きみの名と夜を跳べたら - 2

 あの日からというもの、さんは頻繁に僕の部屋に来るようになった。体調を心配しているのか野菜が沢山入った料理を作って持ってきたり、外に遊びに誘われたりした。

 長いひきこもり生活により長く伸びた髪を邪魔に思っているとさんが店を紹介してくれて、僕は数年ぶりに美容院に行き髪を切った。カットのみだったが後に「文也くんは明るい髪色とかが似合いそう」とさんに言われ、次はカラーもしてみようかななんて思ったりもした。

 分厚い眼鏡をやめてコンタクトにしようと提案したのもさんだった。生まれて初めてのコンタクトは本当に痛くて、自分でも驚くぐらいに涙が出た。お店の外で待ってくれていたさんと顔を合わせた時、僕の目はウサギのように真っ赤だったらしく、しばらく笑われた。

 一緒に洋服を見に行ったこともあった。さんは僕の服装をずっと「ダサい」とか「オタクみたい」なんて言って馬鹿にしていたので、そこまで言うならコーディネートして見せてよと振ってみた。ファストファッションのお店に行き、さんが適当に手に取った服を試着室で着てみた時は、自分が別人かのように見えて本当に驚いた。シンプルなパーカーやストレッチのきいたパンツなど、そんなありがちな組み合わせであるのに彼女が選んだ服は全てが完璧で、尚且つ自分に似合っているように見えた。

 そんな風にしてさんと何でもない普通の日常を過ごしていたが、僕の頭の中には常に大久保が居た。殺人事件でどこかの誰かが犠牲になっただとか、過去の犯罪者の死刑が執行されただとか、そんなニュースを見るたびに絵美を思い出し、同時に大久保への恨みも思い出した。さんと楽しい時間を過ごしていてもそれは変わらず、僕 はきっと死ぬまでこの想いに囚われ続けるのだろう。

「文也くん、パルクールって興味ない? 」

 ある日のこと、さんは問いかけたにも関わらず僕の答えを聞くよりも先に一つの動画を見せてきた。それは男性が筋力トレーニングをしているシーンから始まり、急に走り出したかと思うと体を縮めて窓から飛び出し着地。そして今度は階段の手すりを乗り越えどんどんと階下へ下りてゆく。次にビルに沿って設置されたパイプを軽々と上り、屋上へ到着すると建物から建物へと飛び移っていく様子が映っていた。衝撃だった。人間はこんなにも身軽に、それこそ漫画に出てくるスーパーヒーローや忍者みたいに動けるものなのだろうか。

「私、大学のサークルでちょっとやったことあるんだけど楽しかったから、文也くんもやってみない? 私たちお互いに運動不足だし丁度いいかなって」

「やってみない?って簡単に言うけど……こんなのどこでどうやってやるの? お金もかかるんじゃない? 」

 そう言うとさんはまるで、よくぞ聞いてくれましたとでも言いたげなしたり顔を見せる。そして先ほどとは違う動画を再生し始めた。そこには公園の遊具や段差を使ってパルクールとやらを練習する男性の姿が映っている。

「え……まさか、公園に行こうって言うの? 」

 恐る恐る問うと、さんは嬉しそうに笑いながら首を何度も縦に振る。その提案には素直に賛成出来なかった。もうとっくに成人もしている良い年齢の大人が二人、いまさら公園で遊ぶなんて周りから変な目で見られるに決まっている。

 どう返答しようかと迷っていると、さんはいつの間にか僕ではないどこか遠くの方を見つめていて、それはまるで昔を懐かしんでいるような表情に見えた。

「ちっちゃい頃はさ、絵美と私と、文也くんの三人で公園で遊んだよね。日が暮れて、夕焼け小焼けの放送が流れるギリギリまでずーっとさ。楽しかったなぁ」

 絵美。久しぶりにさんの口から出た名に思わずハッと息を飲んだ。平然を装おうとしたがきっとさんには動揺を悟られているだろう。何故かそれが悔しくて、僕はさんを睨むように横目で見た。

「そんな昔のこと……、もう忘れたよ」

 真っ赤な嘘だった。絵美とさんと僕の三人で遊んだこと。女の子二人のおままごとに付き合わされたこと。日が暮れるまで何度も追いかけっこをしたこと。忘れるわけがない。

 さんはどこか寂しそうに微笑み、目を伏せながら「そっか」と小さく呟く。その表情があまりにも悲し気に見え、嘘をついたことを後悔した。何か言わなくてはと考えるも気の利いた言葉などは頭には浮かんでこず、喉の奥で何かがつっかえたように声が出なくなる。

 さんは急に目線を上げ僕の方を見ると、まるで何かを言い聞かせるかのように人差し指を立てた。

「それじゃあ明日の朝六時に公園に集合ね! 遅刻したら罰ゲームだから! 」

 大きな声が響き渡ったと同時に、さんは足早に部屋から出て行った。ドアの向こう側から廊下をバタバタと走る音と、母さんが「ちゃんもう帰るの? 」などと声を掛けているのが聞こえる。

 僕だけになった部屋は痛いくらいに静かで、さんが居なくなったことによって空気が冷たく、重く感じた。

「朝六時とか早すぎでしょ……。子供のラジオ体操じゃないんだから」

 僕は独り言を呟きながら、絵美と、さんと、自分が子供だった頃の姿を思い出して少し笑った。