きみの名と夜を跳べたら - 1

 遠い昔、あの人と一緒に過ごした日のことを夢に見た。ジャングルジム、滑り台、ブランコなど定番の遊具が並ぶ公園で、日が暮れるまでずっと一緒に遊んでいた。辺りが暗くなると家に帰らなくてはいけなかったため、幼かったあの頃の僕は「夜なんか来なければいいのに。そうすればこのままずっと一緒に遊んでいられるのに」なんてことを考えていた。馬鹿みたいだ。大人になった今は毎日、毎時間、毎秒のように、夜が来ることを待ち望んでいる。

 僕が二十二歳の年、姉貴が死んだ。当日のことは今でも鮮明に覚えている。当時ひきこもりのニートだった僕は、ドアに鍵をかけ窓も締め切った埃っぽい部屋に閉じこもり、そこを自分だけの世界として生きていた。ある日の夜、ドアを拳で叩くような大きな音が何度も聞こえたかと思うと、向こう側からすすり泣くような声がした。「絵美が、絵美が」と泣きながら姉貴の名を何度も呼んでいるのは母さんの声だった。

 絵美の遺体は損傷が激しく、医者から「見ない方が良いかもしれません」と言われた。しかし僕はそれを突っぱね絵美の死に顔を見た。後悔なんかしなかった。ただその時に思ったことは、悲しみ、怒り、憤り、様々な感情を通り越した境地に辿り着いた人間というものは、涙の一粒も零れないのだなということだった。

 絵美を殺した大久保新平に下された判決は死刑。当然だと思った。死刑なんかじゃ足りないとすら思った。包丁で絵美を何度も何度も刺し、火までつけた大久保はずっと無罪を主張し罪を認めなかった。そしてそんな大久保の弁護人は最後の最後まで僕たち遺族に謝らなかった。全てが憎かった。自分も含めこの世の全てを恨まなければ息をすることすらままならなかった。

 何故、どうして絵美がこんな目に合わなければいけなかったのか。絵美は親にすら見放されていた僕をいつも気遣ってくれた。いつだって優しかった。僕なんかよりもよほど価値のある人間で、ただ真っ当に生きていただけなのに、どうして命を奪われなければいけなかったんだろう。大久保は最後の最後まで絵美を殺した理由を口にしなかったため、真実など何も分からなかった。

 裁判が終わり判決が出てから数か月経っても、僕は相変わらず部屋に閉じこもり続けた。いまさら涙なんか出ないし、絵美のことも大久保のことも、大久保を弁護した八神隆之という弁護士のことも、何もかも考えないようにしていた。そんなある日、部屋のドアをノックする音が聞こえた。僕の部屋を訪ねるのは大体が母さんだが、絵美が死んでから母さんが僕の様子を見に来ることも少なくなった。珍しいなと思いつつも無視を決め込むと、再びノックの音が響く。

「文也くん。だけど。居るんでしょ? 少し話さない? 」

 ドアの向こう側に居るのは母さんではなかった。さん。彼女は近所に住む昔からの顔なじみだった。絵美とは同い年で仲が良く、頻繁に家に遊びに来ていた覚えがある。そういえばさんは裁判を傍聴していたのだろうか。何人かの顔見知りが挨拶に来たような気はするが、自分のことでいっぱいいっぱいだったためほとんど忘れてしまった。

 返事をしないでいると、再びノックの音がした。恐らくさんは僕がドアを開けるまでノックを続けるのだろう。この人はそういう人だ。僕を遊びに誘ったり、何かと色々質問してきたり、昔からとにかくしつこい人だったという記憶がある。

「文也くん。ドアあけてってば。居るの分かってるんだよ」

 ノックの感覚が短くなり音も大きくなってきて、僕は観念してドアを開けた。長く伸び切った前髪の向こう側にさんの綺麗な顔が見える。

「……なんの用? 」

 ただ一言小さく呟いた。威嚇も込めた言葉だったが、さんはそれにひるむことなくこちらに手を伸ばし、僕の頬に触れる。柔らかい手の感触とぬくもりに胸の奥がじんわりと温かくなるような気がした。それは久しぶりの感覚であまりにも心地良く、手を振り払うことが出来なかった。

「文也くん、顔色悪いよ。ちゃんと食べてる? 」

 問いは無視をしたが答えるならばノーだ。お腹はすかないし別に食べたい物があるわけでもない。食欲も睡眠も性欲も何もかもがどうでも良かった。何かを感じることなどしたくなかった。

「私、色々作って持ってきたんだ。良かったら一緒に食べない? 文也くんの好きなお菓子もあるよ」

 さんはそう言うと、片手に持っていたビニール袋を胸程の高さに上げた。袋の中にはいくつかのタッパーとお菓子の箱らしきものが透けて見える。食欲はないし好きなお菓子にすら何の魅力も感じない。たださんは僕がイエスと言うまでここから動きそうになかったし、気晴らしになればいいという思いで彼女を部屋に入れた。

 さんは部屋に入るなりローテーブルの上に袋を置くと、中から小ぶりのタッパーをいくつかと箸を取り出した。見る限りは唐揚げ、肉じゃが、ロールキャベツの三品で、どれも僕の好きな物ばかりだ。さんは冷たく硬い床へ直に腰を下ろしながら「ほら、食べよう」と嬉しそうに口にする。その能天気な表情が癇に障った。

さんは元気そうだね」

 隣に腰を下ろしながら言う。本当は隣になんか座りたくなかったが、この狭い部屋では致し方ない。ただ隣り合わせに座ることによって彼女の表情が見えなくなるのは好都合だと思った。これ以上さんの笑った顔なんて見たくない。

さんは、絵美が死んだのに悲しくないの? 」

 分かっている。これはただの八つ当たりだ。いくら絵美の親友とは言え親族でも何でもないさんがいつまでも悲しんでいるはずがない。彼女が元気でも笑顔を見せていても僕にとってはどうでもいい。結局は赤の他人だ。それは分かっているし割り切っていたはずなのに、何故か頭にきて仕方なかった。

 問いに対する返答はなく、痛いほどの沈黙が部屋に訪れる。そして隣からぱたり、という微かな音が聞こえ、さんを見ると顔をくしゃくしゃにして泣いていた。あまりの驚きに声が出なかった。

「悲しくないわけないでしょ」

 震えた声でさんは言った。何度も顔を歪ませながら短く呼吸をし、大きな瞳から涙をこぼし続け、その涙は頬を伝い顎からぽたぽたと彼女の膝の上に落ちて行く。その様子を見ていると胸の奥が狭くなるような気がした。

「絵美は、私にとって家族みたいだったから、大好きだったから、まるで自分が半分なくなっちゃったような、体を切り裂かれたような、そんな感じだよ。今でも毎日、なんで絵美がって思ってる。たぶんこの先もずっと」

 絵美が死んで周りが見えなくなっていた僕は、その時に初めて家族以外で絵美の死を悼んでいる人を見た。絵美は本当に優しくて、芯が強くて行動力もあって、不愛想なため誤解を受けがちではあったが本当の絵美を知ればみんな好きになる。そんな誰からも愛されるような人だった。だからきっと今までにもこんな風に悲しんでくれた人は何人も居たんだろう。

 気が付くと僕の頬にさんの手が触れていて、自分が涙を流していることに気が付いた。絵美が死んだと知らされた時も、絵美の死に顔を見た時も、絵美の葬式の時も裁判の時だって一粒も零れなかった涙がこの瞬間に溢れ出す。さんの手の甲の上を涙が伝っていき、ぽたりと落ちる音がした。

「文也くんにはここで立ち止まって欲しくない、壊れて欲しくない。あなたが心配なんだよ。絵美と同じくらい、私にとって文也くんも大切だから」

 さんはそう言うと、頭を抱えるようにしながら優しく抱きしめてくれた。僕の涙が彼女の胸元に落ちては消え、落ちては消えを繰り返す。心の奥底に溜まった悲しみが涙に変わって外へ流れ出ていくように感じた。

さん」

 名を呼びながら背中に腕を回し、細い体を強く抱きしめ返す。いっそこのまま一つになりたいとすら思った。

「ずっと傍に居て。僕から離れないで。この先もずっと……、僕が良いって言うまで、ずっと」

 胸に溜まった思いを口に出した。さんは小さく「うん」とだけ返事をすると、僕の背中を優しくさする。彼女の胸元から香る優しいにおいに包まれて、僕はひたすらに泣き続けた。

 誰とも関わらず親にも見放された僕を、絵美以外の人間で大切に想ってくれる人なんてもう居ないと思っていた。「絵美と同じくらい私にとって文也くんも大切だから」。その言葉が頭のなかをこだまする。僕はこの世に絶望する理由を見失ってしまった。