灰の街の腑抜けども - 3

 一体どれくらいの時間、何度口唇を貪ったのかなんて分からない。流石に飲ませ過ぎたせいかはいつの間にか俺の腕の中で気を失うかのように眠っていた。ここに来る前に仕事を終えてきたと言っていたため、疲労も溜まっていたのかもしれない。無理をさせてしまったという反省の気持ちは多少あるものの、後悔はしていなかった。

 が相馬の車から降りて来たのを見た時、真っ先に『何故』という言葉が頭をよぎった。よくよく考えてみれば俺と付き合いの長いは必然的に相馬とも顔見知りで、別に車で送迎されることだってそこまで驚くようなことじゃない。問題はその先だった。

 車から降りてクラブの階段に向かうの腕を相馬が取り、自分の方へ引き寄せた。肩を抱いて顔を近付けて、それこそまるで恋人同士かのように。そしての混乱しているような困惑したようなあの表情だ。俺の前ではあんな顔を見せたことがない。アイツはいつだって無表情か、もしくはその無表情に少しだけ悲しみを混ぜたような陰気な顔しか俺には見せないというのに。

“阿久津さんは独占欲ヤベーからな”

 いつだったか顔も名前も知らないような下っ端のメンバーが小声で言っていた台詞を思い出す。そう、これは醜い嫉妬と独占欲だ。自分でも良く分かっている。俺は自分の女でも何でもないを独占したかった。気が付けば無理矢理に口唇を塞いで酒を飲ませ、その体を抱き締めていた。本当にろくでもない。

 腕の中で眠るの体をゆっくりとソファに寝かすと、腕時計で時刻を確認した。相馬に言われていた時間まではまだ余裕があるが、そろそろここを出た方が良いだろう。俺は近くにあったブランケットをに掛けると、気持ちよさそうに眠る寝顔を見つめた後にその頬を軽く撫でる。もう一度キスをしたいと思った。あれだけ頑なに避けていたくせに自分は本当に愚かだなと自嘲したくなる。

 を起こさぬように静かに部屋を出ると、外で待機していた部下たちに声をかける。顔見知りの数人が俺の後を着いてきて、俺たちはそのまま横浜の伊勢佐木異人町へと向かった。そこで相馬が追っている『喜多方悠』という人物の確保に協力する。それが指示されていた仕事だった。まだ前回の指示である『川井信也』の情報も掴み切れていないというのに他の人間に標的を変えろなどと言われ混乱はしたが、それでも相馬に反論する気にはなれなかった。

 相馬が考えた計画通り、喜多方をおびき寄せるために澤陽子という女を餌として利用することにした。女を暴力と恐怖で支配することに多少の抵抗はあったが致し方ない。澤陽子の部屋で待ち伏せし、罠にかかった喜多方を捕らえる。完璧なはずに見えた作戦だったが、それは失敗に終わった。あの八神がやってきて俺たちの邪魔をしたからだ。喜多方にもまんまと逃げられて、隙を見て八神を拉致したのは良いものの、たいした情報は持っていなかった。

 八神が現れたことは完全に想定外だったが、相馬は全ての責任は俺にあると言いたいようだった。何もかもが思うようにいかず腹が立つ。全てはこの八神という男に原因があると思った。RKが管理する倉庫に引き込み、身動きが出来ぬように椅子に固定したその姿は間抜け以外のなにものでもない。血まみれになってこちらを睨みつけている八神を見ていると、あの澤陽子という女を連想した。どうやら八神は澤陽子を助けようとしているようで、たかが探偵風情が正義のヒーローを気取っているのかと馬鹿にしたい気持ちになる。何が女だ。何が男だ。全てに対して無性にいら立って仕方がなかった。

 ほとんどが拷問に近い尋問を終えた相馬は、八神の後始末を俺に任せた。

「じっくりと時間をかけて地獄を味わってもらうぜ」

 腰を折り、目線を合わせるようにしながら顔を近付けて言っても、八神はひるむことをしなかった。ただ変わらない表情のままこちらを睨み続け「お前らは異人町でなにをしている」だとか「何故桑名を追っている」だとか質問をぶつけてきたが、何一つ答える気はなかった。

