女』になりたいのではなく『大夢の女』になりたかった。それに気が付いた時、大夢は裏社会に、私は夜の街にそれぞれ身を落として、とてもではないが昔の私たちに戻れるような状況ではなくなっていた。

 大夢は私をどう思っているのだろう。何とも思っていない女を何年も傍に置いておくほどお人好しではないとは思うし、私たちはセックスだってしたことがある。好かれていない自信がまるでないというわけでもない。しかし愛されている自信もなかった。大夢は私とキスをしない。何より「好きだ」とか「愛してる」だとかの言葉をかけられたことなど一度もないし、私も言ったことがない。

 いつも通りそこまで考えてから軽く頭を振り、考えを吹き飛ばす。余計なことを考えるのはもうやめよう。私は大夢に好かれている自信がない。それでもいい。それでも彼の傍に居て彼の役に立てるならそれでいい。そう考えることで私は私を保っていた。


 その日は仕事を終え店を出ると雨が降っていた。神室町のネオンの眩しさに目を細めながら上を見ると、暗い空からぽつぽつと弱い雫が降り注いでいる。まだ降り始めという感じに見えたため、走ればそこまで濡れないかもしれない。

 大夢はまたいつものクラブに居るのだろう。とりあえず顔を見に行ってみようかと考えていると、すぐ目の前の道に黒塗りの高級車が止まった。まるで地面を滑るかのようなエレガントな動きに見惚れていると、後部座席の窓が開き、見慣れた人物が顔を出した。

「乗りなよ」

 相馬さんは挨拶の一つもせず、ただそれだけを口にする。車の中は空気が良いのか、いつものハンカチは持っていない。

 相馬さんは大夢と極道組織に属していた頃からの仲で、当然私とも顔見知りで付き合いも長い。しかし何故彼がわざわざ私を迎えるようなことをするのかが不思議だった。何かしらの企みがあるのかもしれないと思ったが、そこまで考えた所で思考を停止させる。相馬さんは読めない人だ。私なんかが仕事終わりの疲れた脳みそで考えた所で、無駄な徒労に終わるに違いない。

 私は小さく「ありがとうございます」とだけ口にし、回り込んで車のドアを開けた。中に乗り込むと運転席に座る男がこちらに軽く会釈をする。見覚えのない人物だったがRKのメンバーなのだろう。後部座席の相馬さんはこちらに優しく微笑みかけてきて、私の目には酷く不気味に映った。彼の隣に腰を下ろしドアを閉めると車はゆっくりと、そして滑らかに走り出す。

「今日も大夢の所へ行くんですか?顔を見せるとまたこの間みたいに怒りますよ」

 窓の外を流れる神室町を眺めながら世間話のようなものを相馬さんに振る。先日八神探偵事務所という所の男性二人がクラブを尋ねて来た時、大きめの乱闘騒ぎがあった。相馬さんがやってきてその場をおさめたが、大夢は相馬さんが“現場”に出てくることを好まない。そのため怒りを露わにし、八つ当たりでテーブルが一つ壊れた。

「今日はたださんを送っていくだけだから、阿久津には会わないよ」

 相馬さんの返答が理解出来なかった。『今日はたださんを送っていくだけ』。その言葉が引っかかる。今や神室町を牛耳っていると言っても過言ではないくらいの大組織RK。それのボスとも呼ばれるような地位のある人が、それなりの付き合いがあるとは言えたかが女一人の送迎をすることなどありえるのだろうか。

 頭の中を疑問で埋め尽くされつつも何も言えなかった。どうやら相馬さんは私を見続けているようで体に視線が刺さったが、私は窓から目を離さなかったため目が合うことはなかった。昔から相馬さんの目は苦手だ。彼の目を見て話していると何か余計なことを口走ってしまいそうになる。

さん、なんで?って顔してるだろ。見なくたって分かる」

 相馬さんはそう言うと腕を伸ばし、私の顎を掴んで無理矢理に目を合わせた。何もかもを見透かされそうな瞳に恐怖を覚え、呼吸が浅くなる。

さんに訊きたいことがあるんだ」

 少し遠回しな言い方に、何が訊きたいのかさっさと言えばいいと思うも、相馬さんに対してそんなことを口にする勇気はなかった。何も言えずに体を固めていると、私の顎から手がゆっくりと外される。

さんと阿久津がどういう関係なのか知りたくてさ。どうなの、結局」

 質問の内容は予想していない物だった。私と大夢の関係を知ってどうするのか?という疑問以前に、何故相馬さんが私と大夢の関係について知りたがるのかが分からなかった。相馬さんの全てが理解出来ず、思わず眉間に皺を寄せ、睨むように彼を見る。

「なんで今更そんなこと訊くんですか。それを訊いてどうするつもりですか」

「そんな怖い顔するなよ。単純な興味。別にどうするつもりもない」

 相馬さんは弱く笑いながら私をからかうように言う。不信感しかなかった。『単純な興味』だなんて真っ赤な嘘で、きっと何かしらの企みがあるに違いない。しかしそれが何なのかはまるで分からない。

「お前ら昔から曖昧だろ。恋人同士じゃないってことは分かってる。たださ、阿久津はどう思ってるんだろうな、さんのこと」

 心臓が一度ドクリと大きく跳ねた。質問に答える気が起きず話を聞く気も削がれていたが、『阿久津はどう思ってるんだろうな、さんのこと』という言葉に意識が持っていかれた。私は思わず相馬さんの顔を見る。表情は変わらずに弱い笑みのままだった。