 八神の首を掴み、体を椅子ごと思い切り地面に引き倒す。そのまま腹部に強い蹴りをお見舞いしたあとに、顔面を踏みつけた。自分の行いをまるで他人事のように感じながら、ふとに『物に八つ当たりするのはやめて』と言われたことを思い出す。確かあれは海藤をRKに勧誘したが、取りつく島もなく突き放された時のことだ。俺は募るいら立ちを解消させようと目の前にあるテーブルを蹴り飛ばした。テーブルはけたたましい音を上げながら数メートル前方に飛び、床にぶつかって足が折れた。

 いま俺の足元に転がって苦しそうな表情を見せている八神は、あの時のテーブルと同じだ。蹴飛ばして、足を折ってしまえば俺の気は晴れるだろう。だったら『人に八つ当たりするのはやめて』と言って俺を咎めるだろうか。こんな瞬間にもアイツのことを思い出してしまう自分に反吐が出る。

 憂さを晴らしているはずなのに何故か怒りがこみ上げ、俺は部下にチェーンソーを持ってこさせる。グリップを引くとエンジンがかかり、稼働音が倉庫内に響き渡った。刃を回転させながら白い煙を吐き出す機体を見ていると、興奮からか心拍数が上がっていくのが分かる。これで八神の指も腕も足も、全てを切り落とせば俺の気持ちは晴れる。そう違いないと思いたかった。

 しかしそんな『八つ当たり』すらも今の俺には許されなかった。チェーンソーの音に紛れて重低音が聞こえる。それは背後にある倉庫の扉が開いた音だった。振り返り確認すると、海藤と奴の仲間らしき白い仮面を着けた男がゆっくりとこちらに近付いてきていた。

「うちのター坊がずいぶん世話になったみてえじゃねえか、阿久津」

 海藤は眉間の皺を深くし、こちらを睨むように見ながら言う。こみ上げていた怒りが更に上へと昇っていく感覚がした。海藤と八神。こいつらはいつも俺の邪魔をする。海藤を誘い込もうとすれば八神に邪魔をされ、八神を始末しようとすれば海藤に邪魔をされる。どうして俺と相馬はこうなれないのかと一瞬思うも、そんなしみったれた感情を持つことは自分らしくないと思い、考えを振り払うかのように手に持っていたチェーンソーを持ち上げた。

 “あの時”と同じように部下たちは次々とのされていった。八神の固い拳が一発、二発、三発と俺の顔面に直撃し、鼻や口から血がこぼれ出す。衝撃で辺りに散っていくそれは俺の服に赤いシミをいくつも作った。口の中に広がる鉄の味が不快で、またしても俺はを思い出した。アイツの口唇は安く質の悪い酒の味がしてとてつもなく不快だった。こんな状況であるのに、ああとキスがしてえな、と呑気にも思ってしまう。

 力尽き八神に引き倒され、抵抗することも出来ないように見せかけ余力を残していた俺は、隙を見てその場から逃げ出した。倉庫の重い扉を押し開け外に飛び出すと、走りながら待機させていた部下に電話をかけ車を寄越させた。ひとまずは安全な場所に行き、相馬に連絡を取るべきだと考え、神室町に戻るよう運転手に指示をする。車内で血にまみれた顔を拭いたが、いくつかは既に固まっていてぬぐいきれなかった。小さく「クソが」と呟く。口の中に広がる不快な味はいつまでも居座り消えそうになかった。

 クラブに戻ると、出入口で見張りをしていた男にぎょっとした顔をされた後、「どうしたんですか!?」だとか「大丈夫ですか!?」などという言葉を一斉に浴びせられる。うざったさを感じ全てを無視して店内に入った。ひとまずはこの血にまみれた服を着替えようと思い適当な個室に入ろうかと考えていると、誰かが俺の服の裾を引いた。

 振り返るとそこにはが立っており、どこか悲しそうな表情で俺を見上げていた。見慣れた陰気臭い顔に安心感を覚えつつも、同時に収まりつつあったいら立ちが再び姿を現わす。俺はの手を振りほどきながら「なんだよ」とだけ口にした。

「血、いっぱい出てる。手当てしなきゃ」

「いらねぇよそんなもん。ほっときゃ止まる」

「だめだよ」

 ははっきりとした声で言うと、俺の腕を掴み強い力で引っ張った。強い力と言っても女ごときのひ弱な腕だ。抵抗し振り払うことなど容易い。しかしどうしてかに触れられ、掴まれたこの腕を離すことを惜しいと思ってしまい、俺は黙っての後を着いていった。