「結局のところ、さんは阿久津のことどう思ってる?やることはやってるって話聞いたけど」

「やめてください」

 大きな声で相馬さんの言葉を遮ったのと同時に車が動きを止めた。どうやら目的地のクラブに着いたようで、私は逃げるようにドアを開けて外に飛び出す。大股で歩き地下へと続く階段を降りようとした時に腕を掴まれた。その正体は相馬さんで、いつの間にか私と同じように車を降り後を追いかけてきたようだった。

 突然の行動に混乱していると腕を強く引かれ、体が密着する。相馬さんは私の肩を抱くと、まるで他の誰かに聞かれることを阻止するかのように耳元に口唇を近付けて小さく囁いた。

「明日は阿久津を借りていくよ。横浜の異人町で大事な用事があるんだ」

「なんでそんなこと私に言うんですか。離してください」

「だってさんは阿久津に惚れてるんだろ。それなりの“用事”だからさ、許可を取っておくべきかと思って」

 まるで茶化すように核心をつかれ反論出来なくなる。これ以上この男と会話をしたくないと思い、掴まれた腕を振り払うため力を込めた、その時だった。

「なにやってんだ」

 聞き慣れた声に呼吸が止まったような感覚がする。声のした方向へ目をやると、そこには大夢が立っていた。仁王立ちで私たち二人を睨むように見つめている。相馬さんは私から手を放し距離を取った。

「仕事終わりのさんを送ってあげたんだよ」

 相馬さんはそう言うとスラックスのポケットからハンカチを取り出し、口元を押さえながら小さく鼻を鳴らした。大夢は相馬さんの言葉を無視するかのように大股でこちらに近付くと、私の腕を掴んで地下への階段を下り出す。私はまるで人間に連れられて散歩をする飼い犬かのように大夢に引かれるがまま、転びそうになりながらも必死に階段を下りた。

「また明日な、阿久津」

 背後で相馬さんが大きめの声で言った。私は振り返って彼の姿を見たが、大夢は変わらずに無視をし続けた。

 正面入り口の扉を開けて店内に入り、そのまま埃っぽい店内を進み続ける。大夢は何も言わなかったため何処に行こうとしているかも分からない。私の腕を引き続けるその背中を見ながら、先ほどの相馬さんとの会話はどの程度まで聞かれていたのだろうかと不安に駆られた。『さんは阿久津に惚れてるんだろ』という台詞が大夢に聞こえていたとしたらどうしよう、と考えたが、聞かれていたとしても聞かれていなかったとしても、どちらでも変わらないかもしれないという諦めのような気持ちもあった。

 気が付くと大夢は個室の前で立ち止まっており、ドアを開けるとそこへ私の体を半ば乱暴に押し込んだ。バランスを崩しそうになるも転ばないようになんとか踏ん張る。規則正しく並んだソファが目に入り、ああ大夢はまた“そういうこと”をするつもりなのか、と思っていると再び腕を引かれ、無理矢理にソファに座らされた。目の前にあるテーブルには酒の瓶とグラスが置かれており、大夢はこちらを見ながら隣に腰を掛け、テーブルの上を顎で示す。

「え?」

 意味が分からず混乱し、無意識に間の抜けた声が漏れた。大夢は何も言わないまま不機嫌そうに表情を歪めたままだ。しかしこの状況を見て良く考えれば自ずと理解出来る。テーブルに酒の瓶とグラスがあるということはつまり、大夢は私に酌をしろということなのだろう。私はてっきりいつものようにソファに押し倒され服でも脱がされるのかと思っていたため拍子抜けした。そして同時に、そんなことを考えていた自分がひどく卑猥な人間に思えて恥ずかしくなる。

 熱くなってきた顔を誤魔化すように、私は酒の瓶を手に取ってキャップを外した。それをゆっくりとグラスに注ぎ、何も言わずに差し出す。大夢も同じように何も言わないままグラスを手に取り、注がれた酒を一口だけ飲む。それをそのまま私の方へ差し出した。お前も飲めということなのだろう。同じグラスであることに抵抗はないし、これを間接キスなどと思うほど今の私は純粋ではない。ただ私は仕事を終えた後だ。店で散々飲んできたため、これ以上は体に酒を入れる気が起きなかった。

「今日、店でたくさん飲んだから……、私はいいよ」

「うるせぇ。いいから飲め」

 断るための言葉を大夢の声が叩き潰す。私を見つめるその顔は怒りを感じているような、悲しみに暮れているような、不思議な表情だった。大夢の考えが一つも読めない。

 差し出されたグラスを受け取る気配のない私にしびれを切らしたのか、大夢はグラスに口唇をつけ酒を口に含んだ後、そのまま私の口唇を塞いだ。何が起こったのかも分からず抵抗も出来ない。二人の口唇の隙間から酒がこぼれ出し胸元を濡らしていくのが分かった。その冷たさに思わず声が出そうになっていると、今度は熱い何かが鎖骨の辺りに触れる。大夢の舌だった。

 それは、もう何年も一緒に居て体の関係だってある私たちの、初めてのキスだった。今までキスをしようとしなかったわけじゃない。ただ大夢は私とのキスを避ける。何故なのかは訊いたことがないため分からない。訊いたことがないというよりも訊く勇気がなかったと言ったほうが正しいだろう。もし、お前は俺の女じゃないからキスはしない、なんて言われてしまったらと思うと怖くて何も訊けなかった。私はただの臆病者だった。



 大夢の声が小さく私の名を呼ぶ。夢にまで見た口唇の感触に涙が出そうになった。初めてのキスは強い酒の味がして、大夢の粗暴な態度とは正反対にひどく優しいものだった。