 見慣れた個室に入りソファに座るよう指示される。チッと小さく舌打ちしながら腰掛けるとすぐ隣のスペースにも同じように腰を下ろした。いつの間に運び込んだのか救急箱らしき物を手にしており、普段は酒の瓶が並ぶテーブルの上にそれを置く。は中から消毒液やガーゼを取り出しながら、俺の顔色を窺うようにこちらを見た。

 は救急箱の中からウエットティッシュを取り出し、俺の顔を拭き始めた。滲み、固まってしまった血が溶けだしていくような感覚がする。鼻血は既に止まっていた。

「……相変わらず何も聞かねんだな、お前は」

 何も言わずに黙っているに思わずこぼす。そういえばコイツは以前からずっとこうだったと昔のことを思い起こした。俺がどこの誰と喧嘩をしようが、どれだけ人を痛めつけようが、どれだけ人から叩きのめされようが、いつだって何も言わず何も訊かずただ黙って血にまみれた俺の手当てをした。

 は呆れているかのように小さく溜息をつくと、俺の顔を拭いている手を止める。

「昨日、相馬さんが大夢を借りていくって言ってたから、何かあるんだろうなって覚悟はしてたよ」

 相馬という名前が耳に突き刺さる。そして同時に昨夜の光景を思い出した。が相馬の車から降りて来たこと。相馬がの体に触れていたこと。混乱しているような困惑しているような表情を見せていたこと。俺に見せない顔を相馬に見せていたこと。何もかも脳に焼き付いて離れない光景だった。

「相馬と何を話した?昨日」

 俺の問いにの肩が小さく震えたのが分かった。俺から目線をそらし、瞳を右へ、左下へと動かす。それは言い難いことがある時のの癖のようなものだった。何も答えず黙ったままのの腕を掴み顔を近付けて凄む。

「俺には言えねぇってか?相馬とお前、二人だけの秘密かよ」

「違う、そうじゃなくて、その……、」

「やっぱり言えねんじゃねぇか」

 は何かを隠している。分かり切った態度と困ったように俺を見つめる表情に心底腹が立つ。ここを出て横浜に行ってからというもの今日はいら立つことばかりだ。大きな成果もあげられず、何も成し遂げられない自分に何よりも一番腹が立つ。海藤をRKに誘い入れることも、川井信也を探し出すことも、喜多方悠を捕らえることも、八神をこの手で始末することも、惚れた女を自分のものにすることすら、何もかも叶えられない。

 掴んでいた腕を放すと、俺は距離を取るようにソファへ座り直した。拳一つ分程度の距離がひどく大きなものに感じてしまう。

「テメェは『ヤクザの女』になりてぇんだろ。だったら相馬にしてもらえ。お前のことを気に入ってるみてぇだしな。ちょうど良いんじゃねぇか」

 まくし立てるかのように早口で言ってから、フンと鼻を鳴らす。は俺からそらしていた目線を上げてこちらを見た。コイツとの付き合いは長い。それこそこの関係がいつから始まったのか思い出せないくらいだ。そんなが今までに見たことがないくらいに悲しそうな顔をしていた。目に涙は溜まっていないように見えたが、今にも泣きだしそうな表情だった。

 俺はが涙を流している姿を見たことがない。今までにどんなことがあろうと、表情を曇らせることはあっても泣くことはしなかった。コイツは泣くことが苦手なのだろうと勝手に思い込んでいた。初めて見る顔に心が大きく揺れ動いたのが自分でも良く分かった。

「私は……、」

 絞り出したような声は少しだけ震えていた。悲しそうな表情のまま俺から目線をそらし、瞳を右へ、左下へと動かす。ああまただ、と心の中で呟いた。

「私は、『ヤクザの女』になんか、なりたくない」

 は吐き捨てるように言うと、持っていたガーゼを俺に向かって投げ捨て、部屋を出て行った。ドアの閉まる音が部屋に反響する。鼻血は止まり顔の血は拭き取られたものの、口の中に広がる不快な味は変わらないままだ。ボコボコになるまで殴られ血まみれになっていたあの時と同じように、ああキスがしてえなと思うも、その相手はもうこの部屋には居ない。俺は唾を吐きたい気持ちをおさえながら、自分の口唇を舌で舐めた